隠された憲法

 昔の教え子から、ブログを更新しないのですか?という問い合わせメールがありました。たわいのないことを書き殴っている駄文なのに、世の中には奇特な方がいはるものです。

 実は、無料のスマホゲームを始めたのですが、面白いものですね(いい歳をした私が何をしているんだ?と思わなくもないのですが。苦笑)。

 ゲームを始めて日が浅いし、大変弱いのに、なぜか世界ランク5位の強豪チーム(外国人との混成チーム。片言の英語や漢文で意思疎通を図るのは、難しい!)の副隊長に任命された結果、真面目に毎日ログインして、少しでも強くなってチームに貢献せねばと思ってやり込んでいたら(千円課金しました。)、1週間ブログの更新をサボってしまいました!笑 

 取り敢えずブログを更新しました。こんなブログでも何かのヒントになったら、幸いです。但し、これから述べることを試験の答案に書いたら、間違いなく不合格になるので、悪しからず。

1 習う

 上記写真は、昔、私が使っていた江戸時代に刷られた版木本の朱熹集註(しゅきしっちゅう)の四書五経の一つ『論語』だ。高松藩の儒者後藤芝山先生が訓点を施した「後藤点」と呼ばれる本だ。

 『論語』については、様々な注釈本がある。初心者は、朱熹が注釈を施した朱熹集註『論語』から始めるのが定石なのだが、版木本を読むのは大変だから、基本的に朱熹集註に依っている宇野哲人著『論語新釈』(講談社学術文庫)からスタートするのがベターだ。


 さて、朱熹集註『論語』学而(がくじ)第一「子曰学而時習之不亦説乎」(子(し)曰(いわ)く。学んで時に之(これ)を習う、亦(また)説(よろこばし)からずや)の注釈には、「習鳥数飛也学之不已如鳥数飛也」とある。

 「習(ならう)は、鳥数飛ぶなり。これを学んでやまず。鳥の数飛ぶがごときなり。」(読み下し文:久保)

 つまり、「習」は、白い羽と書くように、習うというのは、鷹(たか)の雛(ひな)が羽が生えると毎日何度も飛ぼうと羽ばたくように、繰り返し練習をすることだというわけだ。

 江戸時代に寺子屋へ通っていた子供たちも、きっとかつての私と同様に、「へぇ〜」と感心したはずだ。


 この理は、法学も同じであって、市販されている定評のある体系書を繰り返し読むことにより、いつの間にやら法的知識や法的思考力のみならず、リーガルマインドも身に付く。

 まあ、多くの学生は、繰り返し読む前に、心太(ところてん)式に大学を卒業してしまうのだが。

http://1930.co.jp/archives/1767.html


2 「天皇主権から国民主権へ」?

 素直な性格の学生は、繰り返し読むことにより理解が進み、伸びが早いのだが、天邪鬼(あまのじゃく)な性格の私は、いくら繰り返し読んでも理解が進まず、伸びない。


 例えば、通常、どの憲法学の体系書にも、日本国憲法成立の法理と題した項目で、天皇主権を定める大日本帝国憲法を国民主権を定める日本国憲法へ全面改正することは、自己否定であり矛盾しているので、法的に許されないのではないかという問題をめぐる諸説を紹介しながら、この矛盾を解決する最も適切な学説として、宮沢俊義の八月革命説が挙げられている。


 しかし、天邪鬼な私からすると、そもそも天皇主権から国民主権に変わったという議論の出発点・枠組み自体が間違っているように思われるのだ。

 というのは、大日本帝国憲法には、「主権」という言葉が一切用いられていないからだ。

 しかも、憲法学の体系書は、明治憲法という項目で、戦前の通説が美濃部達吉の天皇機関説(ドイツのイェリネックの国家法人説を前提に、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、大臣の輔弼(ほひつ)を受けながら、統治権を行使するという説)であり、戦前の学生は、天皇機関説に従って答案を書いて高等文官試験(現在の国家公務員総合職試験)に合格していたというのに、少数説であった天皇主権を唱える上杉慎吉が美濃部の天皇機関説を批判し、政府が美濃部の著書を発禁処分にして、公職追放したのは、学問の自由に対する侵害であって、けしからんと述べながら、その舌の根が乾かぬうちに、日本国憲法成立の法理の項目では、上杉慎吉の如く、大日本帝国憲法は天皇主権だったと述べていること自体が矛盾しているように思われるからだ。まあ、「主権」をどのように考えるかにもよるのだが。


 後ほど、この問題について考えてみることにしよう。


3 形式的意味の憲法と実質的意味の憲法

 ところで、憲法学の体系書には、形式的意味の憲法と実質的意味の憲法という分類が書かれている。


 形式的意味の憲法というのは、成文(条文の形に成っていることをいう。)の憲法典を意味する。大日本帝国憲法や日本国憲法がこれだ。


 これに対して、実質的意味の憲法とは、国家の統治の基本を定めた法としての憲法であり、固有の意味の憲法とも呼ばれる。国家は、如何なる体制であっても、必ず政治権力とそれを行使する機関が存在しなければならないから、実質的意味の憲法は、如何なる時代の如何なる国家にも存在するとされている。


 ところが、憲法学の体系書には、大日本帝国憲法制定前から続く実質的意味の憲法の中身については、一切書かれていない

 如何なる時代の如何なる国家にも存在するというのであれば、大日本帝国憲法制定前には如何なる実質的意味の憲法が存在していたのかについて述べなければ、形式的意味の憲法と実質的意味の憲法の違いや区別の実益が明らかにならないではないか。なぜこの点について言及せずに隠すのか。

 天邪鬼の私は、つい不思議に思ってしまうのだ。


4 日本における実質的意味の憲法

 では、我が国の実質的意味の憲法とは、どのようなものなのだろうか。

 自治体職員研修は、愚見を発表する場ではないので、判例・通説に従って講義を行なっているが、このブログは、自治体職員研修ではないので、愚見を述べようと思う。

 愚見によれば、実質的意味の憲法の内容は多岐にわたるが、日本国憲法成立の法理に関連して重要だと考える三点を列挙しようと思う。


⑴  権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理

 第一に挙げるべきは、天照大神(あまてらすおおみかみ)が孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に勅(みことのり)なさった『天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅(しんちょく)』(『日本書紀 神代下』)だ。

 要するに、日本は、天照大神の子孫たる天皇(万世一系の天皇)が治める国だということだ。歴代天皇の正統性の根拠は、この一点にある。

 天壌無窮の神勅が神話だからといって、馬鹿馬鹿しいと切り捨てることはできない。古代の人も、神武天皇即位以前の神話の時代を「神代(じんだい)」としてきちんと区別する合理的思考力の持ち主である一方で、現代人の多くが天照大神などを祀る神社へお参りしているからだ。

 大切なことは、長年にわたって日本人に信じられてきたという事実と、世界で唯一無二の男系男子126代にわたる皇統が続いてきた事実の重みだ。


 政治の実権が天皇から氏族や幕府に移った後も、決して時の為政者が天皇に取って替わろうとはせずに、天皇から官位官職や令外官(りょうげのかん)たる征夷大将軍を拝命してきたのも、また律令制が明治まで続いてきたのも、慶応3年(1867年)の大政奉還が行われたのも、誰もが天皇に正統性があることを認めていたからに他ならない。これは、紛(まご)うことなき歴史的事実であって、何人もこれを否定することはできない。


 このように天壌無窮の神勅により当初は統治権が完全な形で天皇にあったが、その後、この統治権は、権威(天皇)と権力(時の為政者)に分離したわけだ。これを「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」と呼ぶことにする。


 なお、日本では、会社の創業者一族と経営陣のように、歴史のある組織ほど権威と権力が分離する傾向があるが、これは組織を長く存続させる先人の知恵でもある。


⑵  日本の民主政

 第二に、何事もみんなで話し合って決める民主政の伝統だ。

 すなわち、『古事記』を紐解けば明らかだが、我が国では、神代から、何事もみんなで話し合って決めていたみんなの範囲が事柄の重要度や時代により異なるだけで、みんなで話し合って決めるのが日本の民主政の伝統

 国であろうと、小さな村であろうと、みんなで話し合って決めてきたのであって、民主政は、決して西洋の専売特許ではない。むしろ、西洋の専売特許であるかの如く喧伝(けんでん)する輩(やから)が間違っているのだ。


 天照大神(あまてらすおおみかみ)ですら、ご一存でお決めになられずに、八百万(やおよろず)の神に問いかけ、話し合わせて結論が出た後に、詔(みことのり)を発せられている。


 聖徳太子の『十七条憲法』の第17条も、「夫事不可獨斷。必與衆宜論。」(夫(そ)れ事(こと)は獨(ひと)り斷(だん)ずべからず。必(かなら)ず衆(しゅう)と與(とも)に宜(よろ)しく論(ろん)ずべし。)とあるように、歴代天皇も、お一人でお決めにならずに、みんなで話し合ってお決めになっていた。政治の実権が朝廷から幕府に移った後も、朝廷や幕府(将軍も重臣たちと話し合って決めていた。)と話し合ってお決めになっていた。


 明治天皇も、このような日本の民主政の伝統に基づいて、『五箇条の御誓文』において、「廣(ひろ)ク會議(かいぎ)ヲ興(おこ)シ萬機(ばんき)公論(こうろん)ニ決(けっ)スベシ」(広く人材を集めて会議を開き、大切なことは全て公正な意見によって決めましょう。)、「上下(しょうか)心(こころ)ヲ一(いつ)ニシテ盛(さかん)ニ經綸(けいろん)ヲ行フべシ」(身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国を治め整えましょう。)と天地神明にお誓いなさっている。


 なお、諸外国に比べ、日本では、国も自治体も多すぎるんじゃないかと思うぐらい審議会等の諮問機関を数多く設置しているのは、日本の民主政の伝統が生きている証拠の一つだ。


⑶  天皇の大切な家族である民のために日本を一つの家として建国

 第三に、神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)でご即位し建国なさったのは、あくまでも民のためであり、元元(おおみたから。「大御宝」とも書く。全ての日本国民のことだが、人が大きな大きな宝だ、人が何よりも大切な宝だという意味が込められている。三種の神器は、お祈りをする道具であり、天皇の正統性の証しにすぎず、天皇の宝は、大切な家族である全ての国民なのだ。)が安んじられるよう、八紘(はっこう。天下(あまのした)のことで、日本を意味する。)を一つの家とする(「八紘為宇(はっこういう。はっこうをいえとなす。)」。「宇」は家のこと。)と宣言なさっていることだ(『日本書紀巻第三 神日本磐余彥天皇 神武天皇』)。

 現代まで続く世界最古の国家である日本の建国の目的が国民のためだというのは、非常に人道的であり、先進的だった。


 明治天皇も、『五箇条の御誓文』において、「大(おおい)に斯(この)国是(こくぜ)を定め万民(ばんみん)保全(ほぜん)の道(みち)を立(たて)んとす」(国政に関するこの基本方針を定め、全国民の生活を保全する道を確立しようとしているところです。)と述べて、『五箇条の御誓文』があくまでも全国民のためなのだということを明らかになさった上で、「衆(しゅう)亦(また)此(この)旨趣(ししゅ)に基(もとづ)き協心(きょうしん)努力せよ」(みなさんもこの趣旨に基づいて心を合わせて努力して下さい。)と述べて、全国民の協力を求めておられる。


 西洋をはじめとする諸外国では、君主と国民は、支配者と被支配者の敵対関係に立っているが、日本は、有史以来、天皇と国民が敵対関係に立ったことは、一度たりともない唯一無二の極めて珍しい国であって、歴代天皇は、大切な家族である国民の幸せを祈り、国民のために苦心に苦心を重ね、国民は、そのような天皇を敬愛してきた。

 仁徳天皇の「民のかまど」のエピソードなど、天皇と国民の心温まるエピソードは、枚挙に遑(いとま)がないが、戦後の文科省は、学校では決してこれらを教えさせないようにしている。


 太田亮 著『姓氏家系大辞典』(国民社版は全6巻。のちの角川書店版は全3巻。)を見ると、日本人の姓氏のほとんどが神代の神々や皇室に連なり、遠い親戚か近い親戚かの違いはあっても、天皇と血族関係ないし姻族関係に立っているので、皇室は、日本人の総本家と言っても過言ではないから、日本を一つの家となし、全ての国民が天皇の家族だというのは、単なる比喩(ひゆ)にとどまらないリアリティを持っており、それが天皇の権威を支える源泉にもなっているといえる。


 ちなみに、例えば、ローマ建国神話に登場するアイネイアースは、トロイア王家のアンキーセースと女神アプロディーテー(ウェヌス)の息子であるように、ローマ帝国を築いた原ローマ人の名門貴族は、系譜を辿(たど)れば神々に遡(さかのぼ)ることができるのだが、以前このブログで話したように、ローマ帝国時代に民族がすっかり入れ替わってしまって、原ローマ人の血統が絶え、現代では神々に遡ることができない。現在、ローマに住んでいるイタリア人は、ローマを建国した原ローマ人の子孫ではないからだ。

 これに対して、日本人の多くは、現代でも系譜をたどって神々に遡ることができるのであって、日本は、少なくとも先進国の中で稀有な国だといえる。

⑷  「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」及び「天民共治の原理」

 以上をまとめると、天壌無窮の神勅により万世一系の天皇に統治権があったが、時代を経るにつれて、この統治権は、権威(天皇)と権力(時の為政者)に分離した。これを「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」と呼ぶことにする。

 家族である国民が安心して暮らせるようにするために、日本は一つの家として建国されたのだから、国政は、天皇の一存で決めずに、みんなで話し合って決めるのが日本の民主政の伝統だ。これを「天民共治の原理」と呼ぶことにする。

 この「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」と「天民共治の原理」が実質的意味の憲法なのだ。


 手垢が付いた言葉を用いれば、「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」及び「天民共治の原理」が国体(国の政体のこと。現代では、「国柄」と言った方が抵抗が少ないかもしれない。)なのだ。


 そして、「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離」と「天民共治の原理」が続いてきたのは、ひとえに日本人がこの長年のしきたり(慣習)を法だと確信しているからに他ならない。

 従って、「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」と「天民共治の原理」は、慣習法(憲法慣習法)だといえる。


 国民権については、以前このブログでお話ししたが、代々天皇が統治権を相続し、天皇や時の為政者がこの日本の良き古き法(憲法慣習法)に従うことによって、国家の干渉が排除ないし制限され、国民の自由(国民権)が保障された結果、独自の日本文明が形成され、豊かな文化が花開き、経済的にも発展し続けているのだ。


5 大日本帝国憲法

 では、この実質的意味の憲法たる「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」及び「天民共治の原理」は、形式的意味の憲法にどのように反映されているかを簡単に見てみることにしよう。


 まず、大日本帝国憲法から見てみよう。

 

 まず、大日本帝国憲法の上諭(じょうゆ。公布の際に、その冒頭に記され天皇の裁可を示す文章のこと。)に、「朕(ちん。天皇が自分を指した言葉。)カ親愛スル所ノ臣民ハ即(すなわ)チ朕カ祖宗(そそう。先祖である歴代の天皇のこと。)ノ惠撫(けいぶ。いたわること。)慈養(じよう。慈愛をもって養育すること。)シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念(おも)ヒ其(そ)ノ康福(こうふく。安らかで幸福なこと。)ヲ増進シ其(そ)ノ懿徳(いとく。立派な徳のこと。)良能(りょうのう。生まれ持った才能のこと。)ヲ發達(はったつ)セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼贊(よくさん。補佐すること。)ニ依(よ)リ與(とも。一緒にということ。)ニ倶(とも。連れ立ってということ。)ニ國家ノ進運(しんうん。進歩の機運のこと。)ヲ扶持(ふじ。力を貸すこと。)セムコトヲ望ミ」憲法を制定したとある。

 要するに、大日本帝国憲法の目的は、国民の幸せと国の発展にあり、明治天皇は、国民と共に力を合わせてこれを実現させようと望まれて、憲法を制定されたのであって、そこには「天民共治の原理」が反映されている。


 次に、大日本帝国憲法は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第1条)と定めている。天壌無窮の神勅により、万世一系の天皇に統治権があることを改めて確認し、これを明記しているわけだ。

 天皇に統治の実権があるかのような表現になっているが、後述するように、実際には、天皇は、国を治め束ねる権威を有するだけで、統治の実権はない。


 現在の憲法学者の中には、天皇の地位が神の意思によるなんて、神権主義的で、非科学的だとか、反民主的だとか、罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせている者がいるが、上述したように、2600年以上の長きにわたって、日本は、天照大神の子孫たる天皇が治める国だと考えられてきたし、上諭に「國家統治ノ大權(たいけん)ハ朕(ちん)カ之(これ)ヲ祖宗(そそう)ニ承(う)ケテ之ヲ子孫ニ傳(つた)フル所ナリ」とあるように、天皇が統治権を代々相続してきたのは事実なのであって、何人もこの事実を否定することができないからこそ、レッテル貼りをして印象操作をしているのだろう。実に卑劣な連中だ。

 

 また、憲法学者の中には、この第1条等を根拠に、天皇主権だったと主張する者がいる。「主権」とは何かについては、論者によりその意味するところは区々だから、このような曖昧な言葉を用いないのが立法技術上賢明だ。それ故、大日本帝国憲法は、「主権」という言葉を一切用いていない。

 この点、起草者の一人である井上毅先生も、次のように述べている(「憲法逐條意見(第一)」・井上毅傳記編纂委員會編『井上毅傳資料篇 第一』(國學院大學図書館・ 昭和41年)569頁〜570頁。下線:久保)。下線部分は、達見だと思う。

 「主権に属する諸般の権理と云える成語は洋語には熟して訳語には熟せず且近来の学者に主権なる字は交際法の語にして之を憲法学に用いたるは仏国に於て主権在人民と謂える謬見に起因し終に又主権在君主と謂える何等の意義もなき学説上の熟字を慣成したるなりと謂える者あり...今改めて 「国の大権」とか「万揆の大権」とか「諸般の大権」とか我が国民の普通の感覚に容易に了解せしむべき熟字を用い、而して洋訳には複称にて「スターツ・レプト」(ゼネラルパウヲワ)とか「シュプレム・パウヲワ・オブ・ ステト」と云様の字を用いては如何」

 そもそも君主と国民が支配者と被支配者という敵対関係にある西洋における君主主権か、しからずんば国民主権かというデカルト的二元論で、日本の「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」及び「天民共治の原理」を正しく捉え、表現することができないから、「主権」という言葉を用いなかったのは極めて適切だった。


 そして、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)シ此(こ)ノ憲法ノ条規ニ依(よ)リ之(これ)ヲ行フ」(第4条)と定めて、天皇が対外的に国を代表する地位にあり、天皇が統治権を統合掌握するが、この統治権は、この成文憲法に従って行使すること(立憲主義)を明らかにしている。

 この点、起草者の一人である伊藤博文公は、枢密院における審議で、「統治権は、元来無限なるものなれども、此憲法を以て之を制限する以上は、其の範囲内に於て之を施行するの意にして、統治権はあれども之を濫りに使用せざることを示すものなり。故に、『此ノ憲法ノ条規ニ依リ』云々の文字なき時は、憲法政治にあらず、無限専制の政体なり。」と述べている(清水伸著『明治憲法制定史(下)』(原書房・昭和48年)164頁〜167頁)。

 西洋の場合は、国王や大統領などが好き勝手なことができないように国民がこれを縛るものが憲法なのだが、日本の場合は、天皇が自らが統治権を憲法に従って行使すると御身に厳しい義務を課したものが憲法なのだ。上諭に「朕及朕カ子孫ハ將來(しょうらい)此(こ)ノ憲法ノ條章ニ循(したが)ヒ之(これ)ヲ行フコトヲ愆(あやま)ラサルヘシ」とあるように、明治天皇ご自身と子孫を戒めておられるのもそのためだ。

 憲法の条文は抽象的であり、解釈の幅が広いからこそ、天皇が御身に課された義務を守っておられるのかという解釈運用の実態がとても重要になるのだが、大日本帝国憲法制定時から現在に至るまで天皇が国策を決定なさったのは、御前会議の話し合いを経て、国民のために、ポツダム宣言の受諾を決定なさったときだけであって(これは、「天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス」(第13条)とあるように、天皇の権限だった。)、英国の言葉を借りれば、「King reigns, but does not govern.国王は、君臨すれども統治せず」を頑(かたく)なに実践しておられる。

 このように同じ「立憲主義」といっても、西洋と日本では全く趣を異にすることに注意を要する。この違いは、西洋では、君主と国民が血で血を洗う敵対関係にあるのに対して、日本では、天皇と国民が家を同じくする家族であって、一度たりとも敵対関係に立たなかったことに由来する。


 憲法に従って行使するとされる統治権は、具体的にどのように行使されるのかというと、天皇は、帝国議会の協賛(同意・承諾することをいう。)の下に立法権を行い(第5条)、国務大臣の輔弼(ほひつ。助言することをいう。)を受けて行政権を行い(第55条第1項)、司法権も天皇の名において法律により裁判所が行うものとされていた(第57条第1項)。天皇は、陸海軍を統帥(とうすい。統率することをいう。)するが(第11条)、陸軍大臣及び海軍大臣の輔弼が必要だ(第55条第1項)。

 つまり、天皇は、独断で統治権を行使することができないのであって、議会、内閣ないし国務大臣、裁判所がそれぞれ内部で話し合って決めた通りに天皇がこれを行使しなければならないわけだから、天皇に統治権があるといっても、それは権威にすぎず、まさに「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」及び「天民共治の原理」が条文に反映されていると言える。

 大政奉還により統治の権力が天皇に戻ったのに、天皇のご意志により、憲法慣習法である「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」に従って、再び天皇は統治の権威のみを担い、統治の権力は、「天民共治の原理」に従って皆で話し合って決めることになったわけだ。


 この点に関し、第一に槍玉に挙げられるのが天皇の法律裁可権だ。「天皇ハ法律ヲ裁可シ其(そ)ノ公布及執行ヲ命ス」(第6条)とあるから、議会が議決しただけでは法律は成立せず、天皇の裁可が必要であり、議会の権限は極めて限定されていたと批判されているのだが、天皇が法律の裁可を拒否したことは一度もないし、拒否してはならないものとして運用されていた。

 第二に槍玉に挙げられているのが天皇の緊急勅令と独立命令だ。現在、日本国憲法を改正して緊急事態条項を設けるべきだという議論がなされている。緊急勅令と独立命令がまさにこれに相当するものの一つだ。天皇は、議会の協賛なしに緊急勅令や独立命令の形式で立法ができたので、議会の権限が極めて限定されていたと批判されている。

 しかし、天皇は、勝手気ままに緊急勅令や独立命令を発することができたわけではない。天皇は、議会閉会中、緊急を要する事態に対して、次の会期で議会の承認を求めることを前提に、枢密院(第56条)の判断を経て、法律と同一の効力をもつ緊急勅令を発することができたにすぎない(第8条)。しかも、天皇が独断で緊急勅令を発せられたことは、一度たりともない。

 また、天皇は、法律の委任に基づかずに、「法律ヲ執行スル爲ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル爲ニ」必要な命令を発することができたが、「但シ命令ヲ以テ法律ヲ變更スルコトヲ得ス」と定められていたので(第9条)、天皇の独立命令は、上位法たる法律に劣る下位法であり、法律で変更可能なものにすぎなかったし、天皇が独断で独立命令を発せられたことはない。

 

 このように天皇には、国を束ねるための権威としての統治権があっただけで、権力はなかったのであって、現在の憲法学者が主張するような天皇主権(君主主権)だったというのは謬見(びゅうけん)だということが明らかになったと思う。


 最後に、現在の憲法学者の中には、大日本帝国憲法が定める国民の権利について、人間が生まれながらに有している人権ではなく、天皇が臣民に恩恵として与えたもの(臣民権)であって、「法律の範囲内において」保障されたものにすぎないと説明する者がいる。

 天皇が恩恵として与えたものである以上、天皇がこれを奪うことは勝手だし、法律で定めさえすれば、無制限に制約することができるかの如き説明だ。

 しかし、上諭には、「朕(ちん)ハ我カ臣民ノ權利及財産ノ安全ヲ貴重(きちょう。貴び重んじること。)シ及之(これ)ヲ保護シ此(この)ノ憲法及法律ノ範圍内ニ於(おい)テ其(そ)ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス」とある。

 すなわち、明治天皇は、大日本帝国憲法制定前から元々国民が持っている権利(国民権)を貴び重んじ、これを保護し、(権利同士の矛盾衝突を公平に調整するために、法律等で制約することがあるけれども、)憲法及び法律の範囲内で最大限に保障すると宣言しておられるのだ。

 それ故、かかる憲法学者の説明は、大日本帝国憲法が保障したのは人権ではないという点は正しいが、それ以外の部分は、上諭を無視する偏見に満ちた謬見だ。一体憲法のどこに天皇が臣民に恩恵として権利を与えたと書いてあるというのか!学者の名を騙(かた)るデマゴギーめ、馬鹿も休み休み言え。

 以前、上記にリンクを貼ったブログで人権の危険性について述べたが、大日本帝国憲法が極めて危険な人権を定めなかったことは、実に賢明な判断だった。


 以上、大変大雑把ではあるが、大日本帝国憲法は、当時の世界情勢(世界中のほとんどの地域が欧米列強諸国の植民地になっており、日本の独立が危ぶまれていた。)や国内事情(人心世情が安定せず、他方で財政難なのに急速に近代化を図らねばならなかった。)を踏まえ、当時の国民が理解しやすいような表現を用いつつ、世界に通用するような形で、実質的意味の憲法である「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」及び「天民共治の原理」を可能な限り反映させようとしていることが明らかになったと思う。


 大日本帝国憲法の起草者の一人である金子堅太郎先生が、「我が日本の憲法は我が日本に二千五百有余年建国以来何等変わること無く継続して居る国体に基いて出来たものでありまして、決して外国の模倣でも何でもない。我が国に於て始めて為し得る我が国独自のものであります。…外国の憲法を説明する理論で、同じやうに日本の憲法を解釈しやうとすることは大きな間違ひである」と述べておられる通りだ(金子堅太郎講演『帝国憲法制定の精神』3頁)。


6 日本国憲法

 次に、実質的意味の憲法たる「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」及び「天民共治の原理」が日本国憲法にどのように反映されているかを簡単に見てみよう。


 まず、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされ(第1条)、「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」がより明確になったと言える。

 ただ、「皇位は、世襲のもの」であり(第2条)、「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」とされ(第3条)、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(第4条第1項)とされた部分は、大日本帝国憲法の規定や運用と実質的にはほとんど異なるところはない。

 

 次に、「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関であ」り(第41条)、国会は国民代表機関とされたが(第43条)、「憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること」(第7条第1号)、「国会を召集すること」(同条第2号)、「衆議院を解散すること」(同条第3号)及び「国会議員の総選挙の施行を公示すること」(同条第4号)は、天皇が「内閣の助言と承認により国民のために」行うこととされている(第7条柱書き)。

 また、「行政権は、内閣に属する」とされたが(第65条)、天皇が「国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する」し(第6条第1項)、「国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること」(第7条第5号)は、天皇が「内閣の助言と承認により国民のために」行うこととされている(第7条柱書き)。

 さらに、「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」とされたが(第76条第1項)、天皇が「内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する」とされている(第6条第2項)。

 このように見てくると、立法・行政・司法について、「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」と「天民共治の原理」がより明確化されたと言えるだろう。


 ただ、残念なことに「基本的人権」という魔語が3回登場するが(第11条、第97条)、第三章の表題が「国民の権利及び義務」とあり、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」とされ(第11条)、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」とされているので(第97条)、解釈によって先祖から相続し子孫へ継承すべき国民権と読み替えることが可能だろう。


 そして、大日本帝国憲法には定めがなかった議院内閣制、参議院、違憲審査制、地方自治制が新設されている。

 すなわち、戦前の内閣は、憲法上の制度ではなく、内閣官制(明治二十二年勅令百三十五号)で定められた制度にすぎなかったが、日本国憲法で議院内閣制として位置付けられたのは(第65条、第6条第1項、第66条、第68条)、民意を行政に反映させるためだし、また、貴族院を廃止して民選の参議院を創設したのも、民意を国政により広く反映させるためだ。裁判所に違憲審査権が与えられたのは(第81条)、国民権を守るためだし、また、第八章で地方自治が制度として定められたのは、国民権を守り、民主政を拡充させるためだ。

 その意味で、これらの制度は、「天民共治の原理」をより徹底させるものだと言える。


 この点で問題となるのは、日本国憲法が国民主権を定めている点だ(前文、第1条)。

 確かに、日本国憲法には、「ここに主権が国民に存する」(前文)、「主権の存する日本国民」(第1条)とある。

 しかし、それは、日本国憲法が、貴族院と枢密院を廃止して、民選の参議院を設けていること(第42条、第43条)、最高裁判所裁判官の国民審査(第79条第2項・第3項)、憲法改正の国民投票(第96条第1項)、住民自治(第92条)、地方特別法の住民投票(第95条)を認めていること、すなわち時の為政者が国民になったことを一言で表し、民主政をより徹底させる旨の表現にすぎず、決して西洋における「君主主権」と対立する概念である「国民主権」を意味するものではないと考えられる。

 なぜなら、前述したように、日本国憲法は、「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」及び「天民共治の原理」を採っており、「君主主権」か、しからずんば「国民主権」かという二項対立ではこれらの原理を説明できないからだ。

 とすると、「ここに主権が国民に存することを宣言し」(前文)というのは、国民が時の為政者になったので、国政についても国民が話し合って決めることになったと宣言していることになる。

 また、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」(第1条)というのは、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるという天皇の地位(権威)は、古来より日本人が確信してきた慣習法(憲法慣習法)であって、時の為政者となった日本国民も、同様に確信していることを改めて確認的に述べているにすぎない。


 このように日本国憲法と大日本帝国憲法を比べると、陸海軍がなくなるなどの違いはあるが、日本国憲法は、「権威(天皇)と権力(時の為政者)の分離原理」及び「天民共治の原理」をより明確化・徹底化しているだけで、大日本帝国憲法との間に、根本的に大きな違いがないことが分かる。

 敗戦前後の国是は、国体護持だったから、両者に根本的な違いがないのは当然と言えば当然なのだが、国体を護持するために、心ある人々が如何にご苦労なさったかに思いを致すとき、涙を禁じ得ない。


7 日本国憲法制定の法理

 以上より、大日本帝国憲法は、天皇主権を定めていないし、日本国憲法の国民主権も「君主主権」と対立する意味での「国民主権」ではないことが明らかになったと思う。

 従って、天皇主権を定める大日本帝国憲法を国民主権を定める日本国憲法へ全面改正することは、自己否定であり矛盾しているので、法的に許されないのではないかという問題提起自体が間違っているのだ。


 この点、憲法学の通説である宮沢俊義の八月革命説は、次のように主張している。

 すなわち、日本国憲法は、明治憲法第73条の改正規定に基づいて改正されたのだが、それは、便宜上明治憲法第73条によっただけで、ポツダム宣言受諾によって天皇主権が否定されるとともに国民主権が成立し、法的に一種の革命が起き、日本国憲法は、実質的には、明治憲法の改正としてではなく、新たに成立した国民主権に基づいて国民が制定した民定憲法なのだと主張している。


 まず、ポツダム宣言の受諾によって革命が起きたという歴史的事実はない。次に、問題は、宮沢の云う法的な革命が起きたのかどうかだ。

 ポツダム宣言の受諾については、以前このブログで説明したが、昭和20年(1945年)9月2日に東京湾に浮かぶ米戦艦ミズーリ号の甲板で、ポツダム宣言の履行等を定めた「降伏文書」と呼ばれる休戦協定(停戦協定)が調印されたによって、国際法上戦闘が停止しただけであって、我が国と連合国との戦争状態は継続していたが、昭和27年(1952年)4月28日にサンフランシスコ平和条約の発効により、国際法上、連合国(ソ連などの共産主義諸国等を除く。)との戦争状態が終結したのだ。

 休戦協定(停戦協定)を締結した法的効果として、法的な革命が発生するということは、国際法上全く認められていない。赤化された我が国の憲法学会だからこそ、休戦協定(停戦協定)を締結した法的効果として、法的な革命が発生するというトンデモ学説が通用するのだが、海外の学会でこれを主張したら、心底軽蔑され、嘲笑されること請け合いだ。

 そもそも大日本帝国憲法は天皇主権を定めていないし、日本国憲法の国民主権も「君主主権」と対立する意味での「国民主権」ではないから、ポツダム宣言受諾により天皇主権から国民主権への法的な革命が起きようがないのだ。


 この八月革命説の真の狙いは、大日本帝国憲法と日本国憲法との連続性を断絶させ、国民主権の名の下に天皇を廃止させることにある。

 すなわち、明治維新からポツダム宣言受諾に至るまで、実権がない天皇の果たした役割の大きさと、天皇と国民の絆の強さをまざまざと見せつけられた結果、日本で共産革命を実現する上での最大の障害が天皇であることを痛感したことから、天皇を廃止することが政治目標になった。

 昭和天皇の戦争責任を追及したり、A級戦犯を祀っているとして靖国神社を攻撃したり、大日本帝国憲法を「明治憲法」と呼んで過去の遺物扱いするのも、その一環として行われている情報操作だ。

 天皇は「主権の存する日本国民の総意に基く」から(第1条)、主権者たる国民の総意により天皇を廃止することができるのだという結論を導くための詭弁が八月革命説なのだ。


 日本国憲法の公布文に「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」とあるように、日本国憲法は、大日本帝国憲法第73条に基づいて改正された欽定憲法(きんていけんぽう)だと素直に解釈するのが正しい。

 欽定憲法というのは、君主が制定した憲法をいう。大日本帝国憲法は、欽定憲法であり、その改正法である日本国憲法も当然に欽定憲法だということになる。


 ところが、宮沢俊義をはじめとする憲法学の通説は、八月革命説を前提に、天皇は、「君主」でもなければ、「元首」でもなく、日本国憲法は、国民が制定した民定憲法だと主張している。

 しかし、「日本の常識は、世界の非常識」と言われるように、国際的には、日本国憲法上の天皇は「君主」であり、「元首」だと解されている。

 すなわち、かつては「君主」とは、世襲によって地位に就き、対外的に国を代表し、対内的に統治権を有する者を指したが、現在では、世襲によって地位に就き、形式的であろうと儀礼的であろうと統治権の一部を有すれば「君主」であると解されている。それ故、例えば、天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命するので(第6条第1項)、天皇は「君主」であり、日本は立憲君主国だというのが世界の常識なのだ。

 また、「元首」というのは、対外的に国を代表する地位にある者であって、対外的に国を代表する地位には実質的な権能は不要であって、形式的・儀礼的なものであれば足りる。それ故、形式的・儀礼的な国事行為(第7条)を行う天皇は、外交儀礼上、外国から「元首」として扱われており、実際「元首」として「外国の大使及び公使を接受」(第7条第9号)している。


8 貴重な青春時代を犠牲にする学生たち

 このように憲法学の体系書は、欺瞞に満ちており、これを繰り返し読んで、貴重な青春時代の時間と労力を無駄にしている学生たちが気の毒でならない。

 いくら素直な性格の学生であっても、ただの政治文書にすぎない憲法学の体系書を読んでいたら、様々な疑問が浮かぶはずだが、疑問を心の奥底に押し込めて、書かれている通りに答案を書かなければ、試験に合格しないのだから、精神衛生にも良くないし、素直な学生ほど洗脳されてしまう。

 現代日本において、某国のような洗脳教育が行われている現状に恐怖するのは、私だけではあるまい。


源法律研修所

自治体職員研修の専門機関「源法律研修所」の公式ホームページ