補助線を引く

 私は、X(旧Twitter)をやっていないのだが、ネットで、下記の発言が話題になっていた。


これはどう考えてもおかしい。 国軍が守るのは国民であって国家ではない。

極端な話、国家が崩壊しても国民が無事ならそれで良いのだ。


 烏賀陽 弘道(うがや ひろみち)氏を存じ上げないので、Wikipediaを見たら、京大経済学部卒の元朝日新聞記者だそうだ。

 烏賀陽氏の学歴及び職歴から、国際法上、領域(領土・領空・領海)・国民・主権の三つが揃って国家として認められるという国家三要素説をご存知ないはずがない。

 この国家三要素説によれば、国軍(現在の日本に「国軍」があるかどうかはとりあえず脇に置くとして)が「国家を守る」ことは、イコール「国民を守る」ことなのだ。


 また、民族がそれぞれ政治的に独立し、みずからの政府をつくる権利、すなわち民族自決権が国際法上認められていることもご存知のはずだ。

 烏賀陽氏は、「極端な話、国家が崩壊しても国民が無事ならそれで良いのだ」と言うのだが、これは、日本人の民族自決権を否定し、日本人が他国・他民族の支配下に置かれ、圧政に苦しめられても、生きてさえいれば良いということを意味するのだろうか。

 「命あっての物種(ものだね)」で、日本人がかつてのユダヤ人のような流浪の民になってもいいという意味なのだろうか。


 他方で、烏賀陽氏は、「世界標準で言えば、日本人大衆の大半は「倫理や道徳、知性、思考と言った人間を人間たらしめているもの」を喪失した、ニンゲンの形をした何か別の動物にすぎません。」と述べている。


 自分は、интеллигенцияインテリゲンチャ「知識人」だから「人間」だけど、日本人大衆の大半は、「ニンゲンの形をした何か別の動物」だから、家畜又は害獣の如く殺しても構わないという意味なのだろうか。



 他人の心は、直接見聞きできないので、分からない。それ故、烏賀陽氏のこれらの発言の真意は、分からない。



 ただ、マルクス主義を補助線として引くと、烏賀陽氏の真意かどうかは別として、朧(おぼろ)げながらに見えてくるものがある。


 マルクス主義によれば、資本主義→社会主義→共産主義へと移行するのは必然であり、国家は無価値で消滅すべきもの、破壊すべきものだから、国軍が資本主義国家を守るなんて許されないことなのだ。

 「労働者は祖国をもたない」(大内兵衛・向坂逸郎訳『共産党宣言』岩波文庫65頁、金塚貞文訳『共産主義者宣言』太田出版56頁)から、国家が崩壊しても構わないことになる。


 ドストエフスキーは、『悪霊(下)』(新潮文庫、102頁)において、登場人物に仮託して、「彼はですね、問題の最終的解決策として、人間を二つの不均衡な部分に分割することを提案しているのです。その十分の一が個人の自由と他の十分の九に対する無制限の権利を獲得する。で、他の十分の九は人格を失って、いわば家畜の群れのようなものになり、絶対の服従のもとで何代かの退化を経たのち、原始的な天真爛漫さに到達すべきだというのですよ。これはいわば原始の楽園ですな、もっとも働くことは働かなくちゃならんが。人間の十分の九から意志を奪って、何代もの改造の果てにそれを家畜の群れに作り変えるために著者が提案している方法はきわめて注目すべきものであり、自然科学にのっとったきわめて論理的なものです。」と皮肉を込めて述べて、社会主義・共産主義の本質を喝破している。

 お若い方には、旧ソ連よりも、日本のマスコミによって「地上の楽園」と評された北朝鮮において、太った将軍様に歓喜の涙を流しながら熱狂的に手を振る痩せた北朝鮮人民をイメージすると、ドストエフスキーの言わんとすることが理解しやすいと思う。

 スターリン、毛沢東、ポル・ポトなどの指導者にとって、自分に対して絶対の忠誠を誓う共産党員以外の者は家畜であり、己の意に沿わぬ者は、家畜たる人民はもちろんのこと、たとえ同志たる共産党員であっても「反革命分子」・「人民の敵」・「反動分子」であるとして、なんの躊躇(ためら)いもなく粛清(しゅくせい)の名の下に自国民を大量虐殺した。


 このようなマルクス主義を素晴らしいと思う人は、病院へ行くことをお勧めする。


 

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