我が国においても、古代より「出挙(すいこ)」と呼ばれる消費者金融が行われていた。穀物の種を貸し付けて、収穫後に利子を付けて収穫物で返していたわけだ。
『日本書紀』孝徳天皇二年の條に「貸稲(いらしのいね)」と見えるが、官稲を民に貸すことが国史に顕れた最初の事例だ。
もともと出挙は、集落内で行われていた慣習だった。すなわち、凶作に備えて集落の倉庫に蓄えた穀物の種を新しい種と入れ替えるために、蓄えていた穀物の種を集落の住民に貸し付けて、収穫後に利子を付けて収穫物で返していたらしい。
※ 「出挙」の語源は、よく分からない。
『古語辞典<新訂版>』(旺文社)によると、出挙の「出」は、公私の財物・穀物を貸し付けるという意味であり、「挙」は、借用するという意味だそうだ。
これに対し、『世界大百科事典 第2版』(平凡社)によると、「出」は貸出し、「挙」は利付きの貸付け、「出挙」となると利貸の汎称だそうだ。
ど素人の勝手な想像だが、おそらくこの出挙は、古代支那(しな。chinaの地理的呼称。)から稲作とともに伝わった慣習ではないかと思われる。
なぜならば、古代支那において、出挙は、律令制度として定められていたわけではないが、春に農民に穀物の種を貸し付け、秋の収穫時に5割(ときには10割)の利子を付けて返還させる慣習があったからだ。
なお、以前、このブログで説明したが、古代支那では、各官署の経常的運営費(事務費や人件費)は、国家予算に計上せずに、各官署が土地などの財産に基づく特別会計を設置して独立採算で賄(まかな)っていた。これを「公廨(くがい)」という。
出挙は、公廨が穀物の種を強制的に貸し付け、凶作の際は抵当物件を差し押さえたりする収奪の手段となっていた。
https://minamoto-kubosensei.amebaownd.com/posts/16034989?categoryIds=2044720
なお、凶作に備えて穀物を倉庫に貯蔵する慣習を悪用した税が、租庸調(そようちょう)の「租(そ)」だ。
すなわち、班田収授法により口分田(くぶんでん)から収穫した米の3%を納めるのが租なのだが、これは、豊作の年には税収が増えるが、凶作の年には税収が減るため、非常に不安定な税収だった。
そこで、納税された租は、使わずに倉庫に貯蔵された。租は、本当は税なのに、「凶作に備えた備蓄米なのだ」と説明すれば、一見すると、昔から集落内で行われてきた出挙の全国版に見えるので、農民の抵抗感を弱めることができたからだろう。いつの世にも、悪知恵が働く為政者がいるものだ。
では、実際に凶作になった場合にはどうなるのかというと、免税が行われた。賦役令(ぶやくりょう)の水旱(すいかん)条には、水害・干ばつ・虫害・冷害などの災害があった場合には、国司がつぶさに実情を調査して、これを太政官に報告し、10分の5以上の損失がある場合は租を免除し、7損失した場合は租調を免除し、8以上損失した場合はともに課役も免除するなどが定められていた。
つまり、半分未満の損失の場合には、免税されなかったので、調査を担当する国司の匙加減(さじかげん)一つで決まったと言える。
我が国の出挙の話に戻そう。律令制時代になると、国家が行うものを公出挙(くすいこ)、民間で行われるものを私出挙(しすいこ)と呼んた。
今年、種を貸し付ければ、翌年、農民は前年に収穫した種を使用すればいいので、翌年の貸付は不要になるから、国にとって、公出挙は取り組みやすい公共事業だった。
他方、農民にとっても、今年不作だった場合に、翌年の種のことを心配せずにこれを国から借りればいいので、安心して今年収穫した物を食べることができる。
そこで、農業振興と貧民救済を目的に公出挙が盛んに行われるようになったと考えられる。
しかし、租庸調(そようちょう)とは異なり、公出挙については、律令に煩雑な手続が定められていなかったし、また、利子という安定収入を確保できることから、役人にとっては使い勝手が良く、便宜だった。
そこで、財政負担の膨張に伴って、国が農民に対して強制的に貸し付けを行うようになり、公出挙は、実質的には税になってしまった。
そして、稲粟(とうぞく)のみならず、貨幣が鋳造されるようになると、金銭や財物についても出挙が行われ、養老令(ようろうりょう)の雑令(ぞうりょう)では、稲粟出挙の利息は年に10割、公出挙の場合は5割であり、財物出挙は480日で利息が10割を超えてはならぬと定められ、複利計算も禁止されていた。現在の利息制限法第1条と比べたら明らかだが、恐ろしい高利貸しだ。
しかし、高利貸しだからといって、直ちに暴利と言うことはできない。下記のリンク先によると、現代米の場合、1粒の種もみ当り350~470粒くらい収穫できるそうだ。古代米のデータは知らないけれども、仮に、古代米の場合、1粒の種もみ当り少なくとも100粒くらいを収穫できたとすれば、年利五割は、決して返済不可能な高利とはいえないからだ。
https://www.komenet.jp/faq/sc29.pdf
「鶏が先か卵が先か」という問題と同じだが、借金を踏み倒して夜逃げする輩がいたから高利になったのか、高利だったから借金を踏み倒して夜逃げしたのかは、分からないけれども、当時の農民には信用がなかったということは確かだ。そのため、養老令の雑令には、債務者たる農民が逃亡した場合には、保人(ほうにん)と呼ばれる保証人が代わって弁済すべき旨が定められていた。
cf.利息制限法(昭和二十九年法律第百号)
(利息の制限)
第一条 金銭を目的とする消費貸借における利息の契約は、その利息が次の各号に掲げる場合に応じ当該各号に定める利率により計算した金額を超えるときは、その超過部分について、無効とする。
一 元本の額が十万円未満の場合 年二割
二 元本の額が十万円以上百万円未満の場合 年一割八分
三 元本の額が百万円以上の場合 年一割五分
ところで、奈良時代から鎌倉時代前期までは、どのような気候だったのだろうか。
「奈良時代から鎌倉時代前期までは一時期を除いて暖かい時代が続いていた。世界的に8~13世紀は「中世温暖期」とされており、傾向はほぼ一致する。暖かい時期は西日本を中心に干ばつが起き、台風やゲリラ豪雨が増える。」
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20181011-OYT8T50003/2/
干ばつや台風などの自然災害が起きると、農民は、出挙に頼らざるを得なくなる。その結果、農民は、租庸調・雑傜(ぞうよう。労役のこと。)の税に加えて、公出挙によって生活が困窮し、私出挙によって貴族などに隷属するようになった。
朝廷も、疲弊した農民のため、養老4年(720年)3月、公出挙の利率を年利五割から三割に低減するとともに、養老2年以前に発生した全ての債務の免除を決定した。
その後、年利五割に戻した時期もあったが、奈良時代に英邁(えいまい)な桓武天皇が公出挙の利率を再び年利三割へ引き下げた。
また、朝廷は、私出挙の弊害を憂い、奈良時代・平安時代を通じて何度も禁止令を出したが、私出挙は、貴族などの重要な収入源だったし、困窮した農民にとっても命綱だったため、効き目がなかった。
これが藤原摂関政治に対する不満となって世情が不安定化し、武士の台頭を生む下地になったであろうことは、想像に難くない。
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