いのち短し 恋せよ乙女

 今日は、天気が良かった。散歩の帰り道、コンビニが外に設置している灰皿でちょっと一服しようと立ち寄ったら、店のオーナーだろうか、制服を着た70代後半の女性が灰皿を清掃なさっていた。手が冷たいだろうに、丁寧に水で洗っていた。「ありがとうございます」と言って、吸い殻を灰皿に捨てた。

 何も買わないのは申し訳ないと思って、買い物したら、クーポンが2枚出てきて、ペットボトルのコーラとココアを2本貰った。ラッキー!


 さて、堺屋太一の小説『団塊の世代』がきっかけで、1947年・1948年・1949年の第一次ベビーブーム期に生まれた世代のことを「団塊の世代」と呼ぶようになった。現在 76〜78歳の人たちだ。


 団塊の世代は、人数が多いため、受験や就職など、競争が熾烈で、高度経済成長を支える一翼を担う一方で(本当に高度経済成長を支えたのは、戦前に教育を受けた世代だった。)、左翼学生運動、労働運動、ヒッピー文化、ロック・フォーク音楽、マイカー・マイホームブーム、旅行ブーム、大量消費文化などを牽引し、戦場に散った英霊たちが守ろうとした古き良き日本社会を、粗野で、退廃的で、礼儀知らずで、軽佻浮薄で、低俗なものへと改悪した。


 散々社会を混乱に陥れた団塊の世代は、終身雇用・年功序列の恩恵を最も受けた世代であり、老齢になって社会保障の恩恵を最も受け、下の世代にツケを回して、今まさに逃げ切ろうとしている。


 小学生の頃から、私は、団塊の世代が大嫌いだ。両親は、戦前生まれで、どちらも武家の出だ。武家教育を受けた私にとって、団塊の世代の連中のやることなすこと全てが不愉快極まりなかった。


 小学生の頃は、社会全体が左翼一色で騒々しかった。団塊の世代に当たる学生たちは、勉強もせずに左翼学生運動にのめり込み、ヘルメットを被って、ゲバ棒や火炎瓶で何の罪もない警察官を死傷させ、内ゲバをやりだし、リンチ殺人事件を起こしたり、飛行機をハイジャックしたり、爆弾テロを行ったりしていた。労働組合は、ストライキばかりやっていた。

 しかも、公害がひどく、目を世界に転じれば、ベトナム戦争や飢饉など、目を覆いたくなるようなニュースばかりだった。

 子供ながらに、社会全体が狂っているように思えた。


 歴史好きだったので、しばしば耳にする「資本主義から社会主義への移行は、歴史的必然である」という左翼の定番フレーズが興味深かった。

 資本主義とか社会主義とかは、正直に言ってよく分からなかったけれども、小学生なりに考えて、思ったことがある。

 「歴史的必然だったら、社会に迷惑をかける学生運動や労働運動なんかしなくたっていいじゃないか。あの連中は、バカか?」と思った。


 大学生になって、小泉信三『共産主義批判の常識』(講談社学術文庫)を読んで、我が意を得たりと思った。

 さすがに「バカか?」とは書いていなかったが(苦笑)、小学生の頃に思ったことが学者らしい表現で綴られていた。

 「もしも歴史的因果の系列が、絶対的に変更し難いものとして、将来に向ってすでに決定しているという意味において、必然的であるならば、一切の人間の努力、したがって社会運動は全く無意義であり、よし歴史は人間の心意を通じて経過するとしても、それがかかる絶対的の意味において必然的であるならば、それはあたかも「朝日よ、昇れ」、「四季よ、循(めぐ)れ」といって努力するにも等しいこととなるであろう」(109頁)


 今なお学生運動や労働運動をしている人たちがいる。

 「資本主義から社会主義への移行は、歴史的必然なのだろう? 

 だったら、学生運動や労働運動なんかせずに、歴史に任せて、日々の何気ない幸せを求めたらどうか? 

 「いのち短し 恋せよ乙女」と言うではないか。」


 ゴンドラの唄(大正4年)。

 昭和27年(1952年)、黒澤明監督の映画『生きる』において、志村喬が演じる主人公が、公園のブランコに乗って「ゴンドラの唄」を口ずさむシーンが印象に残っている人もいよう。

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