石破前首相は、習主席を「大人(たいじん)」と評して、持ち上げている。
「大人(たいじん)」は、多義的であるが、通常、「徳の高い立派な人。度量のある人。盛徳の人。人格者。大人物。大物。」、「身分・地位の高い人。君主や貴人」、「先生・師匠・学者などを敬っていう語。また、一般に、他人を敬っていう語。」など、自分よりも偉い人を指すことが多い。
外交の場でよく行われるリップサービスだから、目くじらを立てる必要はなかろう。
ニコリともしない習主席は、中国共産党内の熾烈な派閥闘争を勝ち抜いて、14億人の中国人の頂点に君臨している独裁者だ。
石破前首相は、習主席に対して、「底知れない。一種の恐ろしさ」を感じたというのは、きっと素直な感想なのだろう。
なぜなら、「威圧感」、「底知れぬ深み」を感じたと繰り返し述べているからだ。
しかし、これは、習主席に気圧(けお)されている証左であって、日本国を代表する首相として情けない。
例えば、ウィンストン・チャーチル英国首相は、ソ連のスターリンに対して、ナチスドイツに対する軍事作戦を説明し、その協力を頼むため、命の危険を顧みず、自ら飛行機に乗ってモスクワを訪れた。
真の自由主義者(=保守主義者)チャーチル個人にとって、これは、不本意であり、屈辱であったであろうことは、次の文章から読み取れる。
「私はこの陰気で邪悪なボルシェヴィキ国への使命に、あれこれと思いをめぐらした。私はかつてはこの国の誕生に当たって、これを絞め殺すことに懸命に努力したし、ヒトラーが出現するまでは、文明化した自由の不倶戴天の敵とみていたのだ。いま彼らに何をいうのが私の義務だろう?」(W・チャーチル『第二次世界大戦3』河出文庫220頁)。
「われわれとしては常に彼らの邪悪な社会制度を嫌っていたので、ドイツの殻竿(からざお)が彼らの上に打ちおろされるまでは、彼らはわれわれが地上から一掃されるのを冷淡に見守り、東洋におけるわが帝国をヒトラーと楽しく分け合うつもりであったであろう。」(同書221頁)
チャーチル首相も、リップサービスとして、「私はクレムリンに着いた。ここで私は初めて偉大な革命指導者、達識のロシア人政治家兼闘士に会った。」と述べている(同書223頁)。
スターリンは、ソ連の独裁者だ。「ペレストロイカ後の情報公開によれば、1930年代のスターリンによる大粛清では、250万人が逮捕され、そのうち68万余が処刑、16万余が獄死したことが確認できる。 後述するNKVDの1953年統計報告によれば、1921年から1938年までの間に処刑されたのは74万5220人にのぼる。」(Wikipedia)
だからといって、チャーチル首相は、スターリンに気圧されることがなかった。
ただ、チャーチル首相とスターリンとでは戦争に対する考え方が相容れなかったため、スターリンを説得するのは困難を極めた。
すなわち、チャーチル首相によれば、「戦争は戦争であり、愚行ではないのだ。だれも助ける役を果たさないような災厄を招くことは、愚行というものだ」と考えた。
これに対して、スターリンは、「戦争に対する彼の見解は違うといった。危険を冒すつもりのない人間は、戦争に勝つことはできない。なぜわれわれはドイツをそんなに恐れるのか?彼にはそれがわからないというのだった。彼の経験によれば、部隊は戦争に際しては血を流さねばならないのだった。もし部隊を血に染めないというなら、その価値というものはなんであるかわからないのだ。」(同書225〜226頁)。自国民を大虐殺したスターリンにとって、兵隊の命など毛ほどにも思わなかったのだろう。
スターリンは、自国民の命など毛ほどにも思わない独裁者であったが、チャーチル首相の合理的説明を理解するだけの頭脳があった。
「それを聞くと、スターリンは急に「たいまつ」作戦の戦術的利益を理解したらしかった。彼はこの四つの主な理由を詳しく述べた。
第一、これはロンメルを背後から衝(つ)く。
第二、これはスペインを威圧する。
第三、これはフランス国内で、ドイツ人とフランス人の戦いを起こさせるだろう。
第四、これはイタリアを全面的に戦争の矢おもてに立たせるだろう。
私はこの注目すべき説明に感銘を受けた。これはいままで珍奇に思われていた問題を、ロシアの独裁者が直ちに完全に理解したことを示したものだった。われわれが数か月もの長い間取り組んできたこれらの問題を、わずか数分間で理解できる人間は、全く珍しいことだった。彼はそれを一瞬にして読み取ったのだ。」(同書230頁)
詳しい交渉過程は、前掲書に譲るが、チャーチル首相は、その後も粘り強くスターリンを説得した。
「私は彼の主張をきっぱりと論ばくしたが、少しも侮辱を与えるやり方はしなかった。彼は繰り返して反ばくされたことなどないだろうと思ったが、彼は少しも怒らず興奮さえもしなかった。」(同書234頁)。
このように交渉は、困難を極めたが、チャーチル首相は、ついにスターリンを説得することに成功した。
英国へ帰る前日の夜、スターリンがチャーチル首相を自宅に招いて酒を酌み交わした。スターリンが集団農場※を自画自賛した。
チャーチル首相は、「私はこれらの記憶が私によみがえるままに記録し、またあの瞬間に私が感じたー何百万という男女が抹殺され、あるいは永久に移動させられた強い印象を記録に残すだけである。このような悲惨事を知らない世代が疑いもなく来るだろうし、確かに食べる物も多くなり、スターリンの名を讃美することもなるだろう。私はバークの「不公平なしに改革を行うことができないならば、私は改革は行わない」という金言を繰り返さなかった。世界大戦がわれわれの周囲で進行しているとき、声をあげて道徳を説いてもむだに思われた。」と述べている(同書245頁)。
チャーチル首相は、英国の国益、英国民の自由を守るため、己の感情も政治的信条も徹頭徹尾押し殺して、ただひたすらナチスドイツに対する軍事作戦を実現すべく、独裁者スターリンに臆することなく、媚(こ)び諂(へつら)うことなく、気概を持って毅然たる態度で根気強く交渉に当たったのだ。
それが自由を勝ち取ると信じて。
※ 「第1次5ヵ年計画による工業化を開始しようとしていたソ連当局が,都市労働者と軍隊を養い,輸出を増大させるために必要な穀物調達率の大幅な向上を目指してとった政策。 1927年 12月の第 15回党大会では個人農が大半を占めるロシア農村を,コルホーズの結成により改造することを決議した (それによりこの大会は「集団化の大会」と呼ばれた) 。農民はこれに強く反発し,大量の家畜を殺し,放火や殺人事件も頻発した。ブハーリンは集団化に反対して,政治局を除名された。スターリンは 29年 11月『偉大なる転換の年』を書き「階級としての富農の絶滅」をスローガンに全面的集団化を開始した。しかし富農と中農・貧農との区別は明確ではなく,集団化に対する態度によって恣意的に選び出された。「富農」は財産を奪われ,強制収容所に送られ,あるいはシベリアへ流刑になった。このような農民は 1000万人に達し,数百万人が死亡したといわれる。集団化率は,32年に全農家の 60%,播種面積の 70%に達したが,穀物生産はむしろ減少し,家畜頭数はとくに大幅に減少した。農業集団化はスターリンの「上からの革命」といわれ,農村を荒廃させたばかりでなく,ソ連社会全体に全体主義的構造と恐怖政治の雰囲気をもたらす一因となった。」
(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、下線:久保)