極める

 昨夜の金曜ロードショーで放送された映画『侍タイムスリッパー』(2024年)は、面白かった。

低予算の自主制作映画だそうだが、『ゴジラ-1.0』(2023年)と同様に、日本映画もまだまだ捨てたものではない。

 実写映画『キングダム』や実写映画『るろうに剣心』では、従来にない斬新な殺陣(たて)が行われており、ダイナミックな動きに目を奪われる。


 しかしながら、プロボクシングや柔道の試合を見たら分かるが、誰よりも抜きん出た類稀(たぐいまれ)なる才能と身体能力を有し、日々過酷な練習に打ち込んでいる一流選手でも、3分戦うだけで、肩で息をしてしまうほど、疲労困憊(こんぱい)するから、映画のような戦い方を続けることができるわけがなく、あまりにも現実離れしていて(そもそも登場人物が人間離れしているが)、興醒(きょうざ)めしてしまう。

 

 これに対して、映画『侍タイムスリッパー』は、リアリティがあった。劇中劇「心配無用ノ介 天下御免」は、チャンバラ時代劇という設定だから、殺陣が実戦的ではなく、舞いの如きは当然だが、劇中劇「最後の武士」のラストシーンで本身(真剣)を使うという設定での殺陣は、対峙する武士双方が腰を落として構えており、実戦的で大変感心した。


 ただ、何度も刀で払い合い、鍔(つば)迫り合いをするなど、斬り合いの時間が長かったのが残念ではあった。もっと早く勝負がついていたはずだ。最初、至近距離で刀を抜かずに対峙していたので、仮にどちらかが抜刀術(居合術)を習得していたら、初手で勝負がついていたと思われる。

 二人の心の葛藤(かっとう)を描くため、演出上、時間を長くしたのかも知れない。


 なお、映画では触れられていないが、タイムスリップした高坂新左衛門たちは、戸籍がないのにどうやって暮らせるのかというと、記憶喪失を理由に、以前お話しした「就籍」をすればいいのだ。タイムスリッパーに出会ったら、アドバイスしてあげよう。笑

 剣術に限らず、日本の武術では、戦場で長時間戦い続けられるように、必要最小限度の動きで呼吸を乱さず、敵を戦闘不能状態にするよう徹底的に稽古(けいこ)をする。戦さでは、敵を殺す必要はなく、戦闘不能状態にすれば、死んだも同然だからだ。名のある敵将の首級をあげればいいのだ。

 例えば、剣術であれば、甲冑で防御された頭部や胴などを狙わずに、頸部、脇の下、手首の裏、肘の裏、股、膝の裏などを斬るか、又は喉などを突く。通常、出血性ショック死するだろうが、止血できたとしても、腱を斬られているので、まともに動けない。

 勝負は、ほぼ一瞬で決まる。ほんの一瞬の判断・動きの差が勝敗を分けるのだ。


 この点、戦国時代の武士の魂が現代の高校生に憑依(ひょうい)するテレビドラマ『サムライ・ハイスクール』(2009年)で、三浦春馬演じる戦国武将・望月小太郎の殺陣は、良かった。殺陣初心者だそうだが、甲冑を着た敵の首や脇を斬って戦闘不能にしていたからだ。殺陣師を褒めるべきか。

 もちろん、派手な演出がなされていたし、ストーリーがイマイチだったので、数回観て視聴をやめた。

 なお、三浦春馬の若侍姿は、凛々(りり)しく清々(すがすが)しかったので、往年の時代劇全盛期にデビューしていれば、時代劇の大スターになっていたことだろう。

 このように考えると、例えば、戦国時代の剣術家・塚原卜伝(つかはら ぼくでん)の凄さが理解できる。塚原卜伝が「剣聖」と呼ばれる所以(ゆえん)は、その戦績を見れば明らかだ。

 「十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く弐百十二人と云り」


 塚原卜伝に限らず、一つのことを極めんと努めるのが日本人の特徴なのだが、日本のテレビや新聞は、報道機関としての道を極めんと努力していない。危険な現場には行かず、安全な所からウクライナやイスラエルの戦争の死者数ばかり報道しているからだ。昔からそうだ。

 前述したように、戦闘不能になれば、死んだも同然なので、傷病者数は、戦死者数と同様に、戦争の帰趨(きすう)を決する重要な情報なのに、平和ボケで戦争というものが分かっていないし、分かろうとしないため、傷病者数を報道しない。そのくせ、平和教の布教には熱心なので、タチが悪い。

※  米シンクタンク・戦略国際問題研究所(CSIS)によれば、「ロシア軍側では推計95万人が死傷し、うち最大25万人が死亡した。」「一方、ウクライナ軍では40万人近くが死傷し、うち死者数は6万〜10万人とみている。」

 つまり、ロシアの人口は1億4,000万人で、ウクライナの人口は4,100万人だから、死傷者数1万人当たりでは、ロシアが68人、ウクライナが98人となり、ウクライナの方が犠牲は多いわけだ。

 トランプ大統領とゼレンスキー大統領が言い争いになったが、その後、関係を修復して、米国がパトリオットミサイルをウクライナに供与するなど方針を転換したのも、ウクライナの分が悪いとの分析結果に基づくものと考えられる。

 戦闘不能で思い出した。我ながらいつも笑ってしまうが、ひょんなことから思い出す。歳は取りたくないものだ。

 母方の祖父は、薩摩藩士で、柔術の元祖として有名な竹内流免許皆伝。嘉納治五郎先生の招きで、講道館で柔道を学び、日銀に勤めながら、警察官に柔道を教えていた。

 ある日、祖父に「最も強い武器は何か」と訊ねた。槍だろうか、刀だろうか、薙刀(なぎなた)だろうかと思ったら、意外なことに釵(さい)だと言う。ちびっ子の私に、重たい槍や刀を持たせて稽古させていたのはなんだったのか。苦笑

 釵は、琉球空手やカンフー映画に用いられているので、琉球や支那(シナ。chinaの地理的呼称)の武器だと誤解されているようだが、少なくとも戦国時代から用いられている日本の武器だ。

 釵は、二本ひと組で、左右の手に一本ずつ持って戦う。宮本武蔵の二刀流をイメージしたら分かりやすい。


 時代劇に出てくる同心や岡っ引きが持つ十手や兜割(かぶとわり)には、鉤(かぎ)と呼ばれるフックが一つ付いている。

 この鉤が、刀の鍔のように、手を守る役割をする。鉤が鍔よりも優れているのは、これで敵の刀や槍を挟んで動きを止めて、反撃できる点だ。

 釵には、翼(よく)と呼ばれるフックが二つ付いているので、より機能的だ。


 祖父に、刀鍛冶に造らせた本物の釵を持たされて(プロ野球選手がバットやグラブをオーダーメイドするように、武士は、自分に合った武具をオーダーメイドする。)、少し稽古させられたが、ちびっ子の私には重くて上手く扱えなかった。


 釵も十手も基本的には戦い方は同じだ。祖父が護身用にと手造りしてくれた樫の木の十手(全長43cmで、鉄製の鉤が付いている。)の方が軽くて扱いやすかった。

 家に強盗が入った場合に、刀や木刀で応戦しようとするなと言われた。刀や木刀が鴨居や柱に当たってしまい、その瞬間に殺られるからだ。そこで、祖父が十手を造ってくれたわけだ。

 高校時代に剣道部の連中(有段者)と半分おふざけだが、この十手を使って模擬戦をしたら、楽勝だった。

 鉤で竹刀を挟んで、瞬時に相手を攻撃できるし、また、十手には刃がないので、刃毀(はこぼ)れを気にせずに十手で刀を払って懐に飛び込めば、相手は為す術(すべ)もないからだ。

 釵が最強だと言った祖父の言葉は本当だと実感した。


 釵には刃が付いていないので、斬る動作が不要になる。叩いたり突いたりして攻撃する。こんなもので殴られたら、兜を被っていても脳震盪(のうしんとう)を起こして気絶し、戦闘不能になる。攻めるもよし、守るもよし。攻防に最適化された武器なのだ。


 このように釵は、極め付けの武器なのだが、腕のリーチが短いボクサーが不利なように、釵は、槍や刀に比べて、短いので、敵の懐に入るためには、動体視力が良くて俊敏で、ずば抜けた身体能力を必要とするから、万人向けではなく、主流の武器になり得なかったと考えられる。


 ところで、私は、株取引をしたことがないので、恥ずかしながら知らなかったのだが、経済ニュースでよく登場する「ローソク足チャート」は、日本の発明なのだそうだ。


 「ローソク足チャート」は、18世紀江戸時代の出羽国(現在の秋田県と山形県)の米商人・本間宗久(ほんま そうきゅう)が「酒田五法(さかたごほう)」と呼ばれるローソク足チャートの分析方法とともに発案し、大阪・堂島の米相場で使って巨万の富を築いたそうで、明治になって確立したらしい。


 1991年、 Steve Nison スティーブ・ニソンの著書"Japanese Candlestick Charting Techniques"で「ローソク足チャート」が欧米に紹介された結果、現在では世界中で用いられており、この本は、世界中の投資家たちのバイブル的存在になっているそうだ。

 本間宗久もまた一つのことを極めんと努力した偉大な先人だった。





 





 

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