「相殺」(そうさい)という法律用語を用いた国の法令は、民法をはじめとして145本ある。今では日常生活でもよく用いられているとはいえ、「殺」という字は、物騒な印象を与える。
「相殺」(そうさい)とは、平たく言えば、相互に債務を対当額で差し引きして消滅させることだ。
例えば、AがBから100万円借金していて、他方で、BがAから物を買って50万円の代金を支払わなければならない場合に、借金100万円から代金50万円を帳消しにすることが「相殺」(そうさい)だ。
その結果、Aは、Bに借金50万円を返済すれば足りるわけだ。
cf.民法(明治二十九年法律第八十九号)
(相殺の要件等)
第五百五条 二人が互いに同種の目的を有する債務を負担する場合において、双方の債務が弁済期にあるときは、各債務者は、その対当額について相殺によってその債務を免れることができる。ただし、債務の性質がこれを許さないときは、この限りでない。
2 前項の規定にかかわらず、当事者が相殺を禁止し、又は制限する旨の意思表示をした場合には、その意思表示は、第三者がこれを知り、又は重大な過失によって知らなかったときに限り、その第三者に対抗することができる。
常用漢字では「殺」だが、正漢字(旧漢字)では、「木」の右肩に「、」を打った「殺」と書く。
世界最古の漢字辞典である『説文解字』(西暦100年頃)によれば、「殺戮也。从殳杀聲。」とある。
※ 「杀」は、本来、木の右肩に「、」を打つのだが、PC変換できないので、同じ意味で「、」のない漢字で代用している。
殺(さつ)は、戮(りく)なり。殳(しゅ)にしたがい杀(さつ)を声とする(読み下し文:久保)。
殺(さつ)は、戮(ころ)すという意味だ。殳(しゅ)は、訓読みで「ほこ」と読み、武器の矛(ほこ)の一種だ。杀(さつ)は、殺すだ。
①このように「殺」には、ころす、あやめるという意味がある。
ころすという意味で「殺」を用いる場合には、通常、漢音で「さつ」と読んで、例えば「殺人」(さつじん)と読むが、呉音で「せつ」と読んで、例えば「殺生」(せっしょう)と読むこともある。
「相殺」を「そうさつ」と読むと、お互いに殺し合うという意味になるので、読み方には注意しよう。
②「殺」には、ころす以外に別の意味がある。すなわち、殳(ほこ)で肉を削って、じわじわと殺したのだろうか、「殺」には、そぐ、けずる、へらすという意味がある。
この意味の「殺」は、漢音で「さい」と読んで、例えば「減殺」(げんさい)と読む。
「相殺」(そうさい)も、相互に債務を対当額で差し引きして減らすので、②の意味で「殺」(さい)を使っているわけだ。
さて、『精選版 日本国語大辞典』(小学館)によると、相互に債務を対当額で差し引きして減らすという意味で「相殺」を最初に用いたのは、『仏和法律字彙』(明治19年・1886年)だそうだ。
加太邦憲、藤林忠良 編『仏和法律字彙』は、国会図書館に収蔵されているが、インターネットでは公開されていないため、未確認なのだが、おそらくフランス語のcompensationを「相殺」と訳したのだろう。
compensationは、ラテン語compēnsō(com一緒に、pēnsō重さを計る・天秤にかける→釣り合いをとる、バランスを取る)に由来し、①補償、代償、埋め合わせ、②相殺、③手形交換による決済という意味だ。
釣り合うようにお互いに債務額を減らすという意味で、「相殺」と翻訳した人は、compensationのポイントを的確に掴んで翻訳しており、すごい。
明治の人は、漢文がスラスラ読めるし、漢詩も作れるくらい語彙が豊富だから、compensationの訳語として「相殺」が一番分かり易いと思われたのだろう。
これに対して、現代人の我々は、「殺」(さい)に「そぐ、けずる、へらす」という意味があることを知らないので、「相殺」を見てもピンっと来なくなってしまったというわけだ。
ところで、英語には、日本語の「殺す」と「死ぬ」に相当するkillとdieという二つの言葉がある。その使い分けについては、中学校で習ったと思う。
戦争又は事件若しくは事故で亡くなった場合には、killを用い、病気や自然死で亡くなった場合には、dieを用いる。
通常、日本語では、殺人事件の場合のみ「殺された」と表現し、それ以外の場合は「死んだ」・「死亡した」・「亡くなった」と表現するのに対して、英語では、戦争又は事件若しくは事故で亡くなった場合には、必ず加害者がいるから、すべてbe killed(殺された)と表現するわけだ。
自殺の場合には、直接の加害者はいないけれども、killを用いて、kill oneselfと表現する。自分で自分を殺すのが自殺だから、英語でも日本語の「自殺」と同じように表現するのが興味深い。
なんにせよ、killには、「相殺」(そうさい)という意味はない。英語で「相殺」(そうさい)は、setoffという。
killに関連して、余談を述べると、1971年に大ヒットしたRoberta FlackのKilling Me Softly With His Song(邦題:やさしく歌って)という歌をご存知だろうか。
CMで用いられることがあるから、お若い方も一度は耳にしたことがあるかも知れない。
タイトル及び歌詞のフレーズ「Killing me softly with his song」を皆さんだったら、どのように訳すだろうか。
「Killing me softly with his song 和訳」で検索をかけてみたら、いろんな訳があった。和訳をネットで公開なさるぐらいだから、英語がご堪能なのだろう。
・「苦しみから私を救って」
・「彼の歌がやさしく私の心を奪っていく」
・「やさしい歌で忘れさせてほしい」
・「彼の歌に じんわりと魅せられていく」
・「彼の唄で、優しく、殺されてゆくわ」
・「私を彼の歌でやさしく殺して」
などなど。
語学の才能がない私がとやかく言うのは控えるべきなのだが、余興の戯言(ざれごと)として言わせていただくと、この英語の歌詞には、隠喩(いんゆ)が多用されているように思えるのだ。
例えば、
「 his fingers」→「愛撫」を暗示している
「his words」・「his song」→「彼が彼女の耳元で囁(ささや)く甘い言葉」を暗示している
そうだとすれば、「Killing me softly with his song」は、「歌で優しく逝(い)かせて」又は「囁きながらやさしくいかせて」と訳すとよいと思う。
元々killには、悩殺する、うっとりさせるという意味があるし、また、日本語の「殺す」にも、「④相手を悩殺する。惚(ほ)れさせて意のままにあやつる。」、「⑨ 情交で相手をすっかり夢中にさせる。」という意味があるから(『精選版 日本国語大辞典』(小学館))、さほど不自然な訳ではないと思うのだが、ずいぶんエロチックな歌になってしまうな〜。笑
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