通知表の廃止?

 下記の記事によると、「岐阜県美濃市のすべての小学校で、1年生と2年生の通知表を廃止する」そうだ。「ほかの児童と比べることによる勉強への苦手意識や、劣等感を抱かせないようにする狙い」らしい。

 小学生の頃を振り返ってみると、勉強ができる子は、同級生から評価されたが、勉強だけが評価の指標ではなかった。

 運動ができる子も評価された。野球のピッチングが上手い子、バッティングが上手い子、守備が上手い子のように、各スポーツごとにさらに細かく評価された。

 絵が上手い子、場を和ませる子、面白いことをする子、歌が上手い子、楽器演奏が上手い子、親切な子、リーダーシップのある子、喧嘩が強い子、将棋が強い子、工作が上手い子など、実に多様だった。

 逆に、弱い者いじめをする卑怯者、先生に告げ口する卑怯者、意地悪をする卑怯者、掃除をサボる卑怯者、嘘つきなどは、嫌われた。


 子供同士の評価の指標が多様であるが故に、勉強への苦手意識や、劣等感を抱いたとしても、他の面でカバーされていたのだ。

 子供は残酷だから、同級生をからかうことはあったが、エスカレートする前に誰かがやめろと止めに入った。喧嘩やいじめを止めに入った子は、評価された。


 昔を美化しすぎかも知れないが、当時の子供は、人には得手不得手があることを理解し、人が生まれながらに不平等であることを自覚しながらも、子供同士の評価の指標を多様化させることにより、バランスを取っていたと言える。

 社会で生きていく上で必須のバランス感覚を知らず知らずのうちに身につけていったとも言える。


 ところが、左翼教師は、何かにつけて多様性を声高に叫びながら、その実、勉強のみを評価の指標にして、「ほかの児童と比べることによる勉強への苦手意識や、劣等感を抱かせないようにする」ために、通知表を廃止しようとしているわけで、言行不一致だ。

 教師は、学力だけでなく、多様な評価指標を示して、児童に適切なバランス感覚を養うよう教育すべきだろう。


 確かに、学校が児童の成績や学校生活の状況を保護者へ伝える通知表の作成は、学校の任意だから、これを廃止すること自体は、法的に問題はない。

 

 しかし、本当に「ほかの児童と比べることによる勉強への苦手意識や、劣等感を抱かせないようにする」ことが理由なのだろうか。

 というのは、私が子供の頃は、通知表の成績評価は相対評価だったから、5段階評価であれば、5は何%、4は何%という風に機械的に決まっていたので、2や1を付けられた児童の中には勉強への苦手意識や劣等感を抱いた子がいただろうが、相対評価では児童の努力が評価に反映されないとして、平成14年度(2002年度)から絶対評価に変更された結果、お手て繋いで全員でゴールを切るように、学校の中には5だらけになって、保護者が子供の学力を把握できないという問題すら起きているぐらいなので、本当に勉強への苦手意識や劣等感を抱く児童がいるのだろうかと疑問に思えるからだ。


 むしろ、教師の働き方改革の一環として、通知表作成の負担を軽減するのが真の狙いではないかと思うのだ。

 つまり、児童のためと言いながら、その実、教師のためではないのか。仮にそうだとしたら、果たしてこれが教師のあるべき姿なのだろうか。甚だ疑問だ。


源法律研修所

自治体職員研修の専門機関「源法律研修所」の公式ホームページ