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小学校5年生の時に、友達に誘われて、生まれて初めて塾なるものに通った。塾といっても、授業があるわけではなく、宿題でも読書でも何でも勉強してよく、分からないところがあれば、先生にお訊ねして教えていただくというスタイルなので、寺子屋みたいな感じだった。
入れ替わり立ち替わり塾生がやって来ては、計算ドリルや書道・工作・理科の実験など思い思いの勉強をしており、賑やかだった。
先生は、80近い?頭が禿げたおじいちゃんで、市議会議員を長年務めながら、ご自宅の一室を塾に当てておられた。昼間は、市議会がない限り、社会人や主婦向けの英会話教室を開催し、夕方からは、小学生向けの塾を開催しておられた。2人の息子さんは、この塾のOBで、いずれも栄光学園から先生の母校である東大へ進学した秀才だった。
先生に初めてお目にかかった際に、私の立居振る舞いと名前をご覧になって「久保くんは、武士だな。信濃源氏の後裔(こうえい)かな?」とお訊ねになった。
先生がなぜこのような質問をなさったのか、直ぐにピンときた。私の名前が「賢高」だったからだ。
私も歴史読本に載っていた木曽の義仲の系図を見たときに驚いたのだが、源頼朝の従兄弟である源義仲(木曽の義仲)の父の名は、源義賢で、源義仲の嫡男の名は、源義高なので、先生は、私が信濃源氏の後裔ではないかと思われたのだ。笑
確かに、私の先祖は、源姓を賜って臣籍降下し、従五位下や日向守・備前守・佐渡守などの官位官職を代々朝廷より拝受していた武士の家系で、戦国時代末期、豊臣方だったため(徳川家と一戦を交えて敗けたわけではない。)、徳川幕府に領地を削られ城(岡に築かれた小さな砦にすぎない。)も潰されたとはいえ、祖父の代まで郡一つ(30ヶ村)を領していたが、木曽の義仲の子孫ではない旨をご説明申し上げた。
先生は、私が木曽の義仲の子孫ではないと答えたことに大きく頷き、ご自身の推理が外れたことを笑われて、話のついでに、源義賢の官職が「東宮帯刀先生」だったことを教えて下さった。
メモ用紙に達筆な字で「東宮帯刀先生」と書かれて、「読めるかな?」とおっしゃるので、「とうぐうたてわきせんせい」と読んだら、笑われて、「とうぐうたちはきせんじょう」と読むと教えて下さった。
すなわち、「東宮」は、皇太子のことだ。「帯刀」は、「たちはき」(のちに「たてわき」と読まれるようになる。)といって、護衛のことだ。「先生」は、「せんせい」ではなく、「せんじょう」といって、長官のことだ。だから、「東宮帯刀先生」は、皇太子の護衛隊長という意味になる。
「帯刀」を「たちはき」と読むこと、「先生」を「せんじょう」と読んで長官を指すことを知らなかったので、素直に「へぇ〜」と感心した。
なぜ、このような昔話をしたかというと、たまたま下記の記事を見て、思い出したからにすぎない。
ただ、「先生(せんじょう)」という名字があるなんて、知らなかった!
「先生(せんじょう)」さんが学校の先生をしていると、「先生先生」になっちゃうね!笑
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