脱・宗教

 下記の記事によると、「日本は、聖書やコーランなどの聖典に記されている神を信じている人がわずか3%しかおらず、26カ国の中でも群を抜いて少ない」そうだ。

 我々日本人からしたら、「だからなんなの?」って感じで驚きはしないのだが、一神教の信者からすれば、唯一絶対の神を信じない無神論者は、道徳・倫理を守らない危険極まりないケダモノだから、日本人は、信用ならないということになる。

 利用価値がある限り、日本人と手を結んではいるが、黄禍論者ではない人々であっても、口にこそ出さないけれども、大なり小なり思っていることなのだ。

 日本が「大東亜共栄圏」を掲げて英米等の連合国を相手に戦い、敗れたとはいえ、これが契機となって世界各地で独立運動が起き、欧米による植民地支配が終わりを告げてから100年も経っていないのだから、欧米人の日本に対する恨み・反日感情は、心の奥底で燻り続けているから、なおさらだ。

 火に油を注ぐことは、避けねばならず、我が国は、戦後79年間ずっと忍従を強いられてきた。


 一神教の信者がこのように思うのは勝手だが、犯罪率ひとつ取り上げただけでも分かるように、日本の方がはるかに犯罪率が低いのであって、唯一の神を信じている者が多いからといって、その教えを実践できているかどうかは別問題なのだ。

 むしろ、その教条主義的で偏狭な考え方ゆえに、トラブルや戦争を起こしているとさえ言える。


 日本は、例えば、儒教と儒学を峻別して儒学を受容したように、宗教と道徳・倫理を区別し、宗教を世俗化して慣習・風俗に落とし込むことにより、脱・宗教をほぼ実現しつつ、高い倫理観と遵法精神に基づいて治安を維持し、長い歴史に裏付けされた文化を発展させている世界でも稀有な国なのだ。

 宗教を熱心に信仰することだけが我々人類に与えられた人生ではなく、信教の自由を保障しつつ脱・宗教の人生があることを実証している唯一の国が日本なのだ


 この記事のように「日本は、聖書やコーランなどの聖典に記されている神を信じている人がわずか3%」しかいないと驚き、奇異の目で見るのではなく、むしろ脱・宗教の日本でこの3%の人々が政府によって弾圧されることなく、その信仰の自由が保障されていることにこそ着目すべきだ。

 例えば、フランスでは、2004年に制定された公立学校におけるヒジャブ(スカーフ)禁止の法律に続き、2011年には公共の場で顔を覆うものを着用することを禁止する法律が施行された。2011年、ベルギーでも顔を隠すヴェールを禁止する法律が施行された。スペイン、イギリス、ドイツ、イタリアでは、法律こそないが、同様の条例が制定されている。言うまでもないが、日本にはこのような規制はない。


 第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本は、世界ではじめて人種差別撤廃の提案を行なった。世界中のほとんどの地域が欧米列強諸国の植民地とされ、白人至上主義に基づく有色人種差別が当たり前だと考えられていた時代に、日本は、人種差別のない生き方があることを示したように、我々も、先人たちを見習って、国際会議の場で、脱・宗教の生き方があるのだと世界に高らかに表明してやりたいところだ。

 しかし、先例と同様に、火に油を注ぐことになり、反日感情が爆発する可能性があるから、賢明な策とは言えない。

 漫画、アニメ、日本食などの日本文化に対する関心を維持しつつ、信教の自由を保障した脱・宗教の生き方があることに気付かせるのがよかろう。その萌芽が生まれつつある。


 脱・宗教に関して、経済倫理学が専門の成蹊大学経済学部教授の竹内靖雄氏は、宗教をサービス産業、経済活動として捉えるべきだとした上で、「宗教には、もともと普通のサービス産業にとどまることには満足しない性質があり、政治にも進出するし、暴走して犯罪に手を出すこともある。これに対しても、宗教を別格のものと見て特別の規制を設ける必要があると考えるのは誤解であろう。宗教を「差別」せず普通に扱うこと、したがって特別に縛ることもせず、優遇もしないことが基本である犯罪を犯せば、遠慮なく刑法で罰すればよい。自由に活動してもらって、そのかわりに税金を納めてもらえばよい宗教をこういう目で見ることができるようになった時にはじめて、宗教を「卒業」したといえるのである。」と述べておられる(『<脱>宗教のすすめ』PHP新書、4頁。下線:久保)。


 基本的に賛成だ。宗教法人法などが宗教を特別扱いしているのは、コミンテルン32年テーゼに呪縛されているからであり、この点については、以前述べたので、繰り返さない。脱・宗教の歩みを妨げる法制・税制を廃止すべきだ。

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