支那(しな。chinaの地理的呼称。)戦国時代の弱小国であった秦(しん)の孝公に仕えた商鞅(しょうおう)は、法家思想(法律万能主義)に基づいて、変法(へんぽう)と呼ばれる国政改革を断行して国力を高め、その後の始皇帝の秦帝国の礎を築いたのだが、変法が苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を極めたために、恨みを買い、孝公没後、車裂き(四肢をそれぞれ馬車に繋いで、一気に馬車を発車させて、腕2本、脚2本、胴体の5つに引き裂く刑罰。)にされた。
商鞅の変法を中心にその生涯を描いた中国のテレビドラマ『大秦帝国-The Qin Empire-』(全51話)をご覧になった方も多いのではなかろうか。時代考証は、所々?だったが、大変興味深く、飽きずに全話を見ることができた。
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秦の始皇帝も、法家思想(法律万能主義)に基づいて統治を行なったが、それはあまりにも過酷であった。
そこで、漢の高祖劉邦(りゅうほう)が秦の軍を打ち破って関中を平定した際、領民を集めて、秦の苛烈(かれつ)な法を改め、殺人・傷害・窃盗の三つのみを罰し、それ以外の秦の法は除き去ると約束したため、庶民が大喜びした故事から、法律が極めて簡略であることを表す「法三章耳」(ほうさんしょうのみ)又は「法三章」という法諺(ほうげん。法に関する格言・ことわざの意。)が生まれたことは、有名だ。
與父老約、法三章耳。殺人者死、傷人及盗抵罪。餘悉除去秦法。(『史記』高祖本紀)
父老(ふろう。村の長老の意。)と約せん、法は三章のみ。人を殺す者は死し、人を傷つくる者及び盗む者は罪に抵(あた)る。余(よ)は悉(ことごと)く秦の法を除去せん。
しかし、たった三章だけで天下国家を治められるはずがない。反社会的行為は、殺人・傷害・窃盗に限らないからだ。それ故、ひょっとしたら劉邦は、プラトンの哲人王のような皇帝を目指そうとしたのかも知れない。
確かに、人格・洞察力・思考力等が優れた哲人王が、良識に従って対処した方が法律によるよりも適切・妥当な結果を生むかも知れない。
しかし、そもそも全知全能の神の如き哲人王が存在し得るのかが疑問であるのみならず、百歩譲って、哲人王が存在し得るとしても、多岐にわたる国家活動・社会活動をたった一人の哲人王が八面六臂(はちめんろっぴ)で律することは不可能であって、哲人王を補助する者が必要不可欠だが、哲人王の下でこれを補助する者たちにも哲人王の資質を求めることは不可能だから、法三章耳は、妥当ではないのだ。
法三章耳が人心を掌握せんとする政治的なパフォーマンスにすぎなかったことは、その後、九章律(きゅうしょうりつ)が定められたことで明らかになった。
ところで、先日、自治体職員研修に出講した際に、rightの説明に関連して、「正義とは何か?」と訊かれた。
これを即答できる人は、意外に少ないのではなかろうか。古来より正義とは何かをめぐって議論が行われていることを知っている者ほど、即答することを躊躇(ためら)うことだろう。
私も、一瞬戸惑ったが、回答できなければ研修講師は務まらないから、「正義とは、正義規範に適合することです。正義規範とは、「各人に彼のものを」、つまり「ひとしいものにひとしいものを」というルールです。例えば、男女は、等しく人間であるが故に、男も女も人間として等しく取り扱われるべきであるとともに、男なるが故に男らしく、女なるが故に女らしく扱われるべきであるということです。う〜ん、具体的に言いますと、男も女も労働者である点で同じですから、男女の定年制は同じであるべきです。同時に、女しか子供を産めませんから、女には産休が認められるべきですし、また、男女では身体の形態や能力に違いがありますから、男女別にトイレを設置したりスポーツ競技を行うことが認められるべきです。これが正義ということです。」と回答した。
道元禅師は、「仏法の教えをたずね、或いは修行の方法をたずねる人があったら、禅僧は、必ず真実のことをもって、これに答えるべきである。そうでなくて、相手の理解力の弱さを顧慮したり、相手が初心者で素養もない場合には、到底わからぬであろうと考えたりして、真実でないが判りやすい第二義的な方便の説き方で、答えてはいけないのだ。」とおっしゃっているが(山崎正一校注 現代語訳『正法眼蔵随聞記』(講談社文庫)43頁)、人を見て法を説かねば研修講師は務まらないのだ。
残念ながら、質問をなさった受講者は、煙に巻かれたようなお顔をなさっていた(苦笑)。現時点での私には、これよりも易しく説明することができないので、ご勘弁いただきたい。
私が学生の頃に、同じ質問を先生方にしたら、おそらく露骨に無視なさるか、又は安直に答えを求める姿勢を厳しく叱責なさったことだろう。
孔子も次のように言っている(『論語』述而第七 )。
子曰、不憤不啓。不悱不發。擧一隅、不以三隅反、則不復也。
子(し)曰(い)はく、憤(ふん)せずんば啓(けい)せず。悱(ひ)せずんば発(はつ)せず。一隅(いちぐう)を挙(あ)ぐるに、三隅(さんぐう)を以(もつ)て反(はん)せずんば、則(すなわ)ち復(ふたた)びせず。
「人が教えるには、教えを受ける人に教えを受けるだけの素地が出来たのを見て、教えを施すべきものである。もしある事を研究して、これを知ろうと求めてもまだよく知ることができないで煩悶(はんもん)してるのを見なければ、その意を開いて知ることのできるようにしてはやらない。もし口に言い表そうとして、言い表すことができないでいるのを見なければ、十分に言い表す事のできるようにしてはやらない。物の道理は類推することのできるものである。ちょうど四隅ある物なら一隅を挙げて示せば他の三隅を知ることができるようなものである。もし一隅の道理を示しても自ら三隅の道理を考えて語ることができないような者なら、まだ教えを受ける素地がないので、告げても効がないから、再び告げることはしない。」(宇野哲人著『論語新釈』(講談社学術文庫)184頁)
さて、話を戻そう。「各人に彼のものを」が正義であるならば、何をすれば如何なる制裁が加えられるかを法にあらかじめ定め、これを国民に知らせ、誰に対してもこの法をひとしく適用すれば、予測可能性を確保することができ、国民は安心して生活することができる。
この点で、法治主義の方が哲人王よりも優れているわけだ。それ故、我が国は、法治主義を採っていると言える。
では、法治主義に基づいて、我が国ではどれだけの数の法令が制定されているのだろうか?
e-Govに登録されている現行法令は、下記の通りだ(計8,624)。その大半は、一部改正法であり、溶け込み作業(書き換え作業)を終えると役目を失うが。
これ以外にも、最高裁判所規則等があるし、自治体の例規もある。条例Webアーカイブデータベースに登録されている例規は、1,337,985(令和2年10月5日現在)だ。
それ故、我が国には、おそらく十数万以上の法令があるだろう。
https://elaws.e-gov.go.jp/registdb/
このように誰も現行法の正確な数すら知らないのに、曲がりなりにも上手くいっているのは、法が良識を基底にしているが故に、良識に従えば、通常、法に違背することがないからだ。換言すれば、法が良識を基底にしなければ、行われない法になるわけだ。
この点は、私人間の契約についても、同様だ。欧米の場合には、微に入り細を穿(うが)つ分厚い電話帳のような契約書を作成するのが通常だが、我が国の場合には、ペラペラの契約書で、魔法の条項とも呼ぶべき「将来、本契約から生ずる権利義務について当事者間に紛争が生じたときには、誠意をもって協議するものとする」という誠意協議条項を末尾に入れさえすれば、事足れりであって、その意味で、我が国では「法一章」が行われているとすら言い得るかも知れない。
私の場合には、法的に見れば、役所との間で職員研修に関する契約を締結しているのだが、実際には、契約書の作成は省略され、日時、場所、研修科目、謝礼金額のみがメールで知らされるだけで、誠意協議条項すらないので、法務省ならぬ「法無章」ということになる。
このように法治主義を建前としながらも、実質的には「法三章」が実践されているというのが大変興味深い。我々日本人は、お互いを信頼し合い、良識に従っていることの証左と言えるが、自画自賛だろうか。
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