先日、天皇に名字がないということを書いた。
ひょっとしたら「天皇の名字は『阿毎』だ!」と言う人がいるかも知れない。「阿毎」をご存知の方にとっては、初歩的すぎて恐縮だが、補足説明をしておく。
確かに、『隋書』の巻八十一・東夷「俀国」(「俀」(たい)は「倭」(わ)の誤記だと解されている。)に、「開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗」とある。
(隋の始祖、楊堅(文帝)の)「開皇(かいこう)二十年(西暦600年)、俀王(わおう)の姓(せい)は阿毎(あま又はあめ)、字(あざな)は多利思北孤(たりしひこ。「北」は「比」の誤記だと解されている。)、號(ごう)して阿輩雞彌(あほけみ)というもの、使(つか)いを遣(つか)わして闕(けつ。王宮の門の意。)に詣(いた)らしむ。上(しょう。文帝の意。)、所司(しょし。所管の役人の意。)をしてその風俗を訪(たず)ね令(し)む」
「阿毎」(あま又はあめ)は「天」(あま又はあめ)、「多利思北孤」(たりしひこ)は「垂りし彦」(ひこは、男子の意。)、「阿輩雞彌」(あほけみ)は「大王」(おおきみ。「大王」は、「天皇」という称号成立以前の尊称だが、万葉集では柿本人麻呂の歌を中心に皇子・皇女に対しても用いられる。)をそれぞれ意味するのだろう。
とすれば、「天垂りし彦大王」(あま又はあめのたりしひこおおきみ)というのは、天を降った男子である大王ということになろう。
最近の歴史学では、「阿毎多利思北孤」は、実在する倭王の固有名詞ではなく、使者が倭王の称号として「阿毎多利思北孤」と述べたのを、隋側が姓名であると誤解したのだという見解が多数説らしい。
しかし、「阿毎多利思北孤」が倭王の称号だとする文献的証拠は一つもないので、この多数説は支持し得ない。
素人の思いつきで恐縮だが、おそらく自分がどこの国の誰の使者であるかを明らかにするために、天孫降臨神話に基づいて倭国の大王(おおきみ)は、天から降った男子(瓊瓊杵尊ににぎのみこと)の子孫なのだと説明したのだが、正しく伝わらずに「俀王(わおう)の姓(せい)は阿毎(あま)、字(あざな)は多利思北孤(たりしひこ)、號(ごう)して阿輩雞彌(あほけみ)」と誤解されたと考えるのが自然だと考える。
しかも、天皇や皇族が「阿毎」という名字を使ったことは、一度もない。「阿毎」を名乗った記録があるのであれば、ぜひご教示いただきたいものだ。
したがって、天皇の名字が「阿毎」だという主張は、正しくない。
なお、天皇の名字が「阿毎」だとの主張は、あちら系日本国民や左翼がほとんどで、天皇に名字がないという特殊性を何が何でも否定して、庶民と同レベルに引き摺り下ろしたいというドス黒い恨み・妬みや政治的意図に基づくプロパガンダだということを申し添えておく。
ここからは余談だが、興味深いことに、『古事記』・『日本書紀』には、「開皇(かいこう)二十年(西暦600年)にこのような遣隋使を送った事実が一切記録されていないのだ。
ところが、ご存知の方も多いだろうが、『隋書』によれば、この「多利思北孤」(たりしひこ)が再び隋へ使者を送って、隋の煬帝(ようだい)に大変有名な国書を送っているのだ。
『隋書』には、次のようにある。
「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞」
(隋の二代目、煬帝の)「大業(たいぎょう)三年(西暦607年)、その王、多利思北孤(たりしひこ)は使いを遣(つか)はし朝貢(ちょうこう)せしむ。
使者曰(い)はく、「海西(かいせい。西方の意。)の菩薩天子(ぼさつてんし。菩薩のような天子の意。)、重ねて仏法を興(おこ)すと聞く。故に、遣はして朝拝し、兼ねて沙門(しゃもん。僧侶の意。)数十人来たりて仏法を学ばしむ」と。
その国書曰く、「日出(い)ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや、云々(うんぬん)」と。
帝は之(これ)を覧(み)て悦(よろこ)ばず。鴻臚卿(こうろけい。外務大臣の意。)に謂(い)ひて曰はく、「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる者(こと)有り。復(また)以(も)って聞(ぶん)する勿(な)かれ。」 と。
初めて手紙を送る相手に「恙(つつが)なきや」(息災でしょうか?)と訊ねることはないので、この国書の宛名は、以前に隋へ使者を派遣した際の文帝だったと考えられる。つまり、多利思北孤(たりしひこ)は、隋の皇帝が文帝から煬帝(ようだい)に代替わりしたことを知らなかったのだ。
話を戻すと、この『隋書』の記述は、『日本書紀』の記述と符合する。『日本書紀』の巻第二十二 豐御食炊屋姬天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと) 推古天皇(すいこてんのう)には、次のようにある。
「秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作福利爲通事。」
(推古天皇の15年(西暦607年))「秋七月(あきふみづき)戊申朔庚戌(つちのえさるのついたちかのえいぬのひ。つまり、7月3日)、大禮(だいらい)小野臣妹子(おののおみいもこ)を大唐(もろこし。つまり、隋の意。)に遣(つか)わされた。鞍作福利(くらつくりふくり)をもって通事(つうじ。通訳の意。)となす。」
そうなのだ。『隋書』に登場する「多利思北孤」(たりしひこ)というのは、聖徳太子又は推古天皇のことなのだ。
「開皇(かいこう)二十年(西暦600年)」の遣隋使について、『日本書紀』に記載がない理由は不明だが、現代においても、外交交渉の舞台裏は秘密のベールに包まれている。『日本書紀』刊行の時点で公にできない外交機密があったのだろう。
素人の思いつきだが、『隋書』を見ると、文帝に倭国の風俗を訊ねられた使者が詳細に回答していることから、隋と正式な外交関係を結ぶ前に、ご挨拶に伺って、倭国を知ってもらうとともに、隋の出方を探る目的で内々に派遣した密使であって、正式な遣隋使ではなかったということも、『日本書紀』に記載されていない理由の一つかも知れぬ。
この際に隋へ送った国書も隋からの返書も『隋書』に記載されていないが、ひょっとしたら密使に託された隋からの返書に「俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌」に類する宛名があったので、隋に誤解されていることを知った聖徳太子が、正式な外交関係を樹立するにあたっては何よりも誤解を避けなければならないと考えたため、推古天皇15年の正式な遣隋使に語学力に優れた「鞍作福利」を通訳として付けたのではあるまいか。『日本書紀』にわざわざ通訳の名前「鞍作福利」(くらつくりふくり)を明記する必要がないからだ。
小野妹子に託された国書の内容が『日本書紀』に記載されていないが、『隋書』に「日出(い)ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや、云々(うんぬん)」という記述があるのは、現代の我が国にとって幸甚(こうじん)だった。
中華思想(Chinaが世界の中心であり、その文化・思想が最も価値のあるものであると自負して、自らを「中華」と美称し、周辺民族を夷狄(いてき)蛮族と蔑(さげす)むので、華夷思想ともいう。)において、天子は一人であって、これに並び立つ人はいないのだが、聖徳太子は、我が国にも天子がいて、隋の天子と対等なのだと高らかに宣言しているからだ。隋から見れば、宣戦布告に匹敵するほどの非礼行為だと言えるが、隋を建国した文帝ならば、鷹揚に構えるだろうと考えたのだろうか。
ところが、隋の皇帝は二代目煬帝に替わっており(これを知らなかった小野妹子は焦ったのではないか。)、煬帝は、「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる者(こと)有り。復(また)以(も)って聞(ぶん)する勿(な)かれ。」 と激怒しているわけだ。
ただ、推古天皇16年(西暦608年)に小野妹子は、殺されることなく、むしろ隋の使者である裴世淸(はいせいせい)とその下客(しもべ)12人を従えて、鞍作福利(くらつくりふくり)とともに帰国している。小野妹子は、百済を通る際に、隋の煬帝の返書を百済人に掠(かす)め取られる失態を犯してしまったが、推古天皇は、小野妹子を罪に問わなかった。
隋は、その後も遣隋使を受け入れて外交特権を認めているので、我が国との外交関係樹立は、隋にとっても有益だとの政治的判断があったものと思われる。
事前に密使を送って情報収集を行い、小野妹子と綿密に打ち合わせをしたであろう聖徳太子と、実際に外交交渉を行なった小野妹子の外交的勝利だといえる。
そして、『日本書紀』によれば、推古天皇は、来日した裴世淸(はいせいせい)に対して「東天皇敬白西皇帝」と述べている。
「東(やまと)の天皇(すめらみこと)が、敬(うやま)って西(もろこし)の皇帝(きみ)に申し上げます」
推古天皇は、ここでも我が国の天皇と隋の皇帝が対等であることを表明しておられるわけで、我が国の対隋政策が聖徳太子お一人のお考えではなく、推古天皇の御意志に基づくものであること、我が国が一枚岩になって対隋政策を推進していたことが窺える。
現代の中国は、かつて朝貢していた国は中国の領土であるとして、侵略の意志を隠そうとしなくなった。
我が国は、推古天皇及び聖徳太子のお蔭で、このような中国の屁理屈を『隋書』を示して笑止千万と斬り捨てることができる。推古天皇及び聖徳太子にいくら感謝しても感謝しきれない。
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