違いがわかる男の悩み

 昭和45年(1970年)から17年間にわたって、20人の文化人を起用したネスカフェのテレビコマーシャルが放送された。

 「ダバダ〜♪」という伊集加代(旧芸名・伊集加代子。アニメ『アルプスの少女ハイジ』の主題歌を歌っている。)の『目覚め』という歌と「違いがわかる男のゴールドブレンド」というナレーションが視聴者を釘付けにした。

 これらのうち、私の印象に強く残っているのは、小説家の遠藤周作が出演しているCMだ。遠藤が日本人でありながらキリスト教徒であることに終生苦悩し続けた作家であることをよく表現しているように思えたからだ。

 私は、小学生から中学生にかけて遠藤の小説やエッセイをよく読んでいた。特に「ぐうたら」シリーズなどのエッセイは、勉強の合間に読んで、クスクス笑って気分転換を図っていた。

 遠藤の悩みと類似した悩みは、洋学を学ぶ者にもあった。キリスト教徒にあらざる日本人が洋学を学ぶことの矛盾だ。 


 この点、幕末・明治の人たちは、割り切っていた。本来別物であるが、洋学においては一体となった形而上学的部分(キリスト教)と形而下学的部分(アリストテレス)を切り離して、邪魔な形而上学的部分を捨て、有用な形而下学的部分のみを受容しようとした。

 同じ洋学であっても、自然科学ではこの切り離しが比較的容易であったが、人文科学や社会科学では容易ではない。そのため知識人の中には、悩んだ末にキリスト教に改宗する者が少なからずいた。


 鳥のさえずりや川のせせらぎなどの音が日本人には声として認識されるのに対して、西洋人には雑音として認識されるように、洋学を学ぶにつれて日本人として大切なものが雑音の如く聞こえてくる。

 「和魂洋才」と言いながらも、いつの間にやら和魂が洋才に侵食されて、侘(わ)び・寂(さ)び、粋(すい)・通(つう)・粋(いき)、ご先祖に見守られている感覚や感謝の気持ち、昔話や民話に流れる純朴さとおおらかさなど、日本人らしい心情が希薄化し、時として義理人情さえも煩わしく思えて、つい西洋人のような考え方をしてしまう。

 イギリスへ留学して神経衰弱(ノイローゼ)になって帰国した夏目漱石が『草枕』で「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに、人の世は住みにくい。」と述べたのも、存外これが原因かも知れぬ。

 古代ローマにおいてすら「よき法律家は悪しき隣人」と言われていたぐらいだから、法解釈学を学ぶ者には、この傾向が強いかも知れぬ。法的三段論法で合憲か違憲か、適法か違法かという結論を導き出すことに慣れすぎて、何事も二進法で考えてしまいがちだからだ。


 最近では、どうやら世間までも、二進法になってきたようで、ネットニュースなどのコメント欄を見ると、二手に分かれて互いに激しく罵り合って殺伐としており、「デジタル社会」とは言い得て妙だ。年を追うごとに息苦しい社会になっているように思うのは気のせいだろうか。引きこもりが全国で115万人も生まれている一因かも知れぬ。


 なんか妙に陰気臭い話になってしまったので、先ほどのCMの話に戻そう。


 このCMの広告代理店の人が遠藤のところへ契約書を持ってきて、契約書の説明ばかりしたそうだ。遠藤は、ギャラがいくらなのかが気になって、我慢し切れずに訊いたら、「これで…」と一番最初の数字だけを言うので、かつて2本のCMに出演した経験から想定した額よりも若干低いから、ちょっぴり不満そうな顔をしたら、「ご不服でしょうか」って言うもんだから、「いちばん上の数字だけじゃわかりませんが…」と答えたら、本当の数字を出したそうだ。

 遠藤は、想定していた額よりも一桁上の数字で、あまりの金額に顔面蒼白になった。遠藤の顔色を見た広告代理店の人が「やっぱりご不服でしょうか」って言うもんだから、「いやいやとんでもない」と答えたそうだ。


 こういう棚からぼたもちみたいな話は、昔から人に話すと壊れると言われているので、遠藤は、人に言っちゃいけないと自分に言い聞かせていたけど、ついに我慢し切れずに、小説家の北杜夫が遊びにきたときに話してしまったそうだ。

 そうしたら、北杜夫の顔がみるみる蒼白くなった。実は、北杜夫が昼寝をしているときに、同じ広告代理店からCMの出演依頼の電話があり、半分寝ぼけていたので、面倒くさいと断ったと言うのだ。そんな額だとは夢にも思わなかった、「ぼくが断ったため遠藤さんのところにいったんだ」と言うし、小説家の吉行淳之介なんか、「そのコーヒー会社に頼んで、きみのあと、ぼくにその話を回してくれ」と言う始末。

 昭和47年(1972年)の大卒初任給は、52,700円。大作家先生たちが色めき立つギャラっていったいいくらだったんだろうね?笑


 このCMは、軽井沢にある遠藤の山小屋と長崎の平戸で撮影された。遠藤が飲んでいるのは、実はコーヒーではなく、お湯。撮影はテストが多く、何回も飲まされて、お腹はダブダブ。おまけにうまそうに飲まなきゃいけないから、大変な仕事だったそうだ。


 遠藤がお腹をダブダブにして完成したこのCMが流れると、遠藤の奥さんと息子さんは、とたんにテレビを消して、CMが終わった頃を見計らってテレビのスイッチを入れたそうだ。

 違いがわかる男の悩みは、キリスト教だけではなかったようだ♪笑

(遠藤周作『狐狸庵うちあけばなし』集英社文庫26頁〜28頁参照)



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