自治体職員研修に連日出講していたので、ブログの更新を後回しにしていた。
さて、日本の幼稚園の日常風景を映した動画がフランスで話題になっていた。給食の配膳を園児がおこなっていることに特に驚きの声が上がっていた。
また、先生が声を荒げることがなく、園児たちがのびのびと勉強したり遊んだりして楽しそうなことを羨(うらや)んでいた。う〜ん、フランスの幼稚園って刑務所みたいな雰囲気なのだろうか?
ちょっと吹き出したのが、日本では、おやつを4時ではなく3時に食べるんだと驚く人たちがいたことだ。
フランスでは、quatre heuresカトゥルール(4時)に goûterグテ(別名:quatre heuresカトゥルール)と呼ばれる間食を食べる習慣があるからだが、如何にも自国中心のフランス人らしい感想だ。
このフランス人たちは、イギリスでは、3時以降にティー・タイムをとるのを知らないのだろうか。笑
「おやつ」の由来については、ご存知の方も多いと思うが、江戸時代の日本では、午後2時頃から4時頃に当たる「八刻(やつどき)」に間食を食べる習慣があり、「おやつ」(お八つ)と呼ばれていた。昔は一日2食だったので、お腹が空いたからだ。
下記の森永製菓のサイトによると、テレビ時代劇『暴れん坊将軍』で有名な第8代将軍徳川吉宗公が砂糖の国産化を推進したので、砂糖を使ったお菓子を「おやつ」として食べるようになったらしい。
なんにせよ、もともと「おやつ」は、大人が食べるもので、子供が食べるものではなかったというのが面白い。現代では、3時のおやつと言えば、子供を真っ先に連想するが、子供も食べるようになったのは明治以降だ、というから驚きだ。
ただ、「八刻(やつどき)」と言っても、現代の我々にはピンとこないので、ちょっとだけ説明しておく。
明治以前は、不定時法が採られていた。すなわち、明け方から夕暮れまでを「昼」、夕暮れから翌日 の明け方までを「夜」として、下記の図(左図が夏至、右図が冬至の日。円の内側が不定時法の時刻。円の外側が我々現代人が使っている24時間制の定時法の時刻。)にあるようにそれぞれ昼夜を6等分するわけだ。
漢数字の「八」が「八刻(やつどき)」で、昼の八刻は、おおむね2時頃〜4時頃に相当する。
https://www.sci-museum.jp/files/pdf/study/universe/2017/12/201712_04-09.pdf
昼と夜の長さは、季節によって変わるから、不定時法は、常 に変化する昼夜の長さに伴って、時間の長さも変わることになる。ややこしい!
しかも、江戸時代に庶民に普及していた日時計は、精度が1時間程度で、大名や豪商が所有していた機械式時計も、精度が低かった。
お城やお寺が鐘や太鼓でこまめに時刻を知らせたが、田舎では時報の回数自体が少なかったらしい。
そのため、江戸時代では、待ち合わせ時間に遅刻しても、現代の1時間〜2時間程度の誤差は許容範囲内だったそうだ。時刻を正確に知ることができない以上、誰も1時間〜2時間程度の遅刻を責めることができないからだ。この意味では、実におおらかな時代だったわけだ。
しかし、このような不定時法では、いつ汽車が出発するのかが不明確で困るし、計画的な運行にも支障をきたしかねない。
そこで、明治になっていち早く西洋の24時間制の定時法が鉄道に導入された。日本最初の鉄道は、明治5年(1872)5月7日に開業したのだが、この当時から時刻表があり、この時刻表こそが我が国で最初に定時法を用いたものだった。
面白いのは、下記の時刻表に「時」ではなく「字」と表記されている点だ。明治5年当時、江戸時代の不定時法が採られていたので、誤解を避けるために、西洋の定時法で時刻を表す際には「字」を用いたそうだ。もちろん、「字」という漢字には、時間という意味はないので、代用表記だ。
この時刻表を見ると、汽車が一日9本だったこと、東京から横浜まで53分かかったこと、上中下の大人料金や子供料金も分かって、面白い。
東京駅より品川駅まで大人の下等客車料金が「金一朱」とある。下記のサイトによると、慶応3年(1867年)の金一両を現在の貨幣価値に換算すると、2604円だそうだ。
https://www.isc.meiji.ac.jp/~wonomasa/kahei.htm
これが正しくかつ明治5年(1872年)も同じ貨幣価値だと仮定した場合、金一両=四分=十六朱なので、2604÷16=162.75だから、金一朱は、約160円に相当するわけだ。これならば、庶民でも乗車できただろう。
ちなみに、現在、JR東京品川間の乗車券が170円なので、鉄道料金は、意外と物価の優等生かも?
https://tanken.com/jikokuhyo.html
時刻が正確でなければ困るのは、鉄道だけでなく、郵便も、行政組織も、軍隊もみんなそうだ。
そこで、国の法令で定時法が定められた。明治5年(1872年)11月の明治五年太政官布告第三百三十七号(改暦ノ布告)だ。明治6年(1873年)1月1日から施行された。
この改暦ノ布告は、江戸時代までの太陰暦(旧暦)から太陽暦(新暦)に改めたものとして有名だが、同時に、定時法を定めたものでもある。
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=105DF0000000337_20150801_000000000000000
そして、日本国憲法第98条第1項は、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関 するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と定めており、明治憲法下の法令等は、その内容が日本国憲法に反し 違憲でない限り効力が存続するものと解されているため、明治五年太政官布告第三百三十七号(改暦ノ布告)は、現在でも効力を有することになる。
それ故、改暦ノ布告の時刻表にあるように、一日の始まりは、午前零時からということになる。
ちなみに、我が国では、古来より日没から一日が始まると考えられ、重要な神事は日没から始められるのだが、下記の本居宣長記念館のサイトによると、通例、「寅刻が日付変更時刻である(大雑把には午前4時くらい)」と考えられていたそうだ。
しかし、宣長は、「『遺言書』第一条では、通例に背き「夜之九ツ」を日付変更線としている」そうだ。夜の九つは、午前零時だ。
ここからが本題だ。
この改暦ノ布告が定められたのは、明治5年(1872年)だから、西洋では、これよりも以前に一日の始まりは午前零時からと決まっているものとばかり思い込んでいた。
ところが、去年の12月24日に例によって台所の換気扇の下でタバコを吸っていて、テレビを付けたら、NHKの『チコちゃんに叱られる』が放送されていて、一日の始まりが午前零時と統一されたのは、1925年(大正14年)だと言うから、びっくり仰天した!
驚きのあまり今回はちゃんとメモを取った。番組で解説しておられたのは、明石市立天文科学館の井上毅館長だった。
受け売りすると、2世紀頃に活躍した古代ギリシャの天文学者プトレマイオスは、「一日の始まりはお昼の正午から」という天文時を提唱し、これが天文学のルールになった。
というのは、天文学者が天体観測をしている際に、真夜中に日付が変わると、連続した星の運行を昨日と今日に分割して記録しなければならず、ややこしいからだ。天体観測の邪魔にならないように、「一日の始まりはお昼の正午から」と決めたわけだ。
しかし、この天文時は、天文学者の都合で決められたもので、世間一般には浸透しなかった。「一日の始まりはお昼の正午から」という天文時に従えば、例えば、一日に2度出勤簿を付けなければならず、面倒臭い。
そのため、世間では、「一日の始まりは日の出から」、「一日の始まりは夜寝ている間」というように地域で独自にルールを決めて生活していたそうだ。
意外なことに「一日の始まりは真夜中(午前零時)から」というルールが多く採用されていたらしい。これを常用時というそうだ。
つまり、西洋では、「一日の始まりはお昼の正午から」という天文時と「一日の始まりは真夜中(午前零時)から」という常用時という2つのルールが併存していたわけだ。
ところが、航海士が天文時にクレームを付けたことがきっかけで常用時に統一されたというのだ。
すなわち、第一次世界大戦中のイギリス海軍では、天文学者が作成したデータブックと呼ばれる航海暦が使われていた。
航海士は、星を実測して、このデータブックのデータと付き合わせて、軍艦の現在位置を把握していた。このデータブックは、天文学者が作成したので、当然、天文時が用いられていた。そのため、航海士は、常用時を天文時に変換して、データブックと照らし合わし、再び、天文時を常用時に変換して、艦長に伝えなければならず、大変面倒臭い。計算を間違えれば、敵陣の中で集中砲火を浴びかねない。
そこで、1917年(大正6年)、航海士が天文時にクレームをつけたというわけだ。
1922年(大正11年)に開かれた第1回国際天文学連合総会において、プトレマイオス以来の天文時を常用時に変更することが話し合われたが、変更案は、却下された。
しかし、1925年(大正14年)、「我々天文学者の知性を持ってすれば、変更に対応するのは余裕だろう」ということで、天文学者が譲歩し、常用時に統一されたそうだ。
へぇ〜〜〜!
千賀かほる 真夜中のギター(昭和44年、1969年)
RYTHEM ホウキ雲(平成17年・2005年)
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