越後長岡藩の藩士小林虎三郎先生は、佐久間象山先生の下で学問を修め、吉田松陰(寅次郎)先生と「二虎」と並び称されるほどの英才であり、象山先生をして「事を天下に為すものは吉田松蔭、我が子の教育を託すものは小林虎三郎」と言わしめるほどであった。
小林先生の名声は、昭和18年に作家山本有三氏によって戯曲化された『米百俵』(新潮文庫)により、今日まで伝わっている。
かいつまんで言うと、戊辰(ぼしん)戦争で敗れた長岡藩は、焼け野原となり、維新政府により禄高を従前の7万4千石から2万4千石へと減らされた結果、実質的に6割減収。そのため、藩士たちは、その日の糧を得ることもままならぬほど困窮していた。この窮状を救わんと、長岡藩の支藩(分家)から米百俵が贈られることになった。藩士たちは、米が食えるとこれを大いに喜んだ。ところが、戊辰戦争に参戦して官軍と戦うことに反対したからだろうか、敗戦後、軽輩ながら、維新政府から藩の大参事に抜擢された小林先生が、米を藩士に分け与えずに、これを売却して学校を建てると決定したので、藩士たちが大いに憤(いきどお)り、小林先生に詰め寄ったところ、藩主牧野家の家訓である「常在戦場」の掛け軸を背にした小林先生は、「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭(さと)したため、藩士たちも納得し、「国漢学校」が建設された。この学校は、藩士の子弟だけでなく、庶民も入学できた。卒業生の中には、東大総長や山本五十六海軍大将など著名人が多い。
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小林先生もご立派だが、これに従った藩士たちもご立派だ。明治維新も、国家国民のために、武士が自らその特権を捨てたわけで、崇高なる自己犠牲の精神の為せる業 (わざ)だ。体制側の特権階級が自らの特権を国家国民のために捨て去った例は、世界広しと言えども、稀有だ。強いて挙げれば、白人が黒人奴隷を解放するために自らの命を賭けて戦ったアメリカ南北戦争がこれに匹敵するだろうか。
なぜこのような昔話をしたかと言うと、下記の記事を読んで、小林虎三郎先生に諭してほしいと願う人々が多いのではなかろうか、と思ったからだ。
記事によると、京都府大山崎町にある2つの町立小学校では、5年以上前から雨漏りが続き、天井は抜け落ち、教室にはキノコとカビが生え、壁には亀裂が走り、給食室は学校給食衛生基準を充していないらしく、その原因が町長を擁する与党と野党の対立にあるというのだから、呆れる。イデオロギー上の対立のみならず、給食センター建設をめぐる利害関係等も絡んでいるようで、現代日本の縮図を見るようだ。
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