『プルタルコス英雄伝』(英語読みで『プルターク英雄伝』)の「カエサル」伝を読んだシェイクスピアが書き上げた戯曲が『ジュリアス・シーザー』であるように、『プルタルコス英雄伝』ほど、欧米の教養ある人々に愛されてきた伝記はない。綺羅星の如き古代ギリシャ・ローマの英雄たちが描かれているからだ。
しかしながら、我が国でこの本が人口に膾炙(かいしゃ)することはない。それには理由がある。
帝政ローマ時代のギリシャ人であるプルタルコスは、まさに知の巨人と呼ぶに相応しく、博覧強記(はくらんきょうき)で、微に入り細を穿(うが)つが如く、マニアックな記述をする傾向にあるし、また、教養ある同時代人であれば当然に知っているであろうことについては説明を省いているので、現代の我々日本人には読みにくいからだ。
ヘロドトス『歴史』(岩波文庫)、カエサル『ガリア戦記』・『内乱記』(講談社学術文庫)、スエトニウス『ローマ皇帝伝』(岩波文庫)、タキトゥス『年代記』(岩波文庫)・『ゲルマニア アグリコラ』(ちくま学芸文庫)などを読んでいたので、当時の文章に少し慣れており、多少の前提知識があったから、30年ほど前に『プルタルコス英雄伝』(ちくま学芸文庫)をなんとか通読することができたが、これらの書物と同様に、膨大な知識が右の耳から左の耳へと抜けていく感覚に襲われた。
この感覚は、私だけではあるまい。一部の専門家を除き、素人には古典は難しいのだ。
そこで、一旦『プルタルコス英雄伝』を咀嚼(そしゃく)して、ストーリーに再構成したのが、鶴見祐輔訳『プルターク英雄伝』だ。読んだことがないけど。戦前からのロングセラーだ。
鶴見氏は、政治家であると同時に文筆家で、分かりやすい文章を書く。その著『ナポレオン』を読んで面白かったので、鶴見氏の『プルターク英雄伝』もぜひ読んでみたいと長年思い続けていた。
現在、潮文庫から鶴見氏の『プルターク英雄伝』が販売されているが、これは、絶版になった全8冊から選録したものにすぎない。
昨日、鶴見祐輔訳『プルターク英雄伝』(潮文庫)全8冊揃いの古本を運良くネットで見つけて購入した。五千円で、送料三百円だった(送料が安すぎる。佐川急便なのに)。保存状態の良い本を安く買えた。二、三日したら到着するだろう。今から楽しみだ。
老婆心ながら、村川堅太郎編『プルタルコス英雄伝 上中下』(ちくま学芸文庫)又は河野与一訳『プルターク英雄伝 全十巻』(岩波文庫)の読解のコツを2点書き留めておこう。
まず、この本は伝記だから、最初に、主人公の生い立ちが書かれている。血筋や家柄などの出自に関する事柄だ。
プルタルコスが最も注目しているのは、主人公が子供の頃に抱いた情念だ。何が彼をして行動に駆り立て、英雄たらしめたのか。これこそが『プルタルコス英雄伝』に一貫して認められる視点なのだ。読者も、この点に注目すると、段違いに読みやすくなる。
例えば、ヘロドトス『歴史』のハイライトは、ペルシャ戦争。サラミスの海戦で名を上げたギリシャの英雄テミストクレスについて、プルタルコスは、子供の頃から血気にあふれ、先天的に頭脳明晰、後天的には大志を抱き政治を好む傾向にあったが、貴族出身ではなく、混血であったが故の劣等感こそが、彼をして名声を求めさせ、名誉心に駆られて大事業の虜(とりこ)にさせたと書いている。原文には「劣等感」と明記されてはいないが、エピソードから十分読み取れる。
そして、英雄になると驕りたかぶって傲慢になり、追放されることを予感させるエピソードも書いている。
すなわち、「公けのことに首を突っ込むことからテミストクレスを引き離そうとした父親は、海辺に打ち棄てられたまま顧みられない古い三段櫂船を指し示して、民衆指導者に対しても、一旦御用済みとなると、大衆はこれと同じ態度をとるものだと教えた」という。実際にその通りになる。
サラミスの海戦に勝利し、ギリシャ諸国の救国の英雄となったテミストクレスは、ますます増長した。
例えば、ペルシャ軍の死体が海辺に打ち上げられたのを検分したテミストクレスは、死体が黄金の腕輪や首飾りをつけているのを見ると、自分はそのまま通り過ぎたが、後ろに従う友人にはそれを指し示して、「くすねておき給え。君はテミストクレスではないのだから」と言った。
テミストクレスは、高慢ではあったが、アテナイ(アテネ)に対する愛国心が強く、知謀に長けた策士だった。
ペルシャ軍が引き上げたので、テミストクレスは、アテナイ市民に向けて演説した。自分には、諸君にとって利益となり安全を守る秘策があるが、大勢の前で明かすわけにはいかないと。
そこで、市民たちが、かつてテミストクレスがオストラキスモス「陶片追放」して10年ぶりにアテナイに帰郷したアリステイデス一人だけに打ち明けて、彼がよしとすれば、行動に移るようにせよ、と勧告した。つまり、アテナイ市民は、テミストクレスの傲慢さにうんざりし、疑心を抱いていたわけだ。
テミストクレスは、アリステイデスに、「今、ギリシャ連合艦隊が集結している。アテナイの船以外を全て焼き払えば、アテナイがギリシャの覇者になれる」と秘策を打ち明けた。
アリステイデスは、市民の前に進み出て、この秘策は、「これに増して有利なものはない代わりに、それより不正なものもない」と言ったので、アテナイ市民は、テミストクレスに中止を命じた。
テミストクレスの名声と、その右に出る者のない勢いを挫(くじ)こうとして、アテナイ市民は、テミストクレスをオストラキスモス「陶片追放」に処した。
かつて父が忠告した通りになったのだ。
プルタルコスは、「その実力が重すぎて民主的平等に不釣合いだと思われた人物には、それが誰であろうと、こうした手段がとられる習わしであったのである。つまり、陶片追放は刑罰ではなく、嫉妬心の慰撫・軽減である。嫉妬心というものは頭角を現わす者の頭を抑えつけることに快哉(かいさい)を叫び、そのむしゃくしゃをこのような公民権剥奪という形に現わして発散させるのである。」と述べている。
この文章に、プルタルコスの深い人間洞察が見て取れる。これが読解のコツの2つ目だ。
アリストテレスが言うように、人間は、ポリス的動物「社会的動物」だ。人は、一人では生きていけず、社会生活を営まざるを得ない。大なり小なり、常に他人の評価を気にして生きる生き物なのだ。それ故、欲深き人間は、他人から高い評価を受けることを望み、他人から高い評価を受けると高慢になるし、一方で、評判の良い人に嫉妬する。
人間がこのような存在であるとするならば、他人が何を基準にどのように評価するのか、何にどのように嫉妬するのかを理解できれば、ある程度自制することが可能になる。
それ故、プルタルコスは、英雄伝を書き上げ、教養ある欧米人は、ここから教訓を読み取り、人生の指針としてきたのだ。
だから読み手は、この点にも注目すると、理解しやすくなる。
さて、陶片追放されたテミストクレスは、どうしたかというと、なんと敵国ペルシャに逃れたのだ。
ペルシャ戦争の際に、ペルシャのクセルクセス大王は、ペルシャからギリシャに陸軍を迅速に渡すために、ヘレスポントス海峡アビュドス附近に二本の船橋を設けていた。
テミストクレスは、捕虜の中にいたクセルクセス付きの宦官(かんがん)に、次のようにクセルクセスに伝言するよう頼んだ。
今やギリシャは、サラミスの海戦に勝利し、海軍力で優位に立ったので、ヘレスポントスの船橋を破壊する決定をした。しかしながら、テミストクレスは、大王の身を案じて、ペルシャに向けて急いで渡られるよう勧めるとともに、その間自分は味方の進軍を手間取らせ、追撃を遅らせるように努める、と。
これを伝え聞いたクセルクセスは、ペルシャに帰国できなくなると恐怖し、急いでペルシャに退却した。
ペルシャ海軍は、大敗したわけではなく、多くの兵力を温存していたし、陸軍もギリシャ軍を圧倒していたので、このままではギリシャの敗北になることを予想して、テミストクレスが一芝居打ったのだ。
クセルクセスは、騙されたとは思っていないし、テミストクレスも、陶片追放されたとはいえ、自分ほどの英雄をむざむざ殺しはしないだろうと考えてペルシャへ逃れたところ、ペルシャは、テミストクレスを国賓として歓待した。
そして、ペルシャのアテナイ追討艦隊の司令長官に任命されたテミストクレスは、祖国に弓引くことができず、毒杯をあおって自決した。
これと似た話は、日本にもある。「三献(さんこん)の茶」で有名な石田三成(みつなり)だ。
長浜城主となった秀吉が、鷹狩りの帰りに寺に立ち寄って、茶を所望した。小坊主だった石田三成は、1杯目を「ぬるめのお茶を大きめの茶碗」に入れて持ってきた。秀吉がそのお茶を飲み干すと、今度は「少し熱めのお茶をやや小さめの茶碗」に入れてきた。もう一度飲み干すと「熱いお茶を小さい茶碗」に入れて持ってきた。
気遣いと頭の良さに感服した秀吉は、三成を家臣にした。
名門名家の生まれではない三成は、劣等感をバネに、知略で大出世を遂げたが、加藤清正などの武闘派との確執を生み、清正たちが三成を殺害するため挙兵したことを察知して、自分の領地である佐和山へ帰れないため、豊臣家最大の敵である徳川家康がいる向島の屋敷へ逃げ込んだ。
「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」(逃げ場を失った鳥が自分の懐に飛びこんでくれば、猟師もその鳥を殺しはしない。まして、人が困窮して救いを求めてくれば、どのような理由があろうと援助の手をさしのべるのが、人の道である。)というように、家康は、三成を殺さずに、佐和山へ無事に送り届けた。
その結果、恩人である家康に弓引く関ヶ原の合戦になるわけだ。
テレビをつけると、本当にくだらない番組ばかりだ。子供向けの伝記でもいい。伝記を読むと、新しい教訓を得られ、明日への活力が生まれると思う。
ジジイからのおすすめだ。
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