ユーモアとエスプリ

 先日は遠藤周作について、昨日はフランス語について書いて、ふと思い出したことがある。また忘れそうなので(苦笑)、書いておく。


 昔からフランス人やアメリカ人などの外国人や外国かぶれの日本人から「日本人にはユーモアのセンスがない」と言われ続けている。

 日本には、そもそもユーモアという概念・文化がないのだから、日本人にユーモアのセンスがないのは当然であって、非難される謂れはない。ユーモアのセンスがなくても、日本には日本独自のお笑い文化や落書(らくしょ)があって、これで日本社会が上手くいっているのだから、多文化「強制」はやめてもらいたいものだ。

 逆に、日本人を非難する連中に対して「ユーモアとは何か」と問うて、即答できる人はほとんどいないのではないか。その程度の連中だということだ。


 辞書を引いても無駄だ。辞書を書いている人自身が理解していないのだから。例えば、『デジタル大辞泉』(小学館)は、「人の心を和ませるようなおかしみ。上品で、笑いを誘うしゃれ。諧謔 (かいぎゃく) 。」と定義しているが、これで「ユーモア」を理解できる人はいまい。

 

 私が一番腑に落ちた説明は、中学生のときに読んだ遠藤周作『ぐうたら漫談集』(角川文庫)の説明だ。老婆心ながら、少し長いが引用する(83頁から85頁)。

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 心ならずも笑われる者がいる。しかし、また意識して笑われようとする者もいる。道化師(どうけし)、もしくは道化た者がそれである。道化師であるためには、相手にまず優越感を与えねばならぬ。

 そして自分を意識して劣者の立場におく。それだけでは足りぬ。相手を笑わすためには演出が必要である。そして道化師はその演出によって相手を笑わせる。相手は「自分なら決してそんなバカをしないのに」という優越感を感じながら笑う。

 しかしこの時、演出にひっかかったのは笑ったほうである。笑った方には計算がないからである。

だが笑われた方には計算がある。のみならず、彼は自分が本当はバカではなく、わざとバカを装っているのだということを知っている。

 この時、両者の位置はいつの間にか逆転しているのだ。笑った方は笑わした方の計算と演出におどらされたのだから、いわば劣者の支配下にあるのだ。しかも彼はそれに気づいていないのである。だから道化師ー、つまり笑われる方が実は支配者であり、優者なのであり、笑う方は実は被支配者であり、劣者なのである。

 この点は非常に大切である。なぜならそこからユーモアというものの本当の定義がきまるからである。

 アンドレ・モロアの定義によるとユーモア精神とは一つの批判精神にほかならない。ユーモアとは自分を劣者の位置において、権威や権力やそれをもった人間を嘲(あざけ)ることにほかならない。

 ユーモア批判の最も有力な武器は「真似(まね)」である。権力や権威ある者の癖や身ぶりを拡大して真似ることによってそれを滑稽化(こっけいか)し、それを低次元に引きずりおろし、その裏側にあるものをはっきりと露出することなのだ。

 ヒットラーの癖や身ぶりを真似るだけでも人々は笑う。それを誇張して真似ればもっと笑う。その時、ヒットラーの持っていた権威や威厳はたちどころに消滅し、そのかわり、きわめて滑稽な人物が同じ顔、同じ姿をもって出現する。これは観察と演出がなければできぬことであり、同時に批判なのである。ユーモアは本来、そういうものなのだ。しかし、その真似をする者はいつも劣者でなければならぬ。出来れば馬鹿を装っていなければならぬ。なぜなら馬鹿がヒットラーの真似をすれば、それを見る者は余計に笑い、ヒットラーにたいして優越感を持つことができるからである。

 したがって、もう一度、繰りかえせばユーモアとは自分を劣者の位置におき、優越者の力や権威を嘲ることにほかならない。

 エスプリ批判はこれとは全く反対である。仏蘭西語の辞書でエスプリという字を引くと「才気、機智」などという日本語が出ているがこれは曖昧(あいまい)だ。エスプリとはユーモアが劣者の位置に身をおくのとは全くちがって、自分を、批判する対象よりも高い地点において上からスパッと相手を裁断することである。人を刺すような言葉、相手の弱点を貫く警句は既にそれを言う者が相手より高い場所にいてこそできるのである。ユーモアは全くこれとは反対だ。自分を劣者におくのがユーモアなのである。

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 例えば、チャールズ・チャップリンが「ヒトラーという男は、笑いものにしてやらなければならないのだ」として、映画『独裁者』(1940年)を製作したが、これがアンドレ・モロアや遠藤の言うユーモアなのだ。

 ユーモアは、世間で誤解されているような「人の心を和ませるようなおかしみ。上品で、笑いを誘うしゃれ。」などでは決してなく、嘲笑なのだ。


 しかし、注意が必要だ。自分を劣者において、権威や権力やそれをもった人間を嘲るユーモアには危険が伴うのだ。

 高校で英語を教えてくださった男先生の口癖は、「通例、英米では〜」だった。英語の発音は、『カムカム英語』みたいでご自身もお手本にならぬとお考えになったのか、生徒のスピーキングとヒアリングを向上させるためか、毎回、ネイティブ・スピーカーのカセットテープを聞かせてくださった。

 ある日、教室移動のため、友人たちと雑談をしながら階段を下っていたら、友人がこの先生の発音の悪さをネタにし、英米で通用するのだろうか、いつも英米って言うけど英米に行ったことがあるのだろうかと言うので、おどけて私が「通例、英米では〜」とモノマネしたところ、あまりに似ていたので、みなが大爆笑した。何か視線を感じて、ハッと後ろを振り返ったら、この先生がいたッ!

 以降、毎回、授業で当てられるはめになった。。。



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