かつて女性にも兵役義務があった

 今日、令和2年8月15日で昭和天皇の玉音放送から75年になる。国民の8割が戦後生まれだそうだから、かつて女性にも兵役義務があったと言うと、きっと驚かれる方が多いのではなかろうか。

 

 以前、国民国家において、国民=兵士であって、女性に参政権を認めるのであれば、女性にも兵役義務を課す国民皆兵制を採るのが筋だということを述べた(国民皆兵制が良いことだとは決して言っていない。)。

 大日本帝國憲法第20条は、「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」と定められていたので、憲法上、男性のみならず、女性にも兵役義務があったのだ。


 もっとも、美濃部達吉は、「兵役義務はその性質上日本臣民にのみ限らるゝのみならず、日本臣民の中でも男子に限」ると述べておられるが(美濃部達吉著『憲法精義』354頁)、条文上は、「日本臣民」とあって「日本臣民たる男子」に限定されていない。


 しかし、実際には、徴兵令(明治22年1月22日法律第1号)第1条は、「日本帝國臣民ニシテ滿十七歳ヨリ滿四十歳迄の男子ハ總テ兵役ニ服スルノ義務アルモノトス」とされ、その後、全面改正された兵役法(昭和2年法律第47号)第1条も、「帝國臣民タル男子ハ本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス」とされ、法律上、男子のみに兵役義務が課されていた


 ところが、敗戦色が濃厚になった昭和20年に制定された義勇兵役法(昭和20年法律第39号)には、大東亜戦争限定とはいえ(同法第1条)、女性の義勇兵役義務が定められていた

 すなわち、同法第2条第1項は、「義勇兵役ハ男子ニ在リテハ年齡十五年ニ達スル年ノ一月一日ヨリ年齡六十年ニ達スル年ノ十二月三十一日迄ノ者(勅令ヲ以テ定ムル者ヲ除ク)、女子ニ在リテハ年齡十七年ニ達スル年ノ一月一日ヨリ年齡四十年ニ達スル年ノ十二月三十一日迄ノ者之ニ服ス」と定められていた。

 なお、義勇兵役法のQ&Aについては、「義勇兵役法問答」がある。

http://binder.gozaru.jp/450.451-giyuuheiekimondou.htm


 女性に兵役義務を課すのであれば、女性参政権が認められて然るべきだ。婦人参政権運動を主導した市川房枝氏は、昭和5年に婦人参政権を認める法案が衆議院で可決されたのに、貴族院の反対により廃案になったことに鑑み、陸軍省兵務課主催の「婦人義勇戦闘隊ニ関スル懇談」に出席するなど、戦争遂行に協力することを通じて、婦人参政権獲得を目指した。


 この義勇兵役法は、 戦後、昭和20年10月24日、軍事特別措置法廢止等ニ關スル件(昭和20年勅令第604号)により廃止された。


 市川房枝氏の婦人参政権運動は、昭和20年12月17日、衆議院議員選挙法改正で婦人参政権(普通選挙)が認められたことにより、成就した。


 ところで、亡父は、五人きょうだいの末っ子で、歳の離れた兄が二人いる。

 次兄は、大学卒業後、通信会社に就職していたが、召集令状(いわゆる赤紙)がきた。現在、陸上自衛隊の最強部隊と呼ばれる第一空挺団の前身である挺進聯隊(ていしんれんたい。いわゆる落下傘部隊)の通信隊に配属され、曹長をしていた。

 この落下傘部隊は、開戦時、オランダ軍が守備するスマトラ島パレンバンに奇襲落下傘降下作戦を実行し、飛行場・油田・製油所を制圧する大戦果を収めた。そのため、落下傘部隊は「空の神兵」と呼ばれ、歌や映画になった。

 下記に落下傘部隊に志願した新兵の成長を描いた映画『空の神兵』(昭和17年(1942年)9月公開)のリンクを貼っておく。55分の短い記録映画だ。ひょっとしたら伯父も映っているかも知れない。「藍より蒼き 大空に大空に たちまち開く百千の 真白き薔薇の花模様♪」というおよそ軍隊に似つかわしくない歌詞と明るく伸びやかな曲調の歌が劇中に流れるが、これが「空の神兵」という戦時歌謡だ。現在も、陸上自衛隊第一空挺団の事実上の隊歌として演奏されているそうだ。

 敗戦により軍隊が解散させられた際に、アメリカ軍に接収されるよりもマシだということで、上官の命により、備蓄していた膨大な軍事物資を持ち帰っても良いことになり、各人貨車1両ずつに詰め込んで故郷へ持ち帰ったそうなのだが、次兄は、武士としての矜恃がこれを許さず、自分が使っていたパラシュートを記念に持ち帰っただけで、それ以外の軍事物資を持ち帰らなかったそうだ。

 その後、高所はお手のものなので、落下傘部隊の先輩と二人で鉄塔に送電線を張る会社を立ち上げ、全国シェア第2位の電気会社に成長させた。

 長兄は、大学卒業後、商社に就職していたが、戦争中は、陸軍の軍属として通訳をしていた。敗戦後、戦犯として逮捕されたが、友人であった外国の貴族たちの嘆願運動により無罪放免された。ただ、通訳をしていただけなのに、どうして戦犯として逮捕されたのかが不思議で、亡父に訊ねても分からなかった。

 しかし、長兄がなくなる1か月ほど前だっただろうか、手紙が来て、謎がすべて解けた。長兄は、大学卒業後、外務省に入省し、語学が堪能であるため、特務機関(今風に言えば、諜報機関だ。)に配属されていたのだ。亡父も含め、家族親戚の誰一人として外務省に入省していたことを知らなかった。そして、民間人の立場の方がスパイ活動がしやすいことから、商社に就職していたのだった。命がけで敵基地を空撮したり、工作活動をしたりしていたそうだ。我が国の暗号は、アメリカ軍に全て解読されていたため、そもそも情報が筒抜けだったし、外国貴族たちの嘆願もあったことから、無罪放免になったということだ。戦後は商社マンとして活躍した。

 文官だった長兄とは直接関係ないが、参考までに諜報員養成学校だった陸軍中野学校を扱ったテレビ番組のリンクを貼っておく。

 このように戦争は、多くの人の人生を狂わせる。伯父たちよりももっとご苦労なさった方たちが多くいる。今、平和な状態で何不自由することなく暮らせるありがたさを感じながら、「先の大戦において亡くなられた方々を追悼し平和を祈念する日」を過ごしたいと思う。


cf.義勇兵役法(昭和二十年法律第三十九號)

 朕ハ嚝古ノ難局ニ際會シ忠良ナル臣民ガ勇奮挺身皇土ヲ防衞シテ國威ヲ發揚セムトスルヲ嘉シ帝國議會ノ協贊ヲ經タル義勇兵役法ヲ裁可シ玆ニ之ヲ公布セシム

第一條 大東亞戰爭ニ際シ帝國臣民ハ兵役法ノ定ムル所ニ依ルノ外本法ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ服ス

 本法ニ依ル兵役ハ之ヲ義勇兵役ト稱ス

 本法ハ兵役法ノ適用ヲ妨グルコトナシ

第二條 義勇兵役ハ男子ニ在リテハ年齡十五年ニ達スル年ノ一月一日ヨリ年齡六十年ニ達スル年ノ十二月三十一日迄ノ者(勅令ヲ以テ定ムル者ヲ除ク)、女子ニ在リテハ年齡十七年ニ達スル年ノ一月一日ヨリ年齡四十年ニ達スル年ノ十二月三十一日迄ノ者之ニ服ス  

 前項ニ規定スル服役ノ期閒ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ必要ニ應ジ之ヲ變更スルコトヲ得

第三條 前條ニ揭グル者ヲ除クノ外義勇兵役ニ服スルコトヲ志願スル者ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ義勇兵ニ採用スルコトヲ得  

 前項ノ規定ニ依ル義勇兵ノ服役ニ關シテハ勅令ノ定ムル所ニ依ル

第四條 六年ノ懲役又ハ禁錮以上ノ刑ニ處セラレタル者ハ義勇兵役ニ服スルコトヲ得ズ但シ刑ノ執行ヲ終リ又ハ執行ヲ受クルコトナキニ至リタル者ニシテ勅令ヲ以テ定ムルモノハ此ノ限ニ在ラズ

第五條 義勇兵ハ必要ニ應ジ勅令ノ定ムル所ニ依リ之ヲ召集シ國民義勇戰闘隊ニ編入ス

 本法ニ依ル召集ハ之ヲ義勇召集ト稱ス

第六條 義勇兵役ニ關シ必要ナル調査及屆出ニ付テハ命令ノ定ムル所ニ依ル

第七條 義勇召集ヲ免ルル爲逃亡シ若ハ潛匿シ又ハ身體ヲ毀傷シ若ハ疾病ヲ作爲シ其ノ他詐僞ノ行爲ヲ爲シタル者ハ二年以下ノ懲役ニ處ス

 故ナク義勇召集ノ期限ニ後レタル者ハ一年以下ノ禁錮ニ處ス

第八條 前條ノ規定ハ何人ヲ問ハズ帝國外ニ於テ其ノ罪ヲ犯シタル者ニモ亦之ヲ適用ス

第九條 國家總動員法第四條但書中兵役法トアルハ義勇兵役法ヲ含ムモノトス

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