貨幣が流通するようになると、金貸しが登場するようになる。我が国最初の貸金業者は、仏教寺院だと言われている。
大仏を建立しようとなさった聖武天皇にとって、大仏に鍍金(ときん)するための金を如何に確保すべきかが悩みの種だった。
ところが、天平21年(749年)、陸奥国(むつのくに)で金鉱が発見されたため、聖武天皇は、これを大いに喜ばれ、年号も宝を感謝する「天平感宝」に改められるとともに、仏教を布教させるため、お経を転読し講説する催しを行うよう寺院に求めて、そのための資金(修多羅供銭(すたらぐぜん))として、奈良の薬師寺、興福寺、東大寺などの12寺に対して、絹、真綿、麻、稲、田地などを大量に寄贈なさった。
田地はなくならないが、絹などの動産は、消費すればなくなるし、そのまま置いていても経年劣化するのに対して、貨幣であれば、場所を取らずに保管でき、経年劣化もしない。
そこで、奈良の寺院は、これらを売却して貨幣に換え、お経の転読講説の催しを今後も継続するための資金を確保するため、この貨幣を元手に金貸をして資金運用するようになった。
金貸しができるためには、金利計算ができなければならない。当時の坊主は、最先端の知識人だから、金利計算もできたことから、金貸しに打って付けだったわけだ。
当初は、仏教を布教するための財テクとして始まった寺院の金貸しは、やがて高利貸しになって、暴利を貪(むさぼ)るようになる。
世俗との関わりを絶って出家したはずの坊主どもが高利貸しになって庶民を苦しめている現状を憂いた桓武天皇は、やがて平城京から平安京へと遷都するご決断をなさることになる。
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