BLOG夙夜夢寐(しゅくやむび)

1 英国におけるアマチュアリズムとプロフェッショナリズム

 amateurismアマチュアリズムとは、「芸術、芸能、スポーツなどで、営利を目的とせず、あくまで楽しみのためにするという態度。アマチュア精神。」をいう(『精選版 日本国語大辞典』小学館)。


 このアマチュアリズムは、スポーツの文脈で語られることが多い。プロスポーツへの対抗から生まれた概念だからだ。


 すなわち、オードリー・ヘップバーン主演の映画My Fair Lady『マイ・フェア・レディ』(1964年)を見れば明らかなように、英国は、他のヨーロッパ諸国と同様に、階級社会であって、上流階級は、ポロ、テニス、ラグビー、ゴルフなどを好み、労働者階級は、サッカーを好むという風に、階級によって、言葉遣いや立ち居振る舞いだけでなく、趣味嗜好も異なる。我々日本人には想像できないぐらい違う。


 労働者階級は、サッカーのプロリーグを結成し、スポーツを金儲けの道具にした。本来、sportsスポーツは、ラテン語のdeportareデポルターレ「(仕事や義務でない)気晴らしをする、休養、遊び、楽しむ」が語源だから、これを仕事にするなんて本末転倒であって、あり得ないと考えた上流階級は、プロスポーツを軽蔑した。


 そして、上流階級は、テニスやゴルフなど、スポーツのクラブ制(会員制)を作って、厳格な入会審査を行い、労働者階級を入会させずに、アマチュアリズムを貫いた。


 また、パブリックスクールでは、アマチュア精神が教育理念の一つとして重視された。勝敗よりも名誉を重んじ、スポーツマンシップ、フェアプレーを尊び、スポーツを通じて人格を陶冶(とうや)し、ノブレスオブリージュを身に付け、心身のバランスが取れたgentlemanジェントルマン「紳士」の育成を目的としたスポーツが行われた。


 このようにアマチュアリズムは、営利目的のプロスポーツ・professionalismプロフェッショナリズムに対する上流階級の差別意識から生まれた概念なのだ。

 換言すれば、アマチュアであることは、上流階級の特権だったと言っても過言ではない。


 それ故、1998年のオリンピック・ソウル大会で初めてプロ選手の参加が認められ、2003年、入れ墨を入れたプロサッカー選手であるデビット・ベッカムが大英帝国勲章(OBE)第12等勲爵士を授与され、2005年にナイトの爵位を授けられ、Sir David Robert Joseph Beckham OBEと呼ばれるようになったのは、隔世の感がある。


2 日本におけるアマ(素人)とプロ(玄人)

 これに対し、日本には、身分制度はあったが、階級社会ではなかった。身分によって言葉遣いも立ち居振る舞いも服装も異なったのは事実であるが、例えば、徳川将軍がプロの能楽師やプロの絵師を先生と呼んで、能や絵画を学んだように、日本では、英国のように、professionalプロフェッショナルを軽蔑することはなかった。「餅は餅屋」という諺があるように、プロフェッショナルは、尊敬を集めていた。


 他方で、資本主義が発展し経済的に豊かになった江戸時代には、趣味の大衆化・平等化が進み、身分の上下に関係なく、俳句、川柳、狂歌、絵画、能、歌舞伎、長歌、小唄、三味線、尺八、盆栽などを楽しむアマチュアリズムが盛んになった。元祖オタク文化が花開いたのだ。

 金魚や錦鯉は、アマチュアリズムによって生まれた典型例だ。黄表紙(小説)の作者は、アマチュアだった武士がプロフェッショナルになったケースが多い。浄瑠璃作家の近松門左衛門は、元武士だ。


 『万葉集』があらゆる身分階層の和歌を収録していることから、渡部昇一先生が名付けた「和歌の前の平等」(『日本語のこころ』講談社現代新書)をもじれば、狭い茶室で、身分の上下に関わりなく、平等に茶を回し飲むように、アマチュアリズムに基づく「趣味の前の平等」が確立していたと言ってもよいだろう。


 要するに、英国では、プロは労働者階級であるのに対し、アマは上流階級であるから、両者の間には、階級対立と越え難い分断があった。

 これに対して、日本では、プロとアマには、知識・技能・経験などの点で上下関係があり、プロは尊敬されていたが、両者の間には分断がなかった。アマは、プロに教えを乞い、アマからプロになる者もいた。


3 日本におけるプロフェッショナリズムの弊害

 ところが、階級社会を背景とした英国発祥のアマチュアリズムとプロフェッショナリズムが、その階級的性格を理解されることなく、言葉のみ明治日本に移入されてしまった。


 その結果、江戸時代以来のプロの方がアマよりも上だという意識がそのまま存続した。「プロ顔負け」・「玄人(くろうと)跣(はだし)」という表現は、プロ・玄人の方が上であることを前提としている。


 そして、プロスポーツは、営利を目的としている以上、勝利至上主義に陥るのは致し方ないが、もともと日本では、プロとアマとの間に分断がないため、プロを見習って、プロの勝利至上主義がアマの世界に蔓延(はびこ)ってしまった。

 例えば、高校野球は、アマチュアスポーツであり、かつ、教育活動なのに、野球留学・スポーツ推薦・特待生制度が行われ、学業よりもスポーツが優先され、勝つために毎日朝早くから夜遅くまで猛練習し、指導と称して体罰を行うことが日常茶飯事になってしまい、本来楽しむものであるスポーツの意義や人格陶冶という教育の意義が忘れ去られてしまったきらいがある。アマチュアスポーツのプロスポーツ化と言ってもいい。

 パブリックスクールにおけるスポーツとは大違いだ。


 このようなプロフェッショナリズムの弊害は、スポーツの世界にとどまらない。学問の世界でも顕著だ。


 現代の学問は、専門化・細分化しているため、閉鎖的・蛸壺(たこつぼ)的にならざるを得ない面があることは、否めない。


 しかも、我が国において、特に人文社会科学の分野では、日本学術会議のメンバー拒否問題で世間にも知られるようになったが、「左翼にあらざれば学者にあらず」であって、排他的な狭い世界(象牙の塔)で、学会の重鎮に逆らわず、波風立てず、生活のために研究し、ポストを手にいれることに汲々(きゅうきゅう)とする一方で、自分たちはIntelligentsiaインテリゲンチャ「知識人」であると称して、アマチュアを見下しているエセ知識人が少なからずいる。


 例えば、評論家の山本七平『日本資本主義の精神』(PHP文庫)は、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)に匹敵する業績なのに、アマチュアが書いた本だとして、学会は完全にこれを無視しながら、その内容を剽窃(ひょうせつ)している論文・書籍がなんと多いことか。


 ジャーナリストのウォルター・バジョット『英国憲政論』(中央公論社)は、アマチュアが書いた本だが、これを超える本を書いた日本の憲法学者や政治学者はいない。

 政治家のエドマンド・バーク『フランス革命の省察』(光文社古典新訳文庫)、裁判官・政治家のアレクシ・ド・トクヴィル『アメリカの民主政治(上)(中)(下)』(講談社学術文庫)・『アンシャン・レジームと革命』(講談社学術文庫)・『フランス二月革命の日々』(岩波文庫)、政治家のハミルトン/ジェイ/マディソン『ザ・フェデラリスト』(福村出版)などは、いずれもアマチュアが書いた本だが、これらを超える本を書いた日本の学者はいない。

 むしろ、これらアマチュアが書いた本を解説したり、引用したりして、売文している。


 日本人のアマチュアが書いた本は、無視し、外国人のアマチュアが書いた本は、後生大事に飯の種にするダブル・スタンダードを矛盾とは思わない恥知らずがエセ知識人なのだ。


 アマチュアは、アマチュアだからこそ、大学のポストや名誉や金のためではなく、抑え難い好奇心・愛好心に突き動かされて、専門の垣根を飛び超えて自由に思考を巡らし、思索を重ね、表現することを楽しむ。

 例えば、推理小説家のギルバート・キース・チェスタトンの専門性にこだわらず常識を重んじる庶民的なアマチュアリズムは、『正統とは何か』(春秋社)・『棒大なる針小』(春秋社)などの著作に結実し、これらをして名著たらしめている。


 パレスチナ系米国人の文学研究家エドワード・ワディ・サイードは、『知識人とは何か』(平凡社)で、アマチュアリズムを単なる素人・未熟として捉えるのではなく、知識の専門分化に囚われずに公共のために語る「自由な知識人」の姿勢として高く評価している。


 このようなアマチュアリズムに基づくintellectual lifeインテレクチュアル・ライフ「知的生活」から生まれた人類の知的遺産が上記に例示列挙した『英国憲政論』などの書籍なのだ。


 左翼の影響力が低下すれば、エセ知識人同士で褒め合い、ポストを分かち合うことがなくなって、ボスに阿(おもね)ていた日本の研究者に自由が回復するだろう。

 タレントのさかなクンが東京海洋大学客員教授に就任したように、学問の世界が開かれた社会となれば、プロとアマが切磋琢磨し、世界的名著が誕生する日も近いだろう。

 

4 現代社会のアマチュアリズムとプロフェッショナリズムの危険性

 他方で、スペインの哲学者オルテガ・イ・ガゼットが『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)で鳴らした警鐘に耳を傾けねばならない。


 大衆は、無知であることを恥じず、知らないのに知っているかの如く振る舞い、自分の意見が正しいと信じて疑わない。専門的訓練や知的自己修養を経ていない大衆は、凡庸であるにもかかわらず、その凡庸さを正当化しようとする。


 このようにアマチュアリズムには危険性がある一方で、プロフェッショナリズムにも危険性がある。

 すなわち、学問の専門化・細分化により専門家が増えたが、その専門性は、狭く、専門外については無知であり、大衆と異ならない。

 専門家には、全体を見渡す知的能力・教養・倫理観が欠如ないし低下している。オルテガは、このような専門家をBarbarian Specialist「野蛮な専門家」と呼んでいる。


 SNS 等を通じて誰もが自由に発信できる情報化社会において、大衆がフェイクニュースや陰謀論を拡散したり、逆にこれを信じ込む危険性が高まっている。

 他方で、科学技術が発達した現代社会において、野蛮な専門家が暴走して、人間性を欠如した合理性を追求し、人類を危険に曝(さら)す可能性がある。


 我々は、これまで人類が経験したことがない異様な時代を生きているのだ。


 オルテガの言葉で締めくくろう。

 「過去は、われわれが何をしなければならないかは教えてくれないが、われわれが何を避けねばならないかは教えてくれる」(前掲書72頁)




 






 

 

 昨夜のニュースで、「この夏の主要な企業のボーナスは、1人あたりの平均で94万6000円余りと、去年より4万7000円余り増えて過去最高となったことが、厚生労働省のまとめでわかりました。」と報道されていた。


 個人事業者の私には、ボーナスはない。講師謝礼金は、何十年も上がっていない、というよりも、そもそも上がったことがない。

 物価が高騰しているし、アンケート結果が良くて、リピートしてくださるのだから、成果に応じて多少は値上げしてくださってもよろしいのでは?、と思わなくもないが、自治体財政が厳しく、真っ先に予算を削られるのが職員研修費だとうかがっているので、出講のご依頼があるだけでありがたいと感謝せねばならないと思って、出かかった言葉を飲み込んでいる。


 こんなしがない講師ではあるが、いつも心がけているのは、公私混同をしないことだ。自治体職員研修は、私の個人的意見を発表する場ではないから、個人的な意見、特に政治的意見を一切言わずに、判例・通説・行政実例に従って講義をしている。また、研修担当の職員さんに個人的なお願い事も一切していない。

 民間人の講師であっても、自治体職員研修が公務である以上、清廉潔白であることが求められるからだ。


 ところが、ほとんどの外国では、官僚の公私混同が公然と行われ、賄賂が横行している。嘘だと思われるならば、国際ビジネスをしている人に訊ねるとよい。汚職が日常茶飯事で、如何に苦労しているかを嫌と言うほど語ってくれるはずだ。


 以前にも述べたことだが、西欧では絶対君主制の時代に官僚制が誕生した。ただ、官僚が絶対君主の使用人である点では、中世と変わることがなかった。

 マックス・ウェーバーは、これを絶対君主の家産(一家の財産)を管理する家産官僚制と呼んで、公私混同せず、法に従って国家国民に奉仕すべしという依法官僚制と区別している。


 支那(シナ。Chinaの地理的呼称)やエジプトでは、紀元前から公私の区別がない家産官僚制が採られていた。家産官僚制の歴史があまりにも長すぎて、公私混同を改めることができない病に陥っている。


 例えば、支那には、「清官三代」(せいかんさんだい)という言葉がある。支那の官僚を、賄賂を受け取る「濁官」(だくかん)と賄賂を受け取らない清廉(せいれん)な「清官」に分けた上で、清官も地方役人を務めれば、合法的な付届けだけで子や孫の代まで遊んで暮らせるほどの蓄財ができるという意味だ。

 清朝中期の大臣であった和珅(わしん)は濁官だったそうで、皇帝から自殺を命じられたときに没収された財産は、8億両。これは清の国家予算の10倍以上、豪華絢爛なヴェルサイユ宮殿を建設し、「朕(ちん)は国家なり」で有名なフランスの絶対君主ルイ14世(太陽王)の私有財産の40倍に相当した。


 下記の記事によると、2015年、中国共産党機関紙『人民日報』(電子版)の「習氏の月給は1万元を超える程度で、米高官との格差が大きい」という記事を受け、香港メディアなどが確認したところ、習近平国家主席の月給は、「1万1385元(約23万円)」で、「これを単純計算すると年収にして280万円に満たない」そうだ。

 2015年における我が国の国家公務員総合職(大卒)の初任給は、181,200円で、民間企業の大卒初任給の平均は、20 万8722 円だった。

 習近平国家主席の月給が如何に低いかが分かる。


 中国人向けに、習主席が中国のために薄給に甘んじながら如何に頑張っているかをアピールしたいのかも知れないが、おそらくこれを真に受ける中国人はおるまい。

 というのは、中国の汚職が後を絶たないからだ。

 隣国なので、イメージしやすい中国を例に挙げたが、毎日報道されているウクライナも同じだ。ロシア侵攻以前からウクライナは、汚職国家として有名だから、ウクライナ支援をするにしても、きちんと監視しなければ、本当に必要とする人々に支援が届かないことになる。



ウクライナ、もう一つの戦争では前進 「汚職との闘い」 - BBCニュース

ウクライナは1991年の独立当初から、国内にはびこる汚職と闘ってきた。政府関係者も独立運動家も、この闘いが、国の存亡を賭けたロシアとの戦争に勝利する鍵だとしている。今のところ、汚職との闘いはいくらかの成功を収めている。

BBCニュース

 大雑把ではあるが、このように見てくると、我が国の政治家たちは「価値観を共有する国々」という表現をよく口にするが、「価値観を共有する国々」なんてほとんどないのだ。残念なことに、近隣諸国には存在しない。


 しかし、だからこそ、世の中、綺麗事だけでは済まないのも事実だ。日本人の暮らしを守り、企業の利益を上げるためには、「価値観を共有できない国々」と貿易等をせねばならないからだ。

 国際ビジネスマンには、清濁併せ吞む度量が求められ、贈賄罪のリスクを背負わされているのだ。


 その意味で、常に清廉潔白であれば足りる我が国の公務員は、幸せだと言える。

 子どもに将来なってほしい職業ランキングで、堂々1位に輝いたのが公務員であるのも頷ける。子供に苦労させたくないのだ。

 「隣の芝生は青い」だろうが、今一度公務員の良さを再認識していただけたらと思う。

 

 NASA(National Aeronautics and Space Administration)アメリカ航空宇宙局が韓国人の立ち入りを禁止しているという話がネット上で真しやかに流れている。


 しかし、韓国の新聞『中央日報』の「NASA韓国人職員、6人の性的暴行容疑で起訴される…「勤務先を前に出して接近」」という記事にあるように、韓国人がNASAの職員として勤務しているわけで、当該ネット情報は、嘘ということになる。

 これに対して、NASAが中国人の立ち入りを禁止していることは、本当だった。

 CNNの「NASA 中国人研究者の活動禁止、月めぐる競争激化 「米国が最初だ」」という記事によると、「米国ビザを持つ中国籍の研究者の施設立ち入りやコンピューターなどの利用を禁止している」そうだ。

 日本ではどうなっているんだろう?

詳しい方がいらっしゃったら、ご教示ください。



 追記を書いたら、ブログが勝手に消された。。。若干表現を変えて再アップしたら、またブログが消された。。。再々アップする。よほど都合が悪いようだ。


 この1週間、国際協力機構(JICA)がアフリカ諸国の「ホームタウン」に認定した国内4市がアフリカ人の移住先になるのではないかとの疑念を呼び、アフリカのメディアが「日本は長井市をタンザニアに捧げた」と報道し、ナイジェリア政府も「日本政府が特別ビザを用意する」と発表し、BBCもこれに追随したものだから、大騒ぎになった。  結局、アフリカ側の誤解に基づく誤報だったということで、事態が終息に向かいつつある。


 しかし、アフリカ側がなぜ誤解したのか、別途検証する必要があるのではないか。マスコミは、何をしているのやら。


 ここからは憶測にすぎないのだが、JICAや政府関係者が将来的な話としてそれらしいことをアフリカ側に内々に伝えたのではないかと思う。    

 というのは、国際移住機関(国連IOM)が、国際協力機構(JICA)と、第9回アフリカ開発会議(TICAD 9)のテーマ別イベントとして、8月21日にシンポジウムを共催したのだが、その背景として、次のように説明されているからだ。


 「日本における外国人労働者は230万人(2024年10月、外国人雇用状況)で過去最高を記録しているが、今後必要とされる労働力と国内で対応できる労働力とのギャップを鑑みると、2040年には、現在日本で暮らす外国人住民数のほぼ倍の688万人の外国人労働者が必要になる(JICA緒方貞子平和開発研究所の推計)。国籍別の移住労働者の数は、アジア諸国が上位を占め、日本におけるアフリカからの人材活用は、現状非常に限られている。    

 一方で、アフリカ大陸は唯一今後人口増加が見込まれる地域であり、若い才能にあふれていると言える。近年では、アフリカ人によるスタートアップ企業の創設も増加しており、世界的にアフリカの成長への注目が増している。日本が長年にわたり続けてきた、アフリカ地域への産業人材育成の経験を活かし、アフリカにとっても日本にとってもウィン・ウィンとなるような人の移動や人材への投資の可能性は大きい。」(下線:久保)

 JICAは、外務省所管の独立行政法人なのだが、その予算は、財務省が握っており、実質的には財務省国際局開発政策課の下部組織のようなものだ。    

 財務官僚は、人を数字で考える。上記のように「2040年には、・・・688万人の外国人労働者が必要になる」ならば、外国人労働者を入れたらいい。黄色人種だと、日本人に成りすまして紛らわしいが、黒人だったら、一目見て外国人だと分かるから、出入国・在留管理がしやすいとでも考えたのかもしれない。


<追記>    

 下記の記事によると、国際移住機関(IOM)のエイミー・ポープ事務局長は、「少子高齢化と深刻な労働力不足に直面する日本と、若年層の雇用創出が課題のアフリカ諸国のニーズは一致していると述べ、「働き手の公正な待遇と報酬を確保し、コミュニティーの一員として参加できる環境を整えることが不可欠だ」と訴えた。(下線:久保)

 エイミー・ポープ事務局長は、米国出身で、バイデン政権における移住に関するシニアアドバイザーを務めた他、オバマ政権の国土安全保障次席顧問を務めた。


 ベトナム戦争で米国が敗れたことを知っているだろうに、トランプ大統領が、フランシス・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』に登場するビル・キルゴア中佐に扮した写真とともに、国防省が「なぜ『戦争省』と呼ばれるのか、シカゴはもうすぐ分かることになるだろう」、「朝のナパームの匂いは格別だ」という映画の有名なセリフをもじって「朝の強制送還の匂いは格別だ」とXに投稿している。

 これぐらいやらなきゃならないほど深刻な事態になっているわけで、日本に同じようなことができるとは思えない。初めから移民を入れないことだ。


 余談だが、昔、映画館で観たApocalypse Now『地獄の黙示録』(1979年)は、なんとも後味の悪いすっきりしない映画だった。米軍の狂気を描いた映画だから、すっきりしないのは当然だが、ベトナム人の感想が聞きたいものだ。  


 ちなみに、ビル・キルゴア中佐が指揮する第9航空騎兵連隊第1大隊(ヘリコプター強襲部隊)は、拡声器でワーグナー作曲「ワルキューレの騎行」を流しながらベトコンを攻撃するとともに、キルゴア中佐の要請によって、アメリカ空軍のF-5編隊がナパーム弾(ゼリー状のナフサ(粗製ガソリン)を充填した焼夷弾)でベトコンが潜むジャングルを焼き払っていき、新たな占領地で、キルゴア中佐はサーフィンをしようと主人公を誘う。

 なお、米軍が空からベトナムの民間人を大量虐殺しているように見えるかも知れない。注意深く映像を見ると、民間人の服装をしながら米軍に向かって攻撃していることに気づくはずだ。  

 便衣兵(民間人を装って戦闘行為を行う兵士)だ。米軍は、かつて旧日本軍が南京戦で悩まされたように、ベトコンの便衣兵に悩まされた。  

 便衣兵が戦時国際法違反であることについては、以前触れた。

 私は、X(旧Twitter)をやっていないのだが、ネットで話題になっていたので、備忘録としてリンクを貼っておく。

 岸田元首相の講演会の発言に英字幕を付けた動画が拡散されているらしい。

 英字幕を読んでみたけど、岸田元首相の発言を忠実に翻訳していないところも見受けられるが、それはともかく、私は、左翼全体主義から自由を守ったウィンストン・チャーチル英国首相、マーガレット・サッチャー英国首相、ロナルド・レーガン米国大統領を尊敬する英国流の保守主義者なので、岸田元首相も、たまには良いことを言うものだと感心した。


 しかしながら、左翼の岸田元首相は、極右政党(国粋主義的国家社会主義)の台頭に脅威を感じて、保守主義(真の自由主義)を引き合いに出して、極右政党やトランプ米国大統領をこき下ろしているにすぎないのだが。。。


 トランプ支持者が問題視するとすれば、While it bears the Republican name, it has effectively been taken over by the ‘Trump New Party.’ The good old Republican Party is nowhere to be seen.”という発言だろうか。


 個人的には、岸田元首相が本当にCurrently, the Japanese government is more left-wing than the Biden administration.と発言したのかどうかが気になった。

 動画にはこの発言がなかったからだ。

 機長をしていた従兄弟がジャンボを操縦中にUFO(Unidentified Flying Object)未確認飛行物体を見たと言っていた。

 私も、小学2年生の頃に映画『未知との遭遇』に登場する宇宙船に似たものを見たことがある。急いで帰宅して夕飯を作っている母に伝えたら、「人工衛星が反射した光では?」と言われたのだが、納得できなかった。人工衛星は、一定の軌道を飛ぶのに対して、私が見たものは、急にジグザグしたからだ。


 今月9日、米国連邦議会下院で、「未確認異常現象(UAP)の透明性と内部告発者保護を通じた国民の信頼回復」と題したUFO公聴会が開催され、UFOが米軍のミサイルを跳ね返した映像が公開された。

 エリック・バーリソン下院議員(共和党、ミズーリ州選出)が公開した映像には、2024年10月30日のイエメン沖で、米軍の無人攻撃機「MQ-9 リーパー」が発射した空対地ミサイル「ヘルファイア」が高速飛行する光る球体に命中したのに、その球体は、ヘルファイアを跳ね返し、そのまま飛行を続けている様子が映っている。

 ミサイルが当たった衝撃で壊れたのだろうか、3つの小さな破片らしき物も飛行を続けている。

  この映像は、別のMQ-9が撮影したものだそうだ。

 UFOに向かっていきなりミサイルをぶっ放すところが米軍らしい。苦笑

 もしこのUFOが地球外生命体の物ならば、宇宙戦争になりかねない。地球外から来て、ミサイルを跳ね返す科学技術を有する宇宙人相手に勝算があるのだろうか。。。H・Gウェルズもびっくりだ!


 まあ、この映像が本当かどうかは怪しいが、仮に本当だとしても、防衛費の増額を求めたり、政権内部の問題から世間の目を逸らしたりする際にUFOや地球外生命体を話題にするのが米国の常套手段だから、なんらかの政治的意図があると考えるのが無難ではないか、と大人になって根性が捻じ曲がった私は思ってしまう。








 40年以上前に、動物生態学の観点から人間を考察したデズモンド・モリス『裸のサル』(河出書房新社)を読んだ。

 なぜ裸になったのかについて、モリスは、火を使うようになったからだとか、海中(水棲)から陸に上がったからだとか、あれこれ仮説を立てていたが、頭髪・脇毛・陰毛が残った理由を説明しきれていなかった。


 現在の最有力説は、サバンナでは直射日光を避ける木陰がなく、乾燥して高温であるため、大量の汗をかいて皮膚から気化熱を奪って体温を下げる必要があることから、裸のサルになったというサバンナ説らしい。頭髪が残っているのは、頭を紫外線や直射日光から防ぐためだそうだ。

 そして、人類が衣服を着るようになったのはいつかについては、シラミの研究から明らかになった。

 コロモジラミは、衣服を生息地とするので、衣服が発明される前には存在し得ない。そこで、アタマジラミからコロモジラミが遺伝的に分化した時期を測定したところ、コロモジラミが出現したのは今から約17万年前であることが判明したそうだ。

 地球が寒冷化した時期と一致する。

 地球が温暖化していると言われているから、かつてサバンナで生活していた頃のように、衣服を着用せずに裸で暮らすのが理に適っているのかも知れないと考えた貴方!

 そんな貴方にぴったりの市がある。


 米国バーモント州バーリントン市では、公の場で服を脱ぐことは、条例で禁止されているが、裸の状態で自宅を出れば、公共の場でヌードでいることが認められているのだ!!

 下記の記事の写真をご覧(ろう)じろ。全裸のおっさんが通勤している!見たくねぇ〜!!笑


 しかし、移住するなら、お早めに♪

 服を着用せずに歩き回った場合、数百ドル規模の罰金を科す条例改正案が委員会を通り、市議会本会議で可決される可能性があるそうだ。

 

 私は、X(旧Twitter)をやっていないのだが、下記の投稿がネットで話題になっていたので、ちょっと考えてみた。

 ドラえもんが「イタリア・スペイン・ポルトガルではめちゃくちゃ人気」であるのに対して、それ以外のヨーロッパでは不人気なのは、「ゲルマン圏」かどうかではなく、カトリックとプロテスタントの違いに由来するのではないかと思う。


 ざっくりおさらいすると、

 ローマ帝国は、多神教だったが、キリスト教がローマ帝国の国教になった。

 その後、ゲルマン民族の大移動により、ローマ帝国が東西に分裂し、キリスト教会も東西にSchismaシスマ「分裂」した。

 東方教会が正教会で、ロシア正教・ギリシア正教と呼ばれる。これに対して、西方教会がカトリックと呼ばれる。

 このカトリックからさらに分かれたのがプロテスタントだ。

 つまり、おおまかに言えば、キリスト教には、正教会、カトリック、プロテスタント、という3つの教派があるわけだ。


 次に、カトリックとプロテスタントの違いをざっくりとおさらいすると、

 カトリックでは、イエスの復活の第一目撃者であるイエスの使徒とその正統な継承者を通してしか神を知ることができないから、人々を導けるのは、第一目撃者である「第一の使徒」ペテロとその正統な継承者である教皇だけなのだ。

 これに対して、プロテスタントでは、神の前では人間皆平等だと考えるので、ローマ教皇を特別扱いしない。


 イエスの母であるマリアについて、カトリックではイエスを産んだ「聖母マリア」として「崇敬」されるのに対して、プロテスタントではイエスを産んだ一人の人間にすぎないとして特別視されない。


 なお、カトリックは、あくまでもマリアを「崇敬」しているにすぎないのであって、決して「崇拝」しているわけではない。「崇拝」の対象は、あくまでも父と子と精霊なのだ。マリアを敬いこそすれ、拝んでいるわけではないのであって、マリア「崇拝」は、異端として禁止されている。


 では、なぜマリア「崇敬」が認められているのか。

 キリスト教がローマ帝国の国教になる前は、多神教であり、女神崇拝が盛んだった。

 これに対して、当初、キリスト教は、奴隷を同じ信者として平等に扱ったり、キリストの血と肉を象徴する葡萄酒とパンを信者が食べる儀式(聖餐式)が人肉食だと誤解されたり、キリスト教以外の宗教を否定したりして、嫌悪され、社会秩序を乱す危険な得体の知れない連中だとして迫害された。キリスト教が国教化された後も、多くの人に嫌悪感を抱かれていた。

 そこで、もともと聖人ではなかったマリアを聖母として認めることにより、女神を信仰する土着宗教に擦り寄って、キリスト教への嫌悪感を払拭し、キリスト教に親しみやすくしようとしたわけだ。


 そして、本来、神と人間との仲介者は、イエスだけなのだが、カトリックでは、聖母マリアに仲介者として畏怖すべき父たる神に取り次ぎを願うことが認められている。

 平たく言えば、厳格な父ちゃんに直接お願いするのは怖いので、優しい母ちゃんから父ちゃんに上手くとりなしてほしいと願うわけだ。

 このような聖母マリア崇敬が、母親や年配の女性に対する敬意を生み、レディーファースト文化へと発展した。


 もうお分かりだろう。ドラえもんは、なんだかんだ言いながら、出来の悪い息子(のび太くん)の願いを聞き入れ、これを助け守る母親のような存在であって、聖母マリアとイメージがオーバーラップすると言うと言い過ぎかもしれないが、聖母マリア崇敬が行われているカトリック諸国では、少なくともドラえもんのような存在が受け入れられる素地があるのだ。

 換言すれば、カトリックでは、聖母マリア崇敬により、母親に甘えることが許されているのに対して、一人ひとりが直接神と向き合わねばならないプロテスタントでは、甘えることが許されないのだ。

 それ故、聖母マリア崇敬が認められているカトリックの「イタリア・スペイン・ポルトガル」では、のび太くんに甘い母親の如きドラえもんが人気なのだと思われる。


 なお、同じラテン系のフランスでドラえもんが不人気なのは、フランス革命によってカトリックの坊さんたちを殺しまくって、個人主義の国になり、子供といえども自立・自律しなければならず、甘えることが許されないからだ。


 素人考えなので、間違っているかも知れないが、中らずと雖も遠からずではないか。


 カンボジアが国籍剥奪法を制定したそうだ。

 確かに、反体制派の弾圧に悪用される可能性があるが、国籍剥奪法自体は、別段珍しくない。

むしろ、我が国のように国籍剥奪規定がないことが珍しいのだ。

 この点については、以前述べた。

<追記>

 国籍剥奪法は、以前述べた「戦う民主主義」と関連する。

 ご存知のように、日本語では同じ発音だが、語源・綴(つづり)・発音を異にする二つのキャリアがある。


 まず、半導体の中を流れる電荷の運び手となるもの、荷台、保菌者、通信事業者、運送業者を指すcarrierキャリアは、carryキャリー「運ぶ」から派生した言葉だ。


 もうひとつがcareerキャリアだ。こちらが今日のお題。


 careerキャリアとは、「熟練を要する技術、仕事、遊びなどにおける十分な経験。〔外来語辞典(1914)〕」をいう(『精選版 日本国語大辞典』小学館)。


 careerの語源は、中世ラテン語のcurrere(carrus-=車)轍(わだち)であって、そこから競馬場や競技場のコースやトラックという意味が生まれ、さらに人の経歴・職歴などの経験を指すようになった。


 つまり、careerは、もともと「どこへ向かって、なんのために」という目的や志を問わない言葉なのだ。

 「キャリア・アップ」、「キャリア・プランニング」、「キャリア・デザイン」、「キャリア・プラン」、「キャリア・カウンセラー」などのカタカナ言葉が薄っぺらく思えるのは、キャリアという言葉自体に目的や志が欠如しているからなのだ。


 下記の記事には、「この組織で自身のキャリアを諦める選択をしました」、「自身のキャリアについて『このままでいいのかな』と考えていたら」という言葉が出てくる。

 この記事の主人公を批判するつもりはない。自分の人生だから、自由にしたらいい。


 ただ、私が気になるのは、この記事を何度読んでも、キャリア・アップの目的や志が見えてこない点なのだ。


 これは、ひとつには、記事の執筆者に原因があるのかもしれない。「教育ジャーナリストの濱井正吾さんが、「学歴ロンダリング」をして、人生が好転した人を取材する連載「濱井正吾 人生逆転の学歴ロンダリング」」という連載記事の性質上、学歴ロンダリングに力点を置いているからだ。


 そこで、記事から離れ、一般論になるが、転職求人サイトのCMがバンバン流され、青い鳥症候群に毒されている人が増えたような気がする。


 厚労省の用語解説によれば、「現実の自分や、取り巻く環境、待遇などを受け入れられず、自分にはもっと力があり、もっと能力を発揮できる場所があるはずだ、という考えを捨てられず、理想の職場を求めて転職を繰り返す人のことをメーテルリンクの童話「青い鳥」にちなんで「青い鳥症候群」と呼ぶことがあります。不全感が続くことにより、うつ病に移行することもあります。」

 青い鳥症候群も、careerという言葉と同様に、目的や志が欠如している。


 自己評価が高く、他者からの承認欲求が強い人は、足るを知らず、現状に不平不満を抱き、目的や志なくして「キャリア・アップ」を図るべく学歴ロンダリングや転職を繰り返すのだろう。

 日本は、アメリカ型社会の悪い面ばかりを後追いしているように思える。


 とはいえ、青い鳥症候群の人は、昔からいた。

孔子は、『論語』で次のように述べている(宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫、103頁)。


子曰、不患無位、患所以立。不患莫己知、求爲可知也。


子(し)曰(いは)く、位(くらゐ)無(な)きを患(うれ)へず、立(た)つ所以(ゆゑん)を患(うれ)ふ。己(おのれ)を知(し)るものなきを患(うれ)へず、知(し)らるべきを爲(な)すを求(もと)む。


世人は位のないことを患うるが、君子は位のないことを患えないで、その地位に立つだけの学問道徳のないことを患うる。世人は人から知られないことを患うるが、君子は他人が己を知らないことを患えないで、人から知られるだけの学問道徳を身に具えようと求める。


 孔子は、他にも似たことを言っている(前掲書34頁)。


子曰、不患人之不己知、患不知人也。


子(し)曰(いは)く、人(ひと)の己(おのれ)を知(し)ら不(ざ)るを患(うれ)へず。人(ひと)を知(し)らざるを患(うれ)ふ。


君子の学は己の人格を完成することをつとめるのである。他人が知っても知らなくても、己を損益することはないのであるから、他人が己を知らなくても憂慮はしない。ただ人を知らないことを憂慮する。人を知らなければ、善を取って悪を去り、正に従って邪に遠ざかることができないからである。


 群雄割拠する春秋時代、孔子は、己の理想を実現すべく仕官の口を探して諸国を流浪した。

 しかし、実力主義の下剋上が罷(まか)り通り、身分秩序が崩れつつある乱世において、古代の周王朝への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げる孔子の思想は、あまりにも現実離れしていて、理想主義的であるため、諸侯たちに受け入れられなかった。


 このことを踏まえて、改めて上記二つの発言を読むと、孔子が負け惜しみを言っているようにも思える。実際その通りだったのだろう。


 しかし、青い鳥症候群とは異なり、孔子には目的・志(それが良いか悪いかは別として)があった。

 それ故、不遇を託(かこ)つことなく、目的・志を実現するために、自ら研鑽に励むとともに、後進の指導に努めたのだと思う。

 孔子の下に3000人の弟子が集まったのも、孔子がただの青い鳥症候群ではなかった証拠だ。


 「キャリア」で悩んでいる人がいたら、目的・志に思いを馳せてみてはどうだろうか。そうすれば、不遇をものともせずに健気(けなげ)に生きる道も開けよう。


<追記>

 下記の記事によると、「転職でキャリアアップ」は古くなりつつあり、アメリカの雇用市場の「日本化」が進みつつあるらしい。

 個人的には、終身雇用・年功序列で社員を家族として扱う日本式経営で上手くいっていたのだから、これをこのまま続けつつ、外部から必要な人材を補充する方が日本人のライフスタイルや価値観に合っていると思っている。

 ハーバード大学のビジネススクールの院生たちが、毎年わざわざ日本へ来て、日本式経営を学んでいるのに、日本は、学歴ロンダリング・転職を繰り返して、アメリカ型社会の悪い面を後追いばかりしているのは、なんという皮肉だろうか。



「転職でキャリアアップ」はもう古い?「会社を辞めないアメリカ人」が増えている理由



 


 



 カナダが潜水艦を購入するための最終選考にドイツと韓国が残ったとして、下記の記事は、韓国の潜水艦技術を自画自賛している。


 下記の記事には、まったく触れられていないが、カナダが本当に欲しかったのは、世界一と言われる日本の最新の潜水艦だった。

 しかし、カナダには中国や韓国の移民が多く、技術流出の危険性が高いからだろうか、日本は、カナダからの打診を断り、カナダの入札に参加しなかった。懸命な判断だ。


 中国や韓国への技術流出の危険なんて根も葉もないことを言うな、ヘイトだと罵詈雑言を浴びせられそうだ。


 しかし、下記の記事は、「ノートにこっそり技術書き写し」とタイトルに掲げるとともに、記事本文には、「当時ドイツに派遣され現在はハンファオーシャンの生産職最高監督者を務めるチョン・ハングさんは「ドイツTKMSが技術をそのまま教えるわけがなかった。同僚らと役割を分担して技術情報を収集し、夜には宿舎のベッドの下に隠れて技術日誌を整理した」と話した。」と技術を盗んだことを誇らしげに語る産業スパイのコメントを載せている。

 同様の話は、いろいろある。例えば、下記の記事には、「ごみ箱を掘り返して部品国産化」という小見出しを付けて、「コ氏は韓国のロケット開発の生き証人だ。2000年に韓国初の液体燃料ロケットである「科学ロケット(KSR)3号」を開発したのをはじめ、ロシアとの羅老(ナロ)号の共同開発、今回のヌリ号まで20年以上にわたり発射体研究に没頭した。コ氏は羅老号開発当時、ロシアのエンジニアが落としていった紙を拾い、徹夜で翻訳したり、捨てられた油を分析したりした。」と産業スパイの苦労話を得意げに載せている。

 これも有名な話だが、韓国は、米国が軍事供与した戦闘機の軍事機密を盗もうとして、米国が指定した開けてはならない「ブラックボックス」を勝手にこじ開けて、元に戻せず、不良品だと難癖を付けて補償を要求するケースがしばしばある。

 これも有名な話なのだが、韓国がドイツから輸入した戦車のパワーパック(エンジン+変速機の動力装置)の変速機をパクって国産化しようとしたのだが、上手く造れず、何度耐久テストしても基準を満たさないため、結局、耐久テストの基準を下げて合格させ、純国産戦車としてポーランドに輸出した。

 これまた有名な話だが、韓国がイタリアの「76ミリ速射砲」をパクって独自技術だとして軍艦に取り付けたら、誤作動して暴発事故を起こしたし、ソナーをパクれなかったため、軍艦に魚群探知機を付けたことが発覚した。

 さらに、下記の記事には、「蒸した大豆を分解する麹菌は醤油の味を左右する「企業秘密」。当時、ヤマサなど日本の醤油メーカーの製造技術は「韓国をはるかに上回っていた」ため、オ副社長はその秘密が非常に気になっていたという。そこでオ副社長は、見学中にできるだけ大きく空気を吸い込んで鼻の中に菌の“種”である胞子を集め、麹室から出るとすぐにティッシュで鼻をかんだ。そして帰国したオ副社長は、そのティッシュの分析を重ねてヤマサの味の秘密を解明したという。オ副社長は「僕がつくった醤油を韓国国民が1日も欠かさず食べていると考えると、重要な仕事をしていると感じる」とも話していたという。」と技術を盗んだことを得意げに語る産業スパイのコメントを載せている。

 繊維、製鉄、造船、半導体、家電、農業、醤油、味噌、音楽、アニメ、映画、ドラマ、バラエティー番組、漫画、お菓子、茶道、和紙、剣道、柔道など、あらゆる分野で技術・アイデアを盗んでおきながら、それを誇らしげに語り、独自技術・伝統文化だと嘯(うそぶ)く連中なのだから、未来志向の相互交流なんてもってのほかだ。何度騙されたら目が覚めるのか。。。

 その意味で、マスコミは、カナダに潜水艦を売らない決断をした政府を褒めるべきだ。


 なお、韓国の潜水艦は、一度潜ると、二度と浮上しないことで有名であって、潜水艦に乗りたがらないそうだ。

 カナダがバカでない限り、ドイツの潜水艦を購入するだろう。

<追記>

 韓国が改良工事を行なったインドネシア海軍のドイツ製潜水艦ナンガラが艦体をパカっと3つに分割させて沈没した。

 この点に関連して、国際政治における潜水艦の意義について、分かりやすい記事があるので、リンクを貼っておく。