1 英国におけるアマチュアリズムとプロフェッショナリズム
amateurismアマチュアリズムとは、「芸術、芸能、スポーツなどで、営利を目的とせず、あくまで楽しみのためにするという態度。アマチュア精神。」をいう(『精選版 日本国語大辞典』小学館)。
このアマチュアリズムは、スポーツの文脈で語られることが多い。プロスポーツへの対抗から生まれた概念だからだ。
すなわち、オードリー・ヘップバーン主演の映画My Fair Lady『マイ・フェア・レディ』(1964年)を見れば明らかなように、英国は、他のヨーロッパ諸国と同様に、階級社会であって、上流階級は、ポロ、テニス、ラグビー、ゴルフなどを好み、労働者階級は、サッカーを好むという風に、階級によって、言葉遣いや立ち居振る舞いだけでなく、趣味嗜好も異なる。我々日本人には想像できないぐらい違う。
労働者階級は、サッカーのプロリーグを結成し、スポーツを金儲けの道具にした。本来、sportsスポーツは、ラテン語のdeportareデポルターレ「(仕事や義務でない)気晴らしをする、休養、遊び、楽しむ」が語源だから、これを仕事にするなんて本末転倒であって、あり得ないと考えた上流階級は、プロスポーツを軽蔑した。
そして、上流階級は、テニスやゴルフなど、スポーツのクラブ制(会員制)を作って、厳格な入会審査を行い、労働者階級を入会させずに、アマチュアリズムを貫いた。
また、パブリックスクールでは、アマチュア精神が教育理念の一つとして重視された。勝敗よりも名誉を重んじ、スポーツマンシップ、フェアプレーを尊び、スポーツを通じて人格を陶冶(とうや)し、ノブレスオブリージュを身に付け、心身のバランスが取れたgentlemanジェントルマン「紳士」の育成を目的としたスポーツが行われた。
このようにアマチュアリズムは、営利目的のプロスポーツ・professionalismプロフェッショナリズムに対する上流階級の差別意識から生まれた概念なのだ。
換言すれば、アマチュアであることは、上流階級の特権だったと言っても過言ではない。
それ故、1998年のオリンピック・ソウル大会で初めてプロ選手の参加が認められ、2003年、入れ墨を入れたプロサッカー選手であるデビット・ベッカムが大英帝国勲章(OBE)第12等勲爵士を授与され、2005年にナイトの爵位を授けられ、Sir David Robert Joseph Beckham OBEと呼ばれるようになったのは、隔世の感がある。
2 日本におけるアマ(素人)とプロ(玄人)
これに対し、日本には、身分制度はあったが、階級社会ではなかった。身分によって言葉遣いも立ち居振る舞いも服装も異なったのは事実であるが、例えば、徳川将軍がプロの能楽師やプロの絵師を先生と呼んで、能や絵画を学んだように、日本では、英国のように、professionalプロフェッショナルを軽蔑することはなかった。「餅は餅屋」という諺があるように、プロフェッショナルは、尊敬を集めていた。
他方で、資本主義が発展し経済的に豊かになった江戸時代には、趣味の大衆化・平等化が進み、身分の上下に関係なく、俳句、川柳、狂歌、絵画、能、歌舞伎、長歌、小唄、三味線、尺八、盆栽などを楽しむアマチュアリズムが盛んになった。元祖オタク文化が花開いたのだ。
金魚や錦鯉は、アマチュアリズムによって生まれた典型例だ。黄表紙(小説)の作者は、アマチュアだった武士がプロフェッショナルになったケースが多い。浄瑠璃作家の近松門左衛門は、元武士だ。
『万葉集』があらゆる身分階層の和歌を収録していることから、渡部昇一先生が名付けた「和歌の前の平等」(『日本語のこころ』講談社現代新書)をもじれば、狭い茶室で、身分の上下に関わりなく、平等に茶を回し飲むように、アマチュアリズムに基づく「趣味の前の平等」が確立していたと言ってもよいだろう。
要するに、英国では、プロは労働者階級であるのに対し、アマは上流階級であるから、両者の間には、階級対立と越え難い分断があった。
これに対して、日本では、プロとアマには、知識・技能・経験などの点で上下関係があり、プロは尊敬されていたが、両者の間には分断がなかった。アマは、プロに教えを乞い、アマからプロになる者もいた。
3 日本におけるプロフェッショナリズムの弊害
ところが、階級社会を背景とした英国発祥のアマチュアリズムとプロフェッショナリズムが、その階級的性格を理解されることなく、言葉のみ明治日本に移入されてしまった。
その結果、江戸時代以来のプロの方がアマよりも上だという意識がそのまま存続した。「プロ顔負け」・「玄人(くろうと)跣(はだし)」という表現は、プロ・玄人の方が上であることを前提としている。
そして、プロスポーツは、営利を目的としている以上、勝利至上主義に陥るのは致し方ないが、もともと日本では、プロとアマとの間に分断がないため、プロを見習って、プロの勝利至上主義がアマの世界に蔓延(はびこ)ってしまった。
例えば、高校野球は、アマチュアスポーツであり、かつ、教育活動なのに、野球留学・スポーツ推薦・特待生制度が行われ、学業よりもスポーツが優先され、勝つために毎日朝早くから夜遅くまで猛練習し、指導と称して体罰を行うことが日常茶飯事になってしまい、本来楽しむものであるスポーツの意義や人格陶冶という教育の意義が忘れ去られてしまったきらいがある。アマチュアスポーツのプロスポーツ化と言ってもいい。
パブリックスクールにおけるスポーツとは大違いだ。
このようなプロフェッショナリズムの弊害は、スポーツの世界にとどまらない。学問の世界でも顕著だ。
現代の学問は、専門化・細分化しているため、閉鎖的・蛸壺(たこつぼ)的にならざるを得ない面があることは、否めない。
しかも、我が国において、特に人文社会科学の分野では、日本学術会議のメンバー拒否問題で世間にも知られるようになったが、「左翼にあらざれば学者にあらず」であって、排他的な狭い世界(象牙の塔)で、学会の重鎮に逆らわず、波風立てず、生活のために研究し、ポストを手にいれることに汲々(きゅうきゅう)とする一方で、自分たちはIntelligentsiaインテリゲンチャ「知識人」であると称して、アマチュアを見下しているエセ知識人が少なからずいる。
例えば、評論家の山本七平『日本資本主義の精神』(PHP文庫)は、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)に匹敵する業績なのに、アマチュアが書いた本だとして、学会は完全にこれを無視しながら、その内容を剽窃(ひょうせつ)している論文・書籍がなんと多いことか。
ジャーナリストのウォルター・バジョット『英国憲政論』(中央公論社)は、アマチュアが書いた本だが、これを超える本を書いた日本の憲法学者や政治学者はいない。
政治家のエドマンド・バーク『フランス革命の省察』(光文社古典新訳文庫)、裁判官・政治家のアレクシ・ド・トクヴィル『アメリカの民主政治(上)(中)(下)』(講談社学術文庫)・『アンシャン・レジームと革命』(講談社学術文庫)・『フランス二月革命の日々』(岩波文庫)、政治家のハミルトン/ジェイ/マディソン『ザ・フェデラリスト』(福村出版)などは、いずれもアマチュアが書いた本だが、これらを超える本を書いた日本の学者はいない。
むしろ、これらアマチュアが書いた本を解説したり、引用したりして、売文している。
日本人のアマチュアが書いた本は、無視し、外国人のアマチュアが書いた本は、後生大事に飯の種にするダブル・スタンダードを矛盾とは思わない恥知らずがエセ知識人なのだ。
アマチュアは、アマチュアだからこそ、大学のポストや名誉や金のためではなく、抑え難い好奇心・愛好心に突き動かされて、専門の垣根を飛び超えて自由に思考を巡らし、思索を重ね、表現することを楽しむ。
例えば、推理小説家のギルバート・キース・チェスタトンの専門性にこだわらず常識を重んじる庶民的なアマチュアリズムは、『正統とは何か』(春秋社)・『棒大なる針小』(春秋社)などの著作に結実し、これらをして名著たらしめている。
パレスチナ系米国人の文学研究家エドワード・ワディ・サイードは、『知識人とは何か』(平凡社)で、アマチュアリズムを単なる素人・未熟として捉えるのではなく、知識の専門分化に囚われずに公共のために語る「自由な知識人」の姿勢として高く評価している。
このようなアマチュアリズムに基づくintellectual lifeインテレクチュアル・ライフ「知的生活」から生まれた人類の知的遺産が上記に例示列挙した『英国憲政論』などの書籍なのだ。
左翼の影響力が低下すれば、エセ知識人同士で褒め合い、ポストを分かち合うことがなくなって、ボスに阿(おもね)ていた日本の研究者に自由が回復するだろう。
タレントのさかなクンが東京海洋大学客員教授に就任したように、学問の世界が開かれた社会となれば、プロとアマが切磋琢磨し、世界的名著が誕生する日も近いだろう。
4 現代社会のアマチュアリズムとプロフェッショナリズムの危険性
他方で、スペインの哲学者オルテガ・イ・ガゼットが『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)で鳴らした警鐘に耳を傾けねばならない。
大衆は、無知であることを恥じず、知らないのに知っているかの如く振る舞い、自分の意見が正しいと信じて疑わない。専門的訓練や知的自己修養を経ていない大衆は、凡庸であるにもかかわらず、その凡庸さを正当化しようとする。
このようにアマチュアリズムには危険性がある一方で、プロフェッショナリズムにも危険性がある。
すなわち、学問の専門化・細分化により専門家が増えたが、その専門性は、狭く、専門外については無知であり、大衆と異ならない。
専門家には、全体を見渡す知的能力・教養・倫理観が欠如ないし低下している。オルテガは、このような専門家をBarbarian Specialist「野蛮な専門家」と呼んでいる。
SNS 等を通じて誰もが自由に発信できる情報化社会において、大衆がフェイクニュースや陰謀論を拡散したり、逆にこれを信じ込む危険性が高まっている。
他方で、科学技術が発達した現代社会において、野蛮な専門家が暴走して、人間性を欠如した合理性を追求し、人類を危険に曝(さら)す可能性がある。
我々は、これまで人類が経験したことがない異様な時代を生きているのだ。
オルテガの言葉で締めくくろう。
「過去は、われわれが何をしなければならないかは教えてくれないが、われわれが何を避けねばならないかは教えてくれる」(前掲書72頁)