旧約聖書のソロモン王の裁判が、シルクロードを通って、1211年支那(シナ)の桂万栄(けい ばんえい)編『棠陰比事(とういんひじ)』の黄霸𠮟姒(こうはしっし)を経て、江戸時代の日本に伝わり、大岡政談に翻案されたというのが有力説だ。
私は未読なのだが、滝川政次郎『裁判史話』(乾元社)によると、大岡政談は、ソロモン王の裁判が起源で、16、17世紀に来日した宣教師によって伝えられた、と主張しているそうだ。あり得るルートだが、だからといって支那経由ルートを否定することはできまい。
有名な名裁きだとはいえ、旧約聖書や棠陰比事を読んだり、講談や時代劇を見たりする若い人は、あまりいないかも知れないので、長くなるが、とりあえず引用してから、話を進めることにしよう。
① 旧約聖書の列王紀上第03章第16節から第28節まで(日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』)
16:あるとき、二人の遊女が王のもとにやって来て、その前で申し立てをした。
17:まず一人の女が言った。「王様、申し上げます。私はこの人と同じ家に住んでいるのですが、その家で、この人のいるところで、子どもを産みました。
18:私が子どもを産んだ三日後に、この人も子どもを産みました。家にいたのは私たちだけで、ほかには誰もいませんでした。家にいたのは私たち二人きりだったのです。
19:ところがある晩、この人は自分の子の上に伏したので、その子は死んでしまいました。
20:そこでこの人は夜中に起きて、私が眠っている間に、脇から私の子どもを取って、自分の懐に寝かせました。そして死んだ子は私の懐に寝かせたのです。
21:朝、起きて子どもに乳を飲ませようとすると、子どもは死んでいたのです。朝、その子をよく見ると、私が産んだ子ではなかったのです。」
22:すると、もう一人の女が言った。「いいえ。生きているのが私の子で、死んだのはあなたの子です。」ところが、先の女は、「いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのが私の子です」と言い、王の前で言い争いになった。
23:王は言った。「『生きているのが私の子で、死んだのはあなたの子だ』と一人が言えば、もう一人は『いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのが私の子だ』と言う。」
24:そこで王は言った。「剣を持って来なさい。」王の前に剣が持って来られると、
25: 王は言った。「生きている子どもを二つに切り分けなさい。半分を一人に、もう半分をもう一人にやりなさい。」
26:すると、生きている子の母親は、その子を哀れに思って胸が張り裂けそうになり、王に言った。「王様。お願いでございます。生きているその子は、その女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」しかし、もう一人の女は「私のものにも、あなたのものにもならないよう、切り分けてください」と言った。
27:すると、王は答えて言った。「生きているこの子を、先の女にやりなさい。決してこの子を殺してはならない。その女がこの子の母親なのだ。」
28:王が裁いたこの訴えの話を聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。裁きを行う神の知恵を王の内に見たからである。
② 桂 万栄編・駒田信二訳『棠陰比事』「八 二人の母親(黄霸𠮟姒)」(岩波文庫、23頁)
※ 「棠陰」は、立派な裁判のことで、「比事」は、事を比べることだから、「棠陰比事」は名裁判比べの意。「𠮟(シツ)」は、しかるで、「姒(シ)」は、兄嫁。
前漢の穎川(えいせん)の太守(たいしゅ)、黄霸(とうは)のはなしである。
本郡(穎川)に富裕な家があって、兄弟が同居していた。弟の嫁が懐妊すると、兄の妻も懐妊したが、兄の嫁は流産をしたのにそれをかくしていて、弟の嫁が男の子を生むとその子を奪って自分の子にしてしまった。二人はその後三年間もいい争いをつづけて、ついに霸(は)に訴え出た。
そのとき霸は、部下の者にその子を抱かせて、庭のまんなかで、弟の嫁と兄の嫁とに取りあいをさせることにした。やがて二人はいっしょに庭に出てきたが、兄の嫁がいきなり子供をひったくろうとすると、弟の嫁は手を痛めはしないかとおそれてかなしそうな顔をした。霸はそれを見ると、大声で兄の嫁にいった。
「おまえは財産をめあてに、この子を自分の子にしようと思っているのだ。だから子供が傷つこうがつくまいが頓着(とんちゃく)しないのだ。これで、裁(さば)きはきまった」
兄の嫁は罪に服した。 ー『風俗通(ふうぞくつう)』に出づ
③ 大岡政談
※ 二人の女が一人の子をめぐって争い、自分こそが本当の母だと訴え出た。南町奉行大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)が子供の手を引っ張って勝った方を母とすると述べた上で、二人の女に子供の手を引っ張らせたところ、子供の痛いという声を聞いて、ハッと手を離した方が母であると判示した、というお話だ。
本によって題名が異なるし、実母と継母の話になったり、男の子であったり女の子であったり、子供の年齢も変わったり、犯行の動機も詳しくなったりするなど、様々に話の内容が変化している。詳しくは、藤沢毅『大岡政談「実母継母論之事」の変遷』という論文に譲る。
https://onomichi-u.repo.nii.ac.jp/records/781
ここでは読みやすさを考慮して、国会図書館デジタルアーカイブに収録されている活字本のリンクを貼っておく。『大岡難訴裁判』「小娘引取勝(こむすめひきとりがち)の裁判」(栄泉堂、明20.9)
さて、これら時空を超えた三つの裁判に共通している問題点が三つある。
第一に、法の欠缺(けんけつ)・不備がある点だ。
誰の子供かが争われた場合に、裁判官はどうすべきかというルールがあらかじめ決められておらず、ただ裁判官の良識を信頼するだけなのだ。しかも、裁判官の判決に逆らうことは許されない。
だからなんなの?と疑問に思われるかも知れないが、あらかじめ明文の規定でルールが定められていない外国で自分が裁判にかけられたらと想像すれば、これがどれほど恐ろしいことかが理解できるはずだ。
その意味で、アメリカ合衆国総領事ハリスが幕府と締結した日米修好通商条約は、確かに、アメリカに治外法権を認める不平等条約なのだが、アメリカ人の立場に立ったら、領事裁判権を幕府に承認させたのも無理からぬところだと言える。
というのは、当時の日本には、成文法もあったが、多くは不文法である慣習法であって、しかも地域によって慣習法の内容が異なったからだ。
日本人は、地元の慣習法を知っているので、裁判の結果をある程度予想することができるけれども、アメリカ人は、これを知らぬので、日本の裁判官の良識に全幅の信頼を寄せることなどできようはずもない。
現代でも成文法がない場合には、条理などの不文法に基づいて裁判が行われるが、裁判官のその場の思い付きで①子供を二つに切り分ける、②子供の取りあいをさせて取った方が勝ち、③子供の手を引っ張りあって勝った方が勝ち、という手続をとられたら、たまったものではない。
第二に、証拠に基づいて事実認定を行なっていない点だ。
そもそも成文法がないのだから、法律要件に当てはまる要件事実があるかどうかを証拠に照らして判断することができないとはいえ、せめて証人尋問をしたり、子供の容姿がどちらに似ているかを確かめたり、子供の気持ちを確かめたりしてもよさそうなのだが、判決の根拠は、所為(しょい)に表れた我が子を思う母の気持ちだけだ。
第三に、裁判官が自ら定めたルールを破っている点だ。
①子供を二つに切り分ける、②子供の取りあいをさせて取った方が勝ち、③子供の手を引っ張りあって勝った方が勝ち、という裁判官が自ら定めたルールを自ら破って、裁判官を信頼した原告・被告を裏切っているのだ。
この点は、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』も同じであって、裁判官は、判決(=原告・被告間のルール)を下した後で、自らこれを実質的に否定している。
期日までに借金の返済ができなかった被告たるヴェニスの商人アントニオに対し、原告たるユダヤ人高利貸しシャイロックが、契約書通り被告の肉一ポンドを取ることを要求し、裁判官は、判決でその要求を認めた。
勝ち誇った原告に対し、裁判官は、契約書には「肉一ポンド」と書いてあるが、血はただの一滴も与えるとは書いてないから、肉一ポンドを切り取ることは認めるが、キリスト教信者の血の一滴でも流すならば、地所も家財もヴェニスの国法によって、ことごとく国庫に没収する、と言う。
それならば、お金をもらって帰ることにするとシャイロックが言ったら、裁判官が、ヴェニスの法律では、ヴェニス市民を殺そうとする陰謀を企てたかどで、全財産を没収し、その半分は被害者であるはずの者に渡され、残りの半分は国庫に没収されることになっている、と言う。
ドイツのイェーリングは、名著『権利のための闘争』(岩波文庫、17頁以下、93頁以下)で強烈に批判している。
このようにこれら三つの裁判は、冷静に考えれば問題点を抱えているのに、子を思う母の心情に絆(ほだ)され、どんでん返しの面白さから、悠久の時の流れに流されることなく、名裁きと拍手喝采を受け続けてきたのだろう。
では、現代に生きる我々は、この三つの裁判から何を学ぶべきなのか。
今でこそDNA鑑定で生物学的に実子かどうかを判別できるが、昔は、DNA鑑定はもちろん、血液型鑑定すらなかった。
実子のことを「腹を痛めた子」と言うけれども、これら三つの裁判からも明らかなように、たとえ「腹を痛めた子」であっても、その子が実子であることを直接証明する手立てがなかった。父子関係に比べて、母子関係ほど確実なものはないはずなのに、産婆、家族、近所の人などの証言が頼りだった。
もともと赤の他人である夫婦は、愛と信頼で成り立っているだけだから、配偶者が浮気をしているのではないかと一瞬でも疑えば、配偶者の全ての言動が疑わしく思えてくる。
つまり、家族というものは、ガラス細工の如く、夫婦関係・親子関係に一度疑いを抱き又は疑いをかけられたら、非常に簡単に壊れてしまう可能性があるが故に、様々な手立てを講じてこれを強固なものとする必要がある。世間の荒波に抗い、手を携えて生きていくためにも、子供を立派に養育するためにも、伝統文化を継承するためにも、国家を維持するためにも、家族を守る必要がある。
これが三つの名裁きから得られる教訓だと考える。
親子関係の裁判の話をしているのに、突然、夫婦・家族の話に飛躍して恐縮だが、新たに夫婦(めおと)になった男女がひとつの家を起こし、ワンチームになるために、支那や朝鮮にはないファミリー・ネーム=夫婦同氏制を日本独自に作り出した先人たちの智慧に驚きと感謝の念を禁じ得ない。
ところが、いわゆる選択的夫婦別姓を導入して、我が国の婚姻制度ひいては家族制度を破壊することを目論むマルキストや多文化共生という名の多文化強制を望む支那系・朝鮮系帰化人の主張が世論を動かし、政権与党内部にもこれに同調する輩が増えてきた。
夫婦同氏制は、少なくとも江戸時代から始まったのに、明治になって始まったとデマを流し、また、夫婦同氏制は、女性の社会進出の妨げになる、という一見するともっともらしく思える理屈を捏ねているが、女性の社会進出が日本よりも著しいアメリカでは女性の8割が夫の名字を名乗っていることから、方便に過ぎない。旧姓使用で多くの不便は解消される。
江戸時代から続く夫婦同氏制を大切に守り、次世代へと継承していくことが世界が羨む日本社会・日本文化の礎を守ることになるのだ。
<追記>
昔の教え子から「夫婦同氏制以外にワンチームになるための制度ってあるんですか?」と質問があった。
ワンチームづくりが直接の目的ではなくても、その機能を果たしているものをも含めると、いろいろある。
まず、家族のつながりを強固にするものとしては、支那や朝鮮にはない日本独自の「家紋」がある。家族のつながりを強固にする機能を有するものとしては、戸籍制度、盂蘭盆会(うらぼんえ)、墓参り、家族旅行、葬式などがある。
次に、夫婦のつながりを強固にするものとしては、結納、三々九度などの結婚式、披露宴、新婚旅行、結婚記念日、銀婚式や金婚式などがある。
さらに、親子のつながりを強固にするものとしては、出産祝い、お七夜、命名書、お宮参り、お食い初め式、初節句、七五三、お年玉、ひな祭り、端午の節句、入園・入学祝い、卒業祝い、就職祝い、元服・成人式、父の日、母の日などがある。
youtubeで探したら、「二人の母親」というお題でやっと見つかった。田辺銀冶(ぎんや)の講談「二人の母親」は、約18分なので、このお話をご存知ない方は、聞いてみては如何だろうか。
ちなみに、大岡政談は、一説に87話あるらしいが、大岡越前守が南町奉行をしていたときの事件は3つだけで、しかも実際に担当したのは1つだけだったそうだ。「二人の母親」は、創作にすぎない。
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