BLOG夙夜夢寐(しゅくやむび)

 先日、蒋介石の言葉を引いて、中国の「抗日戦争勝利記念日」(9月3日)が嘘であることを述べた。

 ハドソン研究所が発表した『中国の第二次大戦での勝利パレードは究極のフィクション』という報告書も、同じ見解だ。

 中華人民共和国が建国されたのは、戦後の1949年10月1日なのに、中国は、戦勝国として国連常任理事国になっている。

 中国を戦勝国として国連常任理事国にした米国をはじめとする連合国の責任は、極めて重い。ハドソン研究所が上記のような報告書を発表したことは、少しずつ歴史認識が改善されつつあることを表しており、今後もこの傾向が続くことを期待したい。


 我が国政府は、諸外国に対して、9月3日に北京市で実施される抗日戦争勝利80周年記念の軍事パレードに参列しないよう外交ルートで呼びかけた。

 それにもかかわらず、抗日戦争勝利80周年記念の軍事パレードに参列する諸外国は、次の通りだ。これらの国を決して信用してはならない。

 例年参列していたドイツやフランスは、ウクライナに配慮して、今回参列を見送ったにすぎない。

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〇ロシアのプーチン大統領 

〇北朝鮮の金正恩朝鮮労働党総書記 

〇カンボジアのシハモニ国王 

〇ベトナムのルオン・クオン国家主席 

〇ラオスのトンルン国家主席 

〇インドネシアのプラボウォ大統領 

〇マレーシアのアンワル首相 

〇モンゴルのフレルスフ大統領 

〇パキスタンのシャリフ首相 

〇ネパールのオリ首相 

〇モルディブのムイズ大統領 

〇カザフスタンのトカエフ大統領 

〇ウズベキスタンのミルジヨエフ大統領 

〇タジキスタンのラフモン大統領 

〇キルギスのジャパロフ大統領

〇トルクメニスタンのベルドイムハメドフ大統領

〇ベラルーシのルカシェンコ大統領 

〇アゼルバイジャンのアリエフ大統領 

〇アルメニアのパシニャン首相 

〇イランのペゼシュキアン大統領

〇コンゴ共和国のサスヌゲソ大統領

〇ジンバブエのムナンガグワ大統領 

〇セルビアのブチッチ大統領 

〇スロバキアのフィツォ首相 

〇キューバのディアスカネル大統領 

〇ミャンマーのミンアウンフライン国軍総司令官

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<追記>

 昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和会議で締結された第二次世界大戦の連合国(48か国)と日本の講和条約をサンフランシスコ平和条約という。

 昭和27年(1952年)4月28日にサンフランシスコ平和条約の発効により、国際法上、連合国(ソ連、中華人民共和国、中華民国、インド、ビルマを除く。)との戦争状態が終結した。


 ところが、8月18日、中国外交部の毛寧(もう・ねい)報道官は、「サンフランシスコ平和条約は米国が第2次大戦後に一部の国を糾合し中華人民共和国とソ連を排除する形で日本と単独講和を結んだ違法かつ無効な文書だと指摘、台湾が中国に帰属する歴史的、法的事実に疑いの余地はない」と表明した。

 サンフランシスコ平和条約が違法かつ無効ならば、今も交戦状態が続いていることになるだけでなく、同条約により日本が独立を承認した朝鮮、放棄した台湾・澎湖諸島、南樺太・千島列島は、現在も日本の領土になるのだが。。。中国は、アホなのか?


 「一部の国を糾合し」とあるが、前述したように、日本とサンフランシスコ平和条約を締結した連合国は、48か国であるのに対して、署名しなかった連合国は、5か国にすぎない。


 サンフランシスコ講和会議に、米国は中華民国(台湾)の代表を招聘しようとしたが、ソ連と英国が中華人民共和国(中国)を承認していたので、どちらを招聘すべきかが問題になり、結局、どちらも招聘しなかった。これは、連合国側の内輪揉めであって、日本に関わりがない。


 ソ連は、講和会議に参加していたが、中国が参加していないこと、沖縄と小笠原諸島に米軍が駐留することに反対して、サンフランシスコ平和条約に署名しなかっただけであって、中国が主張するようなソ連を排除する形で行われたわけではない。


 中国は、見え透いた嘘を平気でつき、事実を捻じ曲げ、歴史を捏造する。日本は、中国とは「君子の交わり」をすべきだ。


 明日から9月だ。9月と言えば、季節感がないEarth, Wind & Fire「September」(1978年)よりも、秋に譬えて失恋を歌った竹内まりや「September」(1980年)を思い出す。

 「セプテンバー 秋に変わった 夏の日ざしが弱まるように 心に影がさした」というフレーズがあるが、明日も酷暑が続くようだ。すっかり歌詞と季節がずれてしまった。

 ところで、法の欠缺・不備に関する話題を備忘録として、載せておこう。

1 胎児

 民法の講義で、「私権の享有は、出生に始まる。」(民法第3条第1項)を習う。胎児は、「出生」によって人となり、権利能力を取得するが、胎児は、「出生」していないので、原則として権利能力がない。

 例外として、民法721条(損害賠償請求権に関する胎児の権利能力)、第886条(相続に関する胎児の権利能力)、第965条(相続人に関する規定の準用)を習う。


 また、民法の講義だけでなく、刑法の講義でも、「出生」とは何かについて習う。刑法では、一部でも露出すれば攻撃可能なので、胎児を保護するため、胎児が一部でも露出すれば、堕胎罪(刑法第202条から第216条まで)ではなく、殺人罪(刑法第199条)を適用する一部露出説が通説だが、民法では全部露出説が通説だ、ということも習う。法概念の相対性だ。


 堕胎罪は、故意犯なので、過失による交通事故によって胎児が死傷しても、堕胎罪に問われることがない。

 この場合、胎児は母体の一部として、妊婦に対する過失運転致傷として事件処理されるのだが、下記の記事によれば、果たしてこれでいいのかという疑問が呈されている。

2 土地所有権の範囲

 民法の講義で、「土地の所有権は、法令の制限内において、その土地の上下に及ぶ。」(民法第207条)を習う。土地所有権は、地下水にも原則として及ぶので、井戸を掘れるわけだ。

 私が学生の頃には制定されていなかったが、おそらく今の学生は、地下水に関する例外として、大深度地下使用法(大深度地下の公共的使用に関する特別措置法(平成十二年法律第八十七号))や水循環基本法(平成二十六年法律第十六号)を習っているはずだ。


 そもそも外国人や外国企業が日本の土地を所有できること自体が間違っていることについては、このブログで繰り返し述べてきたところだが、下記の記事にあるように、通例地下40mまでの地下水は、土地の所有権が及ぶため、外国企業・外国人が水資源を求めて水源地の土地を購入する動きが出ている。

 イタリア、ドイツ、フランスなどでは水資源は、すべて国に帰属するとされているのに対して、日本には、このような法律がないため、各自治体が水源地の保全条例を制定しているが、最高刑が50万円以下の罰金なので、抑止力になっていない。前述した水循環基本法は、基本法にすぎず、抑止力になっていない。

ペギー葉山『学生時代』(1964年)

 ミッション系は、少女漫画みたいだ。

 私の学生時代は、いつも夜遅くまでむさ苦しい野郎どもと空き教室で法律を勉強していた。法律問題を議論していたのに、いつの間にやら天下国家を論じていた。若気の至りだ。穴があったら入りたい。ほとんどが役人になったが、定年後の人生を歩んでいる。

 今調べたら、竹内まりやは、今年で70歳だそうだ。私も歳を取るはずだ。苦笑

 この1週間、国際協力機構(JICA)がアフリカ諸国の「ホームタウン」に認定した国内4市がアフリカ人の移住先になるのではないかとの疑念を呼び、アフリカのメディアが「日本は長井市をタンザニアに捧げた」と報道し、ナイジェリア政府も「日本政府が特別ビザを用意する」と発表し、BBCもこれに追随したものだから、大騒ぎになった。

 結局、アフリカ側の誤解に基づく誤報だったということで、事態が終息に向かいつつある。


 しかし、アフリカ側がなぜ誤解したのか、別途検証する必要があるのではないか。マスコミは、何をしているのやら。


 ここからは憶測にすぎないのだが、JICAや政府関係者が将来的な話としてそれらしいことをアフリカ側に内々に伝えたのではないかと思う。

 というのは、国際移住機関(国連IOM)が、国際協力機構(JICA)と、第9回アフリカ開発会議(TICAD 9)のテーマ別イベントとして、8月21日にシンポジウムを共催したのだが、その背景として、次のように説明されているからだ。


 「日本における外国人労働者は230万人(2024年10月、外国人雇用状況)で過去最高を記録しているが、今後必要とされる労働力と国内で対応できる労働力とのギャップを鑑みると、2040年には、現在日本で暮らす外国人住民数のほぼ倍の688万人の外国人労働者が必要になる(JICA緒方貞子平和開発研究所の推計)。国籍別の移住労働者の数は、アジア諸国が上位を占め、日本におけるアフリカからの人材活用は、現状非常に限られている

  一方で、アフリカ大陸は唯一今後人口増加が見込まれる地域であり、若い才能にあふれていると言える。近年では、アフリカ人によるスタートアップ企業の創設も増加しており、世界的にアフリカの成長への注目が増している。日本が長年にわたり続けてきた、アフリカ地域への産業人材育成の経験を活かし、アフリカにとっても日本にとってもウィン・ウィンとなるような人の移動や人材への投資の可能性は大きい。」(下線:久保)

 JICAは、外務省所管の独立行政法人なのだが、その予算は、財務省が握っており、実質的には財務省国際局開発政策課の下部組織のようなものだ。

 財務官僚は、人を数字で考えるので、上記のように「2040年には、・・・688万人の外国人労働者が必要になる」ならば、外国人労働者を入れたらいい。黄色人種だと、日本人に成りすまして紛らわしいが、黒人だったら、一目見て外国人だと分かるから、出入国・在留管理がしやすいとでも考えたのかもしれない。




6 四大文明は変だよ  

 小中学生の頃、本によって若干異なったが、「世界四大文明」、「世界四大河文明」、「四大文明」という言葉を習った。

 メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明の4つを指す言葉だ。


 しかし、これでは長江文明、メソアメリカ文明(オルメカ、テオティワカン、マヤ、アステカなど)、アンデス文明などがこぼれ落ちてしまう。  

 日本独自の森林の狩猟採集を中心とする縄文文明もこぼれ落ちている。


 このような不合理な括(くく)り方は、学問的ではない。日本の常識は、世界の非常識だと言われるが、まさにそうで、世界では、Cradle of civilization「文明のゆりかご」という言葉で、四大文明以外の長江文明やメソアメリカ文明などを包摂している。  

 いつまで学校で「四大文明」という間違った歴史教育を続けるのか、呆れてものも言えない。

 もっとも、civilizationは、「文明」と訳されているが、civilは、「都市」・「市民」という意味だから、都市化されていない所には文明はないという考え方であって、遊牧民族の文明を否定する点で、西洋の学者の限界が見て取れる。その意味で、西洋の学者の言うことを鵜呑みにしてはならない。


 では、誰が「四大文明」と言い出したのか。  

 騎馬民族征服王朝説を唱えた考古学者の江上波夫だという説があり、初出は、昭和27年(1952年)発行の『再訂世界史』(山川出版社)らしい。


 しかし、清国から日本に亡命した梁啓超が明治33年(1900年)に作った詩『二十世紀太平洋歌』に「地球上古文明祖國有四:中國、印度、埃及、小亞細亞是也」(地球上の古文明の祖国に四つあり、中国・インド・エジプト・小アジアがこれである。読み下し文:久保)とあるので、こちらが本家本元だろう。

  1840年のアヘン戦争に敗れて香港を割譲した清国の末期症状を憂いて、中国の優位性を高らかに歌って自信と誇りを回復し、清国復活の志を遂げんとしたのだろう。


 いずれにせよ、中国でも「四大文明」という言葉が普及しているようで、2017年、習近平国家主席は、訪中したトランプ大統領に対して「四大文明の中で中華文明だけが中断なく続いている」と述べている。  

 「東アジアにおいて、中華文明こそが唯一無二の文明であり、中国人のみが文明人で、それ以外は野蛮人なのだ。四大文明のうち、中華文明のみが現代まで連綿と続いているのは、中華文明が最も優れているからだ。」と言いたいのだろう。  


  なお、中華人民共和国は、漢民族と55の少数民族から成っており、総人口の約92%が漢民族なのだそうだ。  

 支那の長い歴史のほとんどを北方遊牧民族に支配されていたので、民族の交雑により、純粋な漢民族の血統は、とっくの昔に絶えていると考えるのが合理的なのに、中華思想から総人口の約92%が漢民族だと強弁しているわけだ。


 習近平国家主席は、「中華民族の偉大なる復興」を唱えている。そこで、中国は、「同化政策」により、55の少数民族の言語・文化などの独自性を標準化して、「中華文明」・「中華民族=漢民族」に単一化しようとしている。


 支那の歴史を正しく理解すれば、元や清のように、領土を拡大するには、異民族を尊重してその言語・宗教・文化に干渉せず、実力本位で異民族を登用し、中枢に据えることが大切なのに、習近平国家主席は、正反対のことをしているわけだ。  

 かつて漢民族が建国した漢や明が血筋・家柄を重視する儒教という宗教に毒されたように、中国は、中国共産党員を重視する社会主義という宗教に毒されている。  

 それ故、「中華民族の偉大なる復興」は、失敗するだろう。


 ただ、このまま傍観していたのでは火の粉が日本に飛んでくるかもしれない。「かつて倭人は、中国に朝貢していたから、日本は中国の領土であり、日本人は中国の少数民族である」と言い出しかねないのだ。現に沖縄についてこのロジックを使い始めている。  

 子供達が大所高所から世界史を理解し、きちんと中国等に反論できるよう世界史の教科書を改善するのが急務と言えよう。



5 長江文明に言及しないのは変だよ  

 紀元前5000年頃に、支那北部の黄河流域の黄土で、黄河の氾濫を利用した雑穀(キビ、アワ)の農耕を中心に牧畜や狩猟が行われた。黄河文明だ。磨製石斧と彩文土器を特色とする。  

 紀元前2070年頃、最古の王朝である夏王朝があったとされ、司馬遷『史記』では殷の湯王に滅ぼされたとされる。文字の出土資料がないため、夏王朝の存在に疑問が投げかけられている。  

 紀元前1600年頃、黄河中下流域(「中原」(ちゅうげん)と呼ばれる平原)には、「邑」(ゆう)と呼ばれる血縁同士の集落があり、殷(いん)と呼ばれる王朝があった。殷墟と呼ばれる殷の遺跡には、宮殿、墓、住居だけでなく、甲骨文字が刻まれた青銅器が発見された。  

 紀元前11世紀頃、殷は、周によって滅ぼされた。周は、一族や功臣に土地を与え、世襲の諸侯とした。封建制だ。


 これに対し、黄河文明と同時代に、長江流域に稲作を中心として漁労も行う独自の長江文明が興った。甲骨文字よりも古い巴蜀(はしょく)文字と呼ばれる未解読の文字や青銅器も存在していた。


 支那中部を東西に貫く秦嶺(しんれい)山脈によって、支那は、南北に分断され、隔絶しているので、黄河文明と長江文明は、それぞれ独自に興ったと考えられている。  

 現在も、北側の黄河流域は、乾燥し、小麦文化であるのに対して、南側の長江流域は、温暖で、稲作文化であり、お互いに言葉が通じないほどの違いがある。  

 なお、最近では、習近平国家主席が目指す「中華民族復興」に合わせて、黄河文明と長江文明を包摂した「中華文明」という呼び方が中国で行われつつある。


 ところが、長江文明について、日本の教科書で触れられることがない。前掲『もういちど読む山川世界史』にも載っていない。  

 支那の歴史は、黄河文明から説き起こされるのが一般的だ。これには、主に2つの理由が考えられる。


 まず、ドイツの地理学者リヒトホーフェンが、中央アジアから支那に至る古代の東西交通ルートをSeidenstrassenザイデンシュトラーセン「絹街道」と名付け(これを受けて、イギリスの考古学者スタインがSilk Roadシルクロード「絹の道」と称し、日本に広まった。)、支那が秦嶺山脈によって南北に分断され、山脈の北側にある黄河流域の小麦栽培に着目して、ここが支那の古代文明発祥の地だと指摘した。これがきっかけで黄河文明が重視されるようになった。


 次に、中華思想だ。春秋・戦国時代に、長江流域に、おそらく長江文明の子孫であろう楚、呉、越という国が興ったが、結局、秦に征服され、漢字文化圏に組み入れられ、漢民族に同化させられてしまった。  

 そのため、中華思想に基づいて、漢民族の黄河文明が「中心」であり、夷狄の長江文明は「周辺」と位置付けられたわけだ。


 長江文明の子孫が北方の漢民族に追われて、南西の山岳地帯に逃げて「苗族」(ミャオぞく)になったとされ、急勾配の山に棚田を作ること、納豆・醤油・なれ鮨などの発酵食品を食べ、正月に餅を食べ、おこわを食べ、粽(ちまき)を食べ、蕎麦を食べること、日本の国生み神話と非常に似ている神話があることなど、日本人と似ている。顔もよく似ている。ミトコンドリアDNAハプログループの研究から苗族の祖先(つまり、長江文明の子孫)が日本に移住した可能性が指摘されている。  

 長江文明の遺跡で発掘された米は、ジャポニカ米だし、高床式倉庫や住居の構成なども日本と共通していることから、漢民族に追われた長江文明の子孫が水田稲作を日本に伝えたと考えるのが妥当だ。  


 ところが、教科書などには、「朝鮮半島を経由して日本に稲作が伝来した」とか、「朝鮮半島など大陸から日本に稲作が伝来した」とか、「弥生時代に朝鮮半島から渡来した渡来人が稲作を日本に伝えた」と記述されることが多い。最近は、朝鮮半島ルートを含む3つのルートを上げることもある。

 いずれにせよ、まるで朝鮮に感謝しろと言わんばかりだ。


 しかし、朝鮮半島経由ならば、日本で見つかった稲作の痕跡よりも古い痕跡が朝鮮半島で見つかっていなければならないのだが、日本で見つかった3000年前の稲作の痕跡よりも古い痕跡は、朝鮮半島では一切見つかっていない。  

 しかも、日本で見つかった古代の稲をDNA解析したところ、日本の各所に点在するRM1-b遺伝子を持つ稲は、長江流域の稲と同じ遺伝子構造であり、朝鮮半島には存在しないものだった(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明: 起源と展開 』NHKブックス)。


 柳田國男の「海上の道」など、南方から沖縄を経由して水田稲作が伝わったとする説も有力だが、沖縄の貝塚時代に稲作の痕跡がないことから、可能性は低い。


 先日述べたように、縄文時代に森林の狩猟・採集を中心とする日本独自の平和で平等な古代文明が形成されていた。

 九州に渡ってきた長江文明の子孫たちは、縄文人と争うことなく受け入れられたからこそ、日本各地に縄文晩期の水田跡が残っているのだろう。

<追記>

 『三国志』の「魏志倭人伝」には、「男たちは、大人も子供もみな、顔や体に模様の入れ墨をしている。昔から、使節が中国に使いするときには、みな自分のことを大夫(たいふ)という。夏王朝の少康(しょうこう)の子は、会稽(かいけい)の王とされると、髪を短くし体に入れ墨をして、それで大ヘビの害から身を守った。現在、倭の海人(あま)たちが、水にもぐって魚貝を獲るのに、入れ墨をしているのも、少康の子と同じように、それで大魚や水鳥を威圧しようというのである。のちにだんだん、入れ墨を飾りとするようになった。倭の諸国での入れ墨のしかたは各々違っていて、ある者は左に、ある者は右に、ある者は大きく、ある者は小さくというふうで、位によって差がある。」(藤堂・竹田・影山全訳註『倭国伝』講談社学術文庫、108頁)。


 この入れ墨文化は、おそらくポリネシアなどの南方から沖縄経由で渡ってきた漁労を生業とする人々の文化だと思われる。

 昔から、倭の使節は、みな自分のことを大夫と名乗っていたとある。「大夫」は、周王朝の職名で、偉い順に卿(ケイ)、大夫、士となる。臣下のうち、2番目の地位だと名乗っていたわけだ。「昔から」とあるだけでいつからなのかは不明だが、三国時代よりも以前から支那との外交があったことを示唆している。

 面白いのは、漢民族の夏王朝の少康の子の入れ墨を例に挙げて、これと同様に、倭の海人の入れ墨も害悪から身を守るためだと説明している点で、公平性・客観性が見られるとともに、のちに入れ墨が飾りになったと述べている点だ。おそらく南方系の人々の入れ墨がファッションとして流行したのだろう。日本人の新しいもの好きは、この頃からあったようだ。

 また、入れ墨が、身分の上下を表すようになったと述べている点も興味深い。


 ところが、この入れ墨の文化は、完全に失われるわけではないが、多くの人々が入れ墨をしなくなった。それがなぜなのかが不明だった。


 しかし、未読なのだが、民俗研究家で写真家の萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道』(大修館書店)によれば、萩原氏は、中国南部からタイ北部の少数民族(チベット族、リス族、リー族、タイ族、シャン族、ワ族、カレン族、イ族など)をほぼすべて調査した結果、苗族だけが入れ墨の習慣をもっていないことをつきとめたそうだ。


 長江文明の子孫たちが漢民族に追われて九州に渡ってきて、水田稲作、高床式住居、青銅器など、当時の最新技術・文化をもたらした。縄文人たちは、目新しい文物に目を見張り、美味しいお米にすっかり魅了されただろう。そうでなければ、これほど短期間に日本中に水田稲作が普及するはずがない。

 この長江文明の子孫たちも、現在の苗族と同様に、入れ墨をしていなかったはずだ。そこで、入れ墨をしないことが逆にかっこいいと流行し、入れ墨は遅れている・劣っていると思われるようになったため、入れ墨文化が衰退したのではないか。

 このようなマイナスイメージを持たれた入れ墨が罪人の印とされるようになったのも、これで理解できる。

 

4 北方遊牧民族を「夷狄」扱いするのは変だよ  

 北方遊牧民族は、「略奪」ばかりする「夷狄」(いてき。野蛮人の意)として扱われている。遊牧生活では十分に自立できないから、定住生活をしている農耕民族から奪うのだというわけだ。


 しかし、家族単位であれば、遊牧生活であっても十分生活できる。足りない物があれば、交易によって入手できるからだ。  

 ただ、集団になれば、これを維持するための政治的制度や経済制度が必要になる。さらに大きな集団になれば、国家の論理で動くようになる。軍事的に均衡していれば、攻めたりしないが、軍事的均衡が破れれば、その空白を埋めるべく兵を進めるのは、農耕民族も遊牧民族も同じなのだ。中華思想に毒されて、遊牧民族のみを「夷狄」扱いするのは、公平ではない。  

 また、遊牧民族も、定住する。前述した隋や唐など、北方遊牧民族が建国した王朝は、定住化しているからだ。


  さらに、遊牧民族というと、馬に乗って草原を走り回るしか能がないイメージかもしれないが、決してそうではない。  

 紀元前12世紀頃にヒッタイトが発明した製鉄技術がユーラシア大陸中央部を経由してモンゴル系匈奴に伝わっていることがモンゴル国内の遺跡の発掘により明らかになった。匈奴は、当時の最先端技術である製鉄炉を持っていたのだ。匈奴の冒頓単于が漢の劉邦に勝利した一因だ。


 三国時代の魏を継いで司馬炎が建国した晋が滅亡すると、再び国が乱れた。支那北部(華北)にモンゴル人鮮卑族が「北魏」を建国し、支那南部(華南)の漢民族王朝(宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。)と並立する南北朝時代を経て、モンゴル人鮮卑族が建国した「隋」によって、再び支那は統一された。  

 モンゴル人鮮卑族は、遊牧民族だから、農耕民族である漢民族とは異なり、土地に執着しない。漢民族は、黄河文明の時代から王や貴族が土地を囲い込んで、富を収奪し、民衆を隷属させたのだが、モンゴル人鮮卑族は、土地は公有だとして、遊牧民族の伝統に従って、民衆に均等に土地を支給した。  

 この北魏が始めた制度が「均田制」だ。同じモンゴル人鮮卑族が建国した「隋」・「唐」も均田制を採用した。これが「班田収授法」として日本に継受された。  

 また、遊牧民族は、納税さえしてくれれば、支配地の宗教・風俗・慣習等に干渉しない。そこで、モンゴル人鮮卑族が建国した隋・唐は、支那の伝統に従って、租庸調を制度化した。  

 このように、遣隋使・遣唐使が学んで、日本に移入した「隋」や「唐」の律令制は、モンゴル人鮮卑族が作った制度なのだ。


 難関の試験を「科挙」に譬(たと)えることがよくあるが、「科挙」を始めたのも、モンゴル人鮮卑族が建国した「隋」だ。  

 漢民族は、農耕民族であり、黄河文明の時代から富と権力を集中して王政を敷き、多くの人間を隷属させてきた。官吏は、王から土地を与えられた世襲貴族が独占していた。無能で不正を行う官吏が増えたので、これを改善すべく前漢の武帝の時代から「郷挙里選」が行われたり、南北朝時代に「九品官人法」が行われたりした。この点については、以前少し述べた。

 これに対して、遊牧民族は、土地に執着せず、臨機応変に対処することが求められるため、現場の有能なリーダーに権限を与える実力主義が伝統だった。  

 そこで、隋は、従来の漢民族の貴族政治を打破すべく、実力主義の伝統に基づいて、血筋・家柄ではなく、試験によって官吏を登用する科挙を実施したのだ。  

 隋は、二代で滅んだが、モンゴル人鮮卑族が建国した唐も科挙を採用し、清国まで科挙が続いた。


 大雑把ではあるが、このように見てくると、分かることがある。

 すなわち、漢民族が建国した漢や明は、広大な領土を統治しきれなかった。儒教という血筋・家柄を重んじる頑迷固陋(がんめいころう)な宗教に毒されたからだ。  

 これに対して、漢民族が「夷狄」と蔑(さげす)む北方遊牧民族が建国した元や清は、版図を拡大して広大な領土を統治できた。これはひとえに北方遊牧民族が、漢民族とは異なり、多種多様な異民族をまとめ上げる統治のノウハウを持っていたからに他ならない。  

 すなわち、北方遊牧民族は、他の異民族を尊重して、納税さえすれば、その言語・宗教・文化に干渉せず、他方で、血筋・家柄ではなく、人に着目して、実力主義の伝統に基づき、能力本位で人材登用し、統治の中枢に据えて統治したので、広大な領土をまとめることができたのだ。これをどうして「夷狄」と言えようか。


 なお、科挙には、デメリットもあった。

 北方遊牧民は、支配地の言語・宗教・文化を尊重し、これに干渉しないので、科挙の受験科目に漢民族の儒教と詩文を採り入れてしまった。科挙では科学知識などの実用的知識が問われず、ひたすら四書五経を暗記する暗記偏重の文系試験だったから、漢民族の教養を備えてはいても、実務能力のない者が官僚になってしまった結果、科学技術が発展しなかった。

 また、科挙は、最盛期には競争率3000倍の超難関だったため、最終合格者の平均年齢は36歳で、中には70歳で合格した者もいた。つまり、仕事をせずにひたすら勉強し、家庭教師を付けることができる裕福な家庭の子弟でなければ合格できないため、実力さえあれば庶民の子弟でも官吏になれるという科挙のメリットが失われてしまった。

 そして、猛勉強をしてまで超難関の科挙を目指すのは、官吏になれば、賄賂で儲かるからだった。つまり、支那の官僚制は、公私の区別がない家産官僚制にとどまり、法に従って国家国民に奉仕すべしという依法官僚制(近代官僚制)に発展することがなかった。

 支那が自力で近代化できなかった要因の一つが科挙だったのだ。




3 被支配者を中心に叙述するのは変だよ  

 以前にも述べたような気がするが、支那(シナ。chinaの地理的呼称)の歴代王朝は、目まぐるしく交替するが、その歴史は、どこで輪切りにしても、金太郎飴の如く同じような権力闘争を繰り返している。  

 儒教は、これを易姓革命(えきせいかくめい)と呼んでいる。天子(王・皇帝)の姓が易(か)わるのは、天命が革(あらた)まったからだという政治思想だ。


 すなわち、禅譲(ぜんじょう。天子の位を世襲せずに有徳者に譲ること)を行ったとされる例外もあるが、放伐(ほうばつ。悪徳の天子を討伐すること)が原則であって、悪政を行なって徳を失った天子(王・皇帝)を武力で打倒した者が天子(王・皇帝)になり、再び同じことをエンドレスで繰り返す悪夢のような歴史が支那の歴史だ。まったく進歩がないのだ。  

 そのため、支那人ですら司馬遷の『史記』を通読するのが辛くて、簡略な『十八史略』が編まれたほどだ。


 さて、皆さんも支那の歴代王朝を暗記したと思うが、夏、殷、周、春秋・戦国時代、秦、漢(前漢)、新、漢(後漢)、三国時代、晋、五胡十六国時代、南北朝時代、隋、唐、五代十国時代、宋、元、明、清のうち、漢民族が作ったとされる王朝は、夏、殷、周、秦、漢(前漢、後漢)、新、晋、明の8つだけだ(夏の存在については、学説上疑われているし、また、秦を建国したのはチベット系羌族(きょうぞく)だとする説もあるし、さらに、明代になるまでに、民族の交雑が進み、純粋な漢民族はいなくなったと思われるが、これらの点は、とりあえず捨象する。)。


 しかし、夏、殷、周は、黄河中下流域の中原(ちゅうげん)と呼ばれる狭い地域の王朝にすぎず、支那全土の統一王朝ではなかったし、秦と新と晋は、短命だったから、極論かもしれないが、漢民族が支那全土を統一支配したのは、漢と明の2王朝だけと言っても過言ではない。


 しかも、漢(前漢)を建国した劉邦は、32万の軍勢を率いて、モンゴル系匈奴(きょうど)の冒頓単于(ぼくとつぜんう)率いる40万の軍勢と戦って敗れて、匈奴を兄、漢を弟として、漢の公主(天子の娘。皇女)を冒頓単于に差し出し、毎年莫大な貢物を匈奴に贈る代わりに、匈奴は、漢に手出ししないという条件で和睦し、50年間、漢は、匈奴の属国となった。  

 漢は、名分上、匈奴の縁戚となることにより、虎の威を借る狐として、劉邦は、粛清を行なって国内の地歩を固めたのだ。


 我が国では遣隋使や遣唐使で馴染みのある隋も唐も、モンゴル人鮮卑族(せんぴぞく)の王朝だ。宗は、トルコ人沙陀族(さだぞく)だし、元寇の元は、ご存知の通りモンゴル人だし、清は、ツングース系満州女真族(じょしんぞく)だ。


 つまり、長い間、支那は、漢民族以外の北方異民族によって支配されてきたと言っても過言ではない。  

 換言すれば、漢民族は、その歴史のほとんどを「被支配者」として生きてきたのだ。


 それ故、支那の歴史を正しく理解しようと思えば、「支配者」である北方遊牧民族を「中心」に考察するのが妥当だ。


 ところが、学校の教科書では、世界史を西洋史と東洋史に分けて、東洋史は、漢民族が「被支配者」であることを伏して、前述した中華思想に立脚して、漢民族を「中心」に叙述され、北方遊牧民族が「支配者」であることを伏して、北方遊牧民族を「周辺」民族(「夷狄」)として扱っている。  

 西洋史も、ヨーロッパ人を「中心」に叙述され、北方遊牧民族は、「周辺」民族(「barbarian」バーバリアン野蛮人)として扱われている。


 しかし、これではユーラシア大陸の中心を占めるモンゴル系又はトルコ系などの北方遊牧民族が西洋と東洋を股にかけて世界史を動かしてきたことを正しく理解できない。  

 北方遊牧民族を中心に捉えれば、西洋史と東洋史を統合したユーラシア大陸の歴史に再構成できるのだ。

2 「中華」では変だよ

  前掲『もういちど読む山川世界史』の「第Ⅱ部 中世」の「第2章 東アジア世界」には、「5 中華帝国の繁栄」とあり(太字:久保)、明と清の歴史を採り上げている。


 中華思想(華夷思想)というのは、漢民族こそが文明(=華)の「中心」であり、その「外」にいる「周辺」異民族は、「夷狄」(いてき。野蛮人の意)であるという漢民族優越主義・漢民族中心主義をいう。  

 夷狄は、漢民族を中心にして東西南北によって、東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)と呼ばれた。日本人は、東夷に含まれる。夷は、弓を射るのが上手いという意味だ。


 この中華思想は、漢民族の劣等感の裏返しなのだ。後述するように、支那は、北方遊牧民族にたびたび支配されたので、「支配者」である北方遊牧民族を「夷狄」だと蔑(さげす)むことで、溜飲を下げ、プライドを維持しようとしたのだ。  

 この点は、朝鮮も同じだ。支那の歴代王朝に冊封(さくほう)され、支那の属国だった朝鮮も、漢民族の王朝であった明国が滅んで、ツングース系満州女真族(じょしんぞく)の王朝である清国に服属した二重の劣等感から、清国は漢民族ではないので、儒教の正統性を継承したのは朝鮮であり、清国や日本などの周辺国は夷狄だとして優越感を抱くことで、コンプレックスを解消しようとした。これを「小中華思想」という。


 外交の場面において、正式名称である「中華人民共和国」(中国)や「中華民国」(台湾)を用いるのは、やむを得ないが、日本の歴史教科書で、「中華」を用いるべきではない。反日自虐史観の誹(そし)りを免れないからだ。

 小中学校の頃は、日本史に夢中になったので、高校では世界史を選択した。大学入試に不利だからやめろと言われたが、世界に目を転じたかったのだ。  

 歴史好きだから、面白いと言えば面白いのだが、暗記すべき事物の量が多いだけでなく、次から次へと疑問が浮かぶのに、教科書や参考書がこれに答えてくれないので、モヤモヤした。  

 このモヤモヤを解消するため、読書遍歴を続けたが、特にモンゴル史が専門の京都大学教授杉山正明『遊牧民から見た世界史』(日本経済新聞社)を20年ほど前に読んで目から鱗が落ちた。お蔭で教科書自体がバイアスがかかっていて変だということに気付いた。モヤモヤの原因は、バイアスだったのだ。  

 変なところを挙げ出したら、キリがないので、とりあえず支那史について、思いつくままに書いてみようと思う(敬称略)。


1 「中国」では変だよ

 以前、このブログでも述べたが、1981年、コピーライターの糸井重里がインスタントラーメン「中華三昧」のCMのキャッチコピーとして考え出したのが「中国四千年の味」だ。  

 以来、日本では、「中国には四千年の歴史がある」と誤解され続けている。そのためか、最近では、中国政府も四千年の歴史があると言うようになった。


 しかし、「中国」というのは、中華人民共和国の略称だ。中華人民共和国が建国されたのは、戦後の1949年10月1日だから、今年で76年の歴史しかないのだ。  

 「中国の歴史」と表記すると、中華人民共和国76年の歴史という意味になる。


 ところが、例えば、高校の世界史教科書を一般読者のために書き改めた『もういちど読む山川世界史』(山川出版社)の目次を見ると、「第Ⅰ部 古代」の「第1章 古代の世界」には、「6 中国古代統一国家の成立」とある(太字:久保)。  

 同じく「第Ⅱ部 中世」の「第2章 東アジア世界」には、「1 中国貴族社会の成立」・「3 中国社会の新展開」とある(太字:久保)。


 古代にも中世にも、中華人民共和国は存在しないのに、「中国」と表記しているのは、明白に事実に反し、不適切だ。  

 いったい誰に阿(おもね)り、忖度(そんたく)しているのやら?


 国の興亡が目まぐるしいのだから、「中国」という中華人民共和国の略称ではなく、江戸時代中期から用いられているchinaの地理的呼称である「支那」(シナ)を用いるのが適切だ。  

 それ故、ここでは「中国の歴史」ではなく、「支那の歴史」と呼称することにする。

 日本のメディアは、報道していないが、韓国の聯合ニュースによると、トランプ大統領が日本の肩を持つ発言をしたそうだ。

 16センチの上底シークレットシューズを履いて意気揚々とトランプ大統領との会談に臨んだ李大統領は、メンツを潰され、悔しいニダと思ったかどうかは知らぬが、記事からは悔しさが滲み出ている。

 2015年3月5日韓国の左派が起こしたリッパート駐韓大使襲撃事件、在韓米国大使館・公邸への不法侵入事件、大使館前のデモ集会など、左派による度重なる米国に対する嫌がらせの影響だろうか、交渉材料にするためだろうか、いまだに駐韓米国大使が決まっていないし、米国は、駐米韓国大使を承認していない。


 ついでに、韓国外務省は、米国が李大統領を冷遇していないと火消しに必死だ。

 前任の尹大統領は、国賓待遇だったのに対して、李大統領は、2ランク下の公式実務訪問であり、儀典(公式歓迎式典)もないし、公式晩餐会もない。

 通常、公式実務訪問の場合には、共同記者会見が行われるのだが、トランプ大統領は、李大統領と共同記者会見をしなかったし、見送りすらしなかった。

 反米反日の報いを受けているようだ。

 そもそも経営・管理ビザなんて不要なのだが、これまでの経営・管理ビザは、ザルで碌でもない連中がビザだけ取って、健康保険の悪用、不動産投機、宗教法人の買収などに利用されていた。


 下記の記事によると、資本金の要件を600万円以上から3000万円以上に引き上げ、1人以上の常勤職員を必須要件とし、経験や学歴の要件も追加し、中小企業診断士による事業計画の確認も義務付けるそうだ。

 経験や学歴の要件を追加しても、偽造や汚職が横行している中国ではいくらでもごまかせるだろうし、中国人ブローカーの息がかかった中小企業診断士が甘いチェックで通す可能性もある。

 焼け石に水にならなければよいが。