手紙の句読点

 学生時代に恩師から和紙に毛筆で書かれた候文のお手紙をいただいたことがある。正漢字(旧漢字)・歴史的仮名遣いの草書体で、達筆すぎて読めなかったので、代わりに亡父に読んでもらった。

 その後、亡父からこれを読んで勉強するようにと渡された本が、麻生路郎著『現代模範 美的候文』(藤谷崇文舘 大正11年3月1日発行)である。この本は、亡父が戦地に出征する先輩から形見分けとして頂いたものだそうだ。裏表紙には、連隊名及び中隊名並びに先輩のお名前が毛筆で書かれている。麻生路郎氏は、「俺に似よ俺に似るなと子をおもひ」という句で有名な川柳六大家の一人だ。

 私が恩師の手紙を読めなかったのは、候文が読めないからではなく、先生の草書体が読めなかったからなのだが。苦笑

 しかし、この本のお蔭でリズムの良い候文に慣れ親しむことができたのは幸いだった。


 さて、なぜこんな思い出話をしたかと言うと、「手紙に句読点を付けるのは相手に失礼だ。」と言われたと昔の教え子からメールがきたからだ。

 句読点は、明治になってできたということは知っていたが、手紙に句読点を付けることが失礼に当たるとは思わなかったので、正直驚いた。上記『現代模範 美的候文』も句読点を付けているからだ。

 念のために、手元にある酒井美意子監修『実用手紙の書き方』(朝日新聞社)を確認してみたが、手紙の例文全てに句読点が付けられていた。監修者は、侯爵前田利為殿のご長女で、元伯爵酒井忠元殿の奥方様だ。数多くのマナー本を書かれている。

 念には念をと手紙の書き方サイトも見てみたが、いずれの文例にも句読点が付けられていた。

http://www.proportal.jp/links/pro_bunrei.htm

https://www.jp-guide.net/businessmanner/index.html


1 句読点の歴史

 そこで、まず、句読点について調べてみた。


 その結果、句読点は、明治39年(1906年)に、公式に定められたものである。それ以前には句読点は、公的に存在しなかった。とはいえ、句読点には、既に113年の歴史があるということが分かった。


 句読点自体が公的に定められたのは、明治39年(1906年)の文部省大臣官房図書課の『句読法案・分別書キ方案』である。

下記のURLにアクセスすれば、国立国会図書館デジタルコレクションで「句読法案・分別書キ方案」を閲覧・DLすることができる。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903921

 戦後、昭和21年(1946年)の文部省教科書局調査課国語調査室の『くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)』が作成された。

http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/sanko/pdf/kugiri.pdf

 そして、昭和27年(1952年)の内閣総理大臣官房総務課の『公用文作成の要領〔公用文改善の趣旨徹底について〕』が発せられて、その後、昭和56年(1981年)に『常用漢字表』が告示され、昭和61年(1986年)に『現代仮名遣い』、平成22年(2010年)に『常用漢字表』が告示されたことから、必要な修正が加えられながら今日に至っている。

詳しくは、下記のURLにアクセスすれば、文化庁の『公用文の書き方資料集』を閲覧・DLすることができる。

http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/series/21/21.html


2 手紙における句読点

 次に、現在、手紙において句読点がどのように扱われているのかについて調べてみた。


 結論を先に言えば、文部科学省は、手紙において句読点を用いるよう指導している。


 文部科学省の学習指導要領「生きる力」→授業改善のための参考資料→言語活動の充実に関する指導事例集→言語活動の充実に関する指導事例集【中学校版】→第3章言語活動の充実に関する指導と事例→国語→事例7【2年】 社会生活に必要な手紙を書く事例(書くこと)

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/gengo/1306150.htm

を見ると、「心に届けたい言葉を添えて年賀状を書く」ために、次のような指導の工夫をするようアドバイスしている。

「相手の心に届くような文面を書く。そのために,説明や具体例を加えたり,描写を工夫したりする。

例:(友達へ)今年もよろしく。→今年も野球で県大会出場を目指して一緒にがんばろう。

  (祖母へ)元気でね。→年末,風邪気味だと聞きましたが,大事にしてくださいね。

  (先生へ)がんばっています。→先生に勧められた本を,冬休みに読もうと思います。」


 餅は餅屋。郵便局は、どうなのかと調べてみたら、郵便局のHPに「手紙の書き方ホームページ」のリンクが貼ってあった。

https://yu-bin.jp/manner/letters/


 一目瞭然。郵便局も、手紙に句読点を付けることを推奨している。


 ただし、喪中・年賀欠礼状については、句読点を省くのが一般的だとしている


https://www.midori-japan.co.jp/letter/bunrei/4625


3 手紙に句読点を付けないことがマナーだとされる理由

 下記のサイトによると、どうやら3つの理由に集約されるらしい。

https://letter.sincerite-shop.com/kihon_ichiran/butuji_manner.html


[句読点を付けない理由ー1]

もともと書状は毛筆で書かれていました。

毛筆の書状には元来「、」や「。」を用いていませんでした。

だから会葬礼状にも「、」「。」は用いないのが正式、という説。


[句読点を付けない理由ー2]

葬儀や法事が滞りなく流れますようにという意味や、つつがなく終わりましたという意味をこめて、文章が途切れるような「、」「。」は用いなかった。

冠婚葬祭に関する案内状や挨拶状全般 も、式や行事が滞りなく流れるように、「、」「。」は用いません、という説。


[句読点を付けない理由ー3]

「、」や「。」は読む人が読みやすいようにつけられたものであり、読み手の補助をするものと考えられます。

あらかじめ句読点をつけた書状を送るのは、読む力を充分にそなえた相手に対して失礼であるという、読み手に対する敬意から句読点はつけない、という説。


4 ど素人の検討

①  確かに、明治39年以前には、句読点は、公式に定められていなかった。しかし、活字が用いられるようになると、手書きとは異なり、句読点がないと非常に読みにくいことから、明治39年から公式に句読点が付けられるようになったわけで、既に113年の歴史がある。

 私の恩師のように、正漢字・歴史的仮名遣いの草書体で候文の手紙を毛筆で書くならば、句読点を付けないというのは、伝統を重じており、古式ゆかしく、一貫していて格好良い。

 しかし、常用漢字・現代仮名遣いの現代文でペンやワープロを用いて書いたり、印刷屋に印刷してもらったりしておきながら、句読点だけ古式に則ってこれを付けないというのは、一貫しておらず、格好悪い。伝統を重んじるというのであれば、なぜ句読点にだけこだわるのか意味不明だ。

 

②  句読点を付けると、式や行事が滞るなんて非科学的なことがあるのだろうか。

式や行事が滞りなく行われますようにという願いを込めて、句読点を付けないというのであれば、心情的には理解できるが、これは、思想信条の自由の範疇に属する問題だろう。他人が句読点を付けたからといって失礼だと非難することは、個人的な信条を他人に強制するものであって、行き過ぎではなかろうか。


③  手紙に句読点を付けることを教師に指導している文科省は、失礼なことを指導教育しているのだろうか。

 句読点が公式に定められて113年経った現在、句読点が付いた手紙を受け取って、「子ども扱いするな!」と怒る人が果たしているのだろうか。

 役所の公用文(その中には手紙もある。)には、句読点が用いられているが、これは相手に失礼なのだろうか。

 手紙ではないけれども、市販されている本には、句読点が付けられている。著者は、読者に対して敬意を払わず、失礼なことをしているのだろうか。


 手紙に句読点を付けないことがマナーだというのは、どうやら根拠薄弱のようだ。


5 ど素人の勝手な推測

 下記のブログとツイッターに掲載された4つの御招待状は、漢字・仮名遣い・文体に違いがあるが、いずれも句読点が付けられていない。

 文明・文化は、水の如く、高いところから低いところへと流れるものである。現在でも皇室の御招待状には、句読点が付けられていないために、格式高い手紙には句読点を付けないのだと考えられるようになったのかも知れない。これが手紙に句読点を付けないことがマナーだとされている根拠ではないかと思われるが、如何なものであろうか。

 仮にそうだとすれば、少なくとも戦後、宮内庁が御招待状に句読点を用いていれば、庶民の間に無用な混乱が生じなかったか可能性がある。

 では、宮内庁の手紙の書き方に合理性があるかというと、必ずしもそうとは言い切れない。宮内庁のHPは、横書きで、句読点を用いているのであるが、読点には「、」(てん)ではなく英語の「,」(カンマ)を用いている。「公用文作成の要領」には、「句読点は,横書きでは「,」および「。」を用いる。」とされているからだ。宮内庁は、縦書きでは句読点を付けないのに対して、横書きでは句読点を付け、しかも英語の「,」を用いているわけだ。縦書きの句読点だけ伝統にこだわる理由は、不明だ。もし伝統を重んじるのであれば、正漢字及び歴史的仮名遣い並びに文語体にすべきだろう。しかし、「公用文作成の要領」並びに「常用漢字表」及び「現代仮名遣い」があるために、それができないからこその宮内庁なりのささやかな抵抗が縦書きに句読点を付けないことなのだろうか。

 個人的には、「公用文作成の要領」並びに「常用漢字表」及び「現代仮名遣い」を廃止して、正漢字・歴史的仮名遣い・文語体に戻していただきたいと思っている。昔の文章をスラスラ読めるようになって、文化の継承が容易になるからだ。

https://ameblo.jp/kamiya4561/entry-11115094456.html

https://twitter.com/makafushigi0717/status/1051322415723106305/photo/1

 もし皇族や宮内庁関係者気取りで、宮中では手紙に句読点を付けないのがマナーでございますなどとしたり顔で、手紙に句読点を付けた他人を非難する人がいたとしたら、『論語』の下記の章句を書き送ったらよかろう。

 以下、宇野哲人著『論語新釈』(講談社学術文庫)61頁


八佾(はついつ)第三


 孔子謂季氏。八佾舞於庭。是可忍也。孰不可忍也。


 孔子(こうし)季氏(きし)を謂(い)ふ。八佾(はついつ)庭(には)に舞(ま)はす。「是(これ)をも忍(しの)ぶ可(べ)くんば、孰(いづ)れか忍ぶ可(べ)からざらん。」


[通釈] 魯(ろ)の大夫(たいふ)の季孫氏(きそんし)が八列(はちれつ)でする舞楽(ぶがく)を己(おのれ)の家の廟(びょう)の庭で奏した。八列でする舞楽は、天子でなければ奏されないのである。季子(きし)は諸侯(しょこう)の大夫でありながら、天子のようなことをするから、孔子がこれを譏(そし)って「こんな僭越(せんえつ)なことを平気でするようでは、どんなことでもなすに忍(しの)びないことはなかろう」と謂った。


[解説] この章は孔子が魯(ろ)の大夫(たいふ)の季子(きし)の僭越(せんえつ)な行いを評して名分(めいぶん)を正そうとしたのである。

 僭越(せんえつ)な行いをして平気でいるようなものは、父や君を弑(しい)することもやりかねないものである。



 







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