昨日は、衆議院議員選挙だった。休日返上で選挙事務に携わった自治体職員さんも多かったことだろう。お疲れ様でした。
日本語の「選挙」は、本来、「① 多人数の中から選び出して推薦すること。また、国家で人材を登用すること。」を意味する(『精選版 日本国語大辞典』小学館)。
この意味での「選挙」は、古代支那(シナ。chinaの地理的呼称。)の「郷挙里選(きょうきょりせん)」(読み下せば、郷より挙げ、里から選ぶ。)に由来する。
支那における官吏登用方法としては、隋・唐から清まで続いた「科挙(かきょ)」(読み下せば、科(目)によって(人材を)挙ぐる。)が有名だが、科挙が行われる以前には「郷挙里選」が行われた。
「郷挙里選」は、前漢の武帝の時代から始まった官吏登用方法であって、儒教の理想に基づいて、地方の州・郡・国の長官に、必要に応じ、又は毎年、管内から孝(親孝行)である者、廉(私欲がなく清廉潔白)である者を推薦させ(これを「孝廉(こうれん)」という。)、その中から選んで官吏として登用した。
「郷挙里選」は、古代支那において、私利私欲に目がくらみ不正を働く輩があまりにも多いことから生まれた制度なのだが、実際には郷里に勢力のある豪族の子弟が多く推挙されたことから、隋・唐の時代に、公正を期すために、試験によって官吏を登用する「科挙」に改められたわけだ。
隋・唐の時代の「科挙」は、官吏を選任推挙するという意味で「選挙」(読み下せば、選び挙ぐる。)と呼ばれ、「科挙」という言葉ができた後も、「選挙」は、「科挙」の別称として用いられた。
さて、法律用語としての「選挙」とは、「多数人によって行われる選任(又は指名)」をいう(『新版 新法律学辞典』有斐閣)。通常、投票によって行われる。これは、英語election、フランス語élection、ドイツ語Wahlの翻訳語だ。
electionとélectionは、electの派生語だ。electは、ラテン語 ex-(外に出して)+lego(選ぶ;欲する)で、袋などから外に出して良いものを選び出すことに由来する。
『精選版 日本国語大辞典』(小学館)によれば、この翻訳語としての「選挙」の初出は、津田真道先生訳の『泰西国法論』(1868年)だとされている。
しかし、渡部万蔵著『現行法律語の史的考察』(萬里閣書房)によれば、それよりも1年前の慶応3年(1867年)、土佐藩主山内容堂(やまうち ようどう)公が幕府に対して大政奉還するよう建言した建白書の中で「一(ひとつ) 議政所上下を分かち、議政官は上公卿(うえはくぎょう)下陪臣庶民(したはばいしんしょみん)に至るまで公明純良の士を選挙すべし」(ルビ:久保)として、イギリスの議院制度を念頭に「選挙」を用いている。
徳富猪一郎著『近世国民史』〔第64冊〕(明治書院)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139446/76
明治政府がelectionの翻訳語「選挙」を初めて法令で用いたのは、渡部万蔵著『現行法律語の史的考察』(萬里閣書房)によれば、明治元年(慶応4年。1868年)閏4月21日「政体ヲ定ム」(いわゆる政体書)の「公選入札ノ法ヲ用フヘシ」(「公選入札」は、投票の意味。)だとされている。
しかし、私が調べた限りでは、それよりも2か月前の 明治元年(慶応4年。1868年)2月5日「徴士貢士ノ選挙法ヲ定ム」が最初だと思う。
「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という五箇条の御誓文を受けて、明治政府は、貢士(こうし)制度(政府が諸藩に命じて代議員を差し出させる制度。「貢」は、「すすめる」という意味。)を定めて、諸政策を諮問することとし、とくに優秀な貢士は、徴士(ちょうし)として政府出仕を命じられ(「徴」は、「召し出す」という意味。)、官吏に任用された。
貢士制度は、二院制の下院に相当する諮問機関で、明治元年5月に貢士対策所が開設され、毎月5の日が対策定日(たいさくていじつ)とされたが、実際にはあまり機能しなかったようだ。
https://www.digital.archives.go.jp/img/1340811
翻訳語である「選挙」は、古代支那の「選挙」の意味に引っ張られて、法令上、官吏任用の意味に用いられることもあって、一時混乱を生じたが、投票による議員の選挙と区別して、官吏の選任は、「登用」と称され、その後もっぱら「任用」と称されるようになって、混乱に終止符が打たれた。
ところで、昨日行われた選挙は、衆議院議員選挙だった。選挙で選ばれた衆議院議員は、「代議士」と呼ばれることがある。「代議士」は、英語representativeの翻訳語で、非公選の上院(貴族院)議員に対して、公選の下院(庶民院)議員を指す。
選挙で選ばれた衆議院議員は、「選良」とも呼ばれることがある。「選良」は、英語eliteエリートの翻訳語だ。選挙を意味するelectと、eliteは、いずれもラテン語 ex-(外に出して)+lego(選ぶ;欲する)に由来する点で、同じだ。
この点に関連して思い出すのが、スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセット著『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)だ。
この本は、欧米の然るべき大学の学生ならば、誰しも一度は読む(又は、読まされる)名著だ。公務員試験の予備校講師をしていたときに、数え切れないほどの学生と接したが、彼らの口(又は教養論文の答案)からオルテガや『大衆の反逆』という言葉が出たことは、残念ながら一度もなかった。
平易な翻訳文なので、未読の方は、ぜひ実際に手に取って読んでいただければと思うが、オルテガは、階級ではなく、人間の種類として、社会を「大衆」と「選ばれた少数者」に分けて現代社会を考察している。
オルテガのいう「大衆」mass-manとは、「特別の資質をもっていない人々の総体」であって、「平均人」のことだとした上で(15頁)、大衆は、「心理的事実として定義しうるものであり、…善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。」としている(17頁)。
これに対して、「少数者」とは、「特別の資質をそなえた個人もしくは個人の集団であり」(15頁)、「選ばれた者とは、われこそは他に優る者なりと信じ込んでいる僭越な人間ではなく、たとえ自力で達成しえなくても、他の人々以上に自分自身に対して、多くしかも高度な要求を課す人のことである」(17頁)。「自らに多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々」のことだ(17頁)。
今や「大衆」は、「選ばれた少数者」に服従もしなければ尊敬もしなくなり、逆に少数者を押しのけ、取って代わろうとしている。凡俗な人間である大衆が、「おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとするところに」(21頁)今日の特徴がある。これをオルテガは、「大衆の反逆」と呼んでいるわけだ。
誤解してはならないのだが、オルテガは、労働者階級を批判しているのではなく、エリート層こそが大衆化して、「近代の原始人、近代の野蛮人」となっていると批判しているのだ。
この点に着目して、考察しているのがアメリカの歴史学者クリストファー・ラッシュ著『エリートの反逆』(新曜社)だ。
我々が未開を脱して文明社会を形成できたのは、先人たちが己に義務を課して人格陶冶に努め、道徳を自然発生的に形成し維持してきたからだ。我々人間は、己に課した義務を履行することによってのみ高貴なる精神を体現できるのであって、他者に一定の要求をするだけの権利からは、決して偉大なる精神も香り高き文化も生まれない。
西洋には、noblesse obligeノーブレス・オブリージュと呼ばれる基本的な道徳感がある。身分の高い者は、それに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるというのだ。己にノーブレス・オブリージュを課す者こそが精神的な意味での貴族、すなわちオルテガの言う「選ばれた少数者」なのだ。
昨日の衆議院議員選挙で当選した代議士たちは、選挙で選ばれたから「選良」なのではない。己にノーブレス・オブリージュを課すからこそ「選良(エリート)」なのだ。ぜひ己に重く厳しい義務を課して人格陶冶に努め、外国のためではなく、我が国のために一所懸命に働いてもらいたいものだ。
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