以前、「意志」と「意思」の異同について述べた際に省略したのだが、西洋では自由意志が認められるかどうかを巡って激しい論争が繰り広げられている。その詳細については、数多の書籍が売られているので、そちらへ譲るが、今日は、議論の背景にあるキリスト教の世界観について述べようと思う。
なお、参考文献は、多岐にわたるので、省略する。また、聖書の章句も、文章が長くなるので、一々引用しない。
とても大切なことだが、語弊のある表現や雑な説明であることは百も承知しているけれども、正確さよりも分かり易さを優先させているためであって、決してキリスト教徒の信仰を貶したり、妨げたりすることを意図しているわけではないので、失礼の段は、何卒(なにとぞ)、ご容赦願いたい。
神の国(天国)に住む全知全能の創造主たる神は、自らの命令を忠実に実行する御使として天使を造ったが、天使の中には、神に敵対する罪を犯した天使がいたので(神は、全知全能なのだから、「初めから敵対しないように天使を造ったら?」というツッコミはなし。)、これを悪霊としてこの世に閉じ込めた。この世は、いずれ火で焼かれて消滅することになっている(神は、全知全能なのだから、「悪霊をさっさと消滅させたら?」というツッコミはなし。)。
つまり、この世は、堕天使である悪霊を幽閉する監獄なのだ。この悪霊たちの中で一番強い奴がサタンと呼ばれる悪魔で、堕落天使ルシファー(ルキフェル)とも同一視される。神の子たるイエスがこの世に現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためであって、人間の救済は副次的目的にすぎない。
そして、この監獄の看守役を命じられたのが天使だ。天使は、時々見廻りにやってくる。いわば監獄の牢名主(ろうなぬし)であるサタンは、子分である他の悪霊たちの上に君臨しているが、看守である天使に逆らうことはあっても勝つことはできない。
神は、この世の片隅にエデンの園という楽園を造って、自分の姿に似せてアダムを、その妻としてアダムの肋骨からイヴを造って住まわせた(全知全能の神は、サタンがイヴをそそのかして禁断の木の実を食べさせることを知っているはずなのに、「なぜエデンの園をわざわざサタンを閉じ込めたこの世に造ったのか?」というツッコミはなし。)。
つまり、人間は、神にとっていわば人形のようなものであって、楽園は、何でも揃っているドールハウスだ。人形が持ち主の言う通りに動くように、人間もまた常に神にお伺いを立てて神の言う通りに従う善人として造られている。
神は、この楽園に善悪の知恵の木を植え、その実だけは食べてはならないと人間に命じ、食べたら死ぬだろうと伝えた(食べるなと禁止しても、サタンにそそのかされて人間が食べてしまうことを全知全能の神は分かっていたはずだから、「初めから植えなければいいのに!」というツッコミはなし。)。
肉体を持った人間は、霊的存在であるサタンが見えないので、神に敵対するサタンは、蛇の姿にやつしてイヴを誘惑し禁断の木の実を食べさせ、アダムも食べた結果、人間は、自分で善悪の判断をする自由を獲得すると同時に、肉体的に死ぬ存在になった。
神の命令に従わずに禁断の木の実を食べたことはもちろんだが、それよりも、むしろこれまで何をするにつけても神にお伺いを立てて神の言う通りにしていたのに、自分で善悪の判断をするということは、神にお伺いを立てて神の言う通りにしないということを意味するから、大変罪が重いわけだ。
そこで、神は、怒って、人間を楽園から追放した(失楽園)(神は、全知全能なのだから、こういう結果になることを知っていたはずなのに、「なぜ怒って追放するんだ?」というツッコミはなし。)。
死、病、苦しみ、嘆きから免れ、楽園で日々を喜びに満ちて楽しく暮らしていたアダムとイヴは、楽園を追放され、罪を犯した罰として、悪霊の監獄であるこの世で働かなければならない懲役刑を受け、その子孫も原罪(元の罪、すなわち禁断の木の実を食べた罪)を背負った懲役囚としてこの世で働かなければならないし、女性は産みの苦しみが増やされた(「なぜ先祖の罪を子孫が負わねばならないんだ?」というツッコミはなし。)。
このように人間は、悪霊の監獄であるこの世に悪霊と同じ罪人として幽閉され、牢名主であるサタンの支配下に置かれているけれども、悪霊は、霊的存在なので、地を耕して食料を得る必要はないが、人間は、肉体を持った存在なので、労働によって食料を得なければ死んでしまう。
人間は、禁断の木の実を食べて自分で善悪を判断する自由を得たけれども、元々善人なるが故に、簡単にサタンその他の悪霊にコロッと騙されて罪を犯してしまうのだ。
人間に残された選択肢は、二つある。①監獄であるこの世にあっても、ひたすら唯一の神を信じ、神を賛美し、神に従うか、それとも②サタンに従うかだ。
人間は、肉体と霊とからなっており、肉体は、禁断の木の実を食べたことにより死ぬことになったが、肉体が死んでも、霊は永続すると考えられており、①を選択すれば、この世が火で焼かれて消滅しても、すべての人間の霊はその肉体との一致を取り戻し、つまり復活して、最後の審判で神の国(天国)に入れられ、永遠に光と喜びに満たされる(永遠の至福)。人間には、このような救済が用意されており、これは取りも直さず神の偉大な力を示すためなのだ。
これに対して、②を選択すれば、最後の審判で悪霊とともに地獄の業火で永遠に焼かれて苦しむ。サタンその他の悪霊には、救済が用意されてないから、ますます神を恨み、神に逆らって、人間を悪へ導こうとする。
キリスト教の世界観の骨子は、以上の通りだ。辻褄(つじつま)が合わない所が多々あり(キリスト教によれば、それは人智が遠く及ばない神の深慮によるものだということになる。)、頭のよい宗教家が辻褄が合うように解釈でこれを補っているが、信者ではない我々にとっては瑣末(さまつ)なことであって、ここでは触れない。
この世界観から様々なことが分かる。例えば、先日、ノーベル賞の受賞者が発表されたが、キリスト教徒は、受賞者の「業績」に対して敬意を抱くが、「thank to God/thank God神に感謝します」と言わない受賞者を心の底では信用していない。
この世は、いずれ火に焼かれ、消滅するので、キリスト教徒にとって、この世のことは、無価値とまでは言わないが、二次的な価値しかなく、何よりも大切なのは神の国(天国)に入ることだから、神に感謝せず、世俗のことのみに熱心な人を信用しないからだ。西洋で、日常系アニメが不人気なのはそのためだと言えば、分かり易いだろうか。
我々日本人は、「お蔭様で」という表現をよく用いるが、それは、神仏への感謝とお世話になった人々への感謝が入り混じった感情の表現であって、唯一絶対の神への感謝ではないから、キリスト教徒は、契約や条約など約束したことをきちんと守ろうとする律儀な日本人を一応信頼し、無神論者よりもマシだと思っているけれども、心の底では異教徒である日本人を決して信用していない。
これは政治の世界でも同様であって、キリスト教徒は、ほとんど無意識に①神の側に立つ人か②サタンの側に立つ人かの二分法によって敵味方を判別し、必ずや敵を叩き潰さなければならないと考える。それが神の国(天国)への道だからだ。
例えば、アメリカ大統領などがことさらに「ソ連は悪の帝国だ」、「テロには決して屈しない」・「テロリストとは交渉しない」、「同盟国との協力を一層強化し、緊密に連携して」などとしばしば言明するのは、単に政治的理由からだけではなく、キリスト教徒だからだ。
西洋で、勧善懲悪のロボットアニメや戦隊ヒーローモノが人気なのも、この二分法の思考にマッチするからだ。
また、例えば、我々日本人は、精神的なものと物質的なものに二分して、精神的なものを物質的なものの上位に置くから、金儲けよりも文化芸術学術の方が尊いと考えて、作家、芸術家、学者などを一括りにして「文化人」と呼び、馬鹿馬鹿しいことだが、テレビのコメンテーターとしてそのご高説をありがたく拝聴したり、歌手をアイドル(偶像)と崇めて熱狂したりしている。
これに対して、キリスト教徒は、世俗的なことと聖なることに二分して、聖なることを世俗的なことの上位に置く(『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』等のようなspiritual霊的なアニメが人気を博するのもそのためだ。)。文化芸術学術は、この世のこと(世俗的なこと)で二次的なものにすぎず、聖なることではないから、金儲けに勤しむ人も文化人も、いずれも世俗的なことにのみ熱中する人として同列に扱われ、聖なることに携わる司祭、牧師、伝道師の方がはるかに高い尊敬を集めている。
同様に、ローマ・カトリックによれば、イエスの復活の第一目撃者であるイエスの使徒とその正統な継承者を通してしか神を知ることができないから、人々を導けるのは、第一目撃者である「第一の使徒」ペテロとその正統な継承者であるローマ教皇のみだから、ローマ教皇の方が世俗の国王よりも地位が高いと考えられている。
このような違いを挙げ出したらキリがないので、本題である自由意志の背景に関するお話に入ろう。
キリスト教において、人間の一生は、一回限りであって、決してやり直し(輪廻転生(りんねてんしょう))ができないので(異世界転生アニメが西洋で人気がないのは、そのためだ。)、善悪の判断の自由を有する人間は、自分の選択に責任を負わねばならない。「自由には責任が伴う」というのは、キリスト教の文脈では、本来、このことを意味する。
自分で善悪の判断を行うということは、一瞬、一瞬の選択が永遠の選択(天国か地獄か)につながっているので、最後の審判は、決して遠い先の話ではなく、今この瞬間の自分自身の生き方に直結する身近な問題だということを意味するから(「最後の審判は近い」というのは、この意味だ。)、このことに深く思いを致すならば、悔い改めて神に従うべきだとキリスト教は説くわけだ。
そこで、懺悔(ざんげ)を行って、神に赦(ゆる)しを乞(こ)うわけだ。
この点で、人間と天使は、大きく異なる。我々日本人は、神と人間を仲介して、神の意志を人間に伝える天使の方が人間よりも偉い存在だと思いがちだが、実は、必ずしもそうだとは言い切れないのだ。人間は、自由意志が認められる自由人であって救済の余地があるのに対して、天使は、自由意志が認められない奴隷にすぎず救済の余地がないからだ。
すなわち、人間は、善悪の判断の自由を有するが故に、悔い改めて神に従えば、神により赦され、最後の審判により神の国へ入って永遠の至福を得る可能性があるのに対して、天使は、人間にはない偉大な力を授けられた霊ではあるけれども、所詮(しょせん)は神の御使い、端的に言えば、奴隷であって、自由意志が認められず、自分の判断で行動することができないし、もし過ちを犯せば、悪霊としてこの世に閉じ込められ、いくら悔い改めて神に赦しを乞うても赦されず、最後には地獄の業火に焼かれて永遠に苦しむのだ。
神の子イエスがこの世に現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためだということからも分かるように、奴隷の分際で神に叛逆した堕天使に対する神の怒りは強いのに対し、神は、人間が原罪を犯したことに怒り、人間を楽園から追放し罰を加えたとはいえ、人間に救済を用意しているので、神の怒りは、天使に対するそれに比して弱く、神が自分に似せて造った人間(聖書には、神が天使を自分に似せて造ったとは一切書かれていない。)に対してなお愛着を抱いていることが窺える。
このように人間には、善悪の判断の自由が認められるので、自らの自由意志によって神に従う者こそが最後の審判を経て神の国(天国)に入ることができるのだ。
なぜならば、神は、全知全能なのだから、人間を無理矢理に神に従わせることが可能なのに、あえて強制しないということは、神は、人間が自らの意志によって神に従うことを望んでいると言えるからだ。
このように自由意志を前提に考えるのがキリスト教の伝統的な考え方(カトリシズム)であり、自由意志論は、このような考え方を背景としている。
これに対して、古代ギリシャの時代から、人間の行為を含めてあらゆる事象はなんらかの原因によって予め決まっているという決定論があったが、世界に多大な影響を与えた決定論(予定説)が同じキリスト教の中から生まれたこと(プロテスタンティズム)は、皮肉と言うべきか。
すなわち、善悪の判断の自由を認められた人間が、自らの意志で神に従ったとしても、最後の審判で必ず神の国(天国)へ行けるとは限らない。神の国(天国)へ受け入れるかどうかは、神が決めるからだ。原罪を負った人間は、神の審判に不服を述べることができない。
もし神に従う善人だけが最後の審判で神の国(天国)へ行けるのだとすれば、人間は、みんな神に従って善行を行おうとするだろうが、これは、結局、子供が親の機嫌を取っておもちゃを買わせるが如く、人間が神を利用することに他ならない。
誰を神の国(天国)に入れるかの判断は、人智を超えた神が判断することであって、人間の尺度では決して計り知れないので、善人が救済されないこともあれば、悪人が救済されることもあるだろうし、また、全知全能の神は、神を利用して神の国(天国)へ入ろうとする賢(さか)しらな人間の悪知恵をきっとお見通しのはずだ。
そうだとすれば、神は、全知全能であって、その力は無限大なので、過去・現在・未来もお見通しだから、ある人間が生まれた時に、否、生まれるずっと前から、その人がどのような人生を歩むのか、最後の審判で神の国(天国)に入れるかどうかを予め分かっているはずだ。分かっているというよりも、むしろ神が予め定めているはずだ。
このようにある人間が最後の審判において救済されるかどうかは、人間の自由意志によるのではなく、神によりすでに決められているのだという決定論を予定説という。予定説に従えば、人間の自由意志なんてまやかしにすぎないことになる。
この予定説に従えば、自らの意志で神に従うこと、すなわちキリスト教を信仰することすらも無駄だということになりそうなのだが、神を否定し、神を冒涜(ぼうとく)する人を神が自らの王国である神の国(天国)へ招き入れるはずがないので、救済されるのは、あくまでもキリスト教徒だということになる。
そして、神は、全知全能なのであって、人間の一生を決めるのも神だから、神の国(天国)へ招き入れる人に対しては、きっと神を信じるよう予め定めているはずだ。今、こうして予定説に出会って予定説を信じているということこそがまさに神のお導きによるものなのであって、自分こそが神に選ばれし者なのだと確信することができるのだ!。
神の国(天国)へ行けるかどうかが最大の関心事であるキリスト教徒にとって、これにすぎる喜びはない。そのため、予定説は、燎原(りょうげん)の火の如く、瞬く間に西洋を席巻し、新大陸アメリカにまで普及したわけだ。
以上が、自由意志をめぐる議論の背景だ。自由意志が認められるのかという問題は、大変興味深いし、西洋思想を理解する上で重要だけれども、宗教対立を背景とした西洋人の議論に付き合う義理はない。
私は、自由意志が認められるかというようないくら考えたって分からない問題に思い悩ず、地に足をつけた生き方をすべきだという東洋思想に従おうと思う。
なお、我々日本人にとって、重要なことは、この予定説が近代資本主義、人権思想及び近代民主政の母体となって世界を変えたことだ。
すなわち、金権腐敗したカトリック教会に対する異議申し立てとして生まれたのがプロテスタンティズムであって、プロテスタントは、本来のキリスト教に戻ることを主張した。すなわち、プロテスタントは、「金持ちは、自分の富を頼りにして、神をないがしろにするから、金持ちは不幸だが、貧しい人・飢えている人・虐げられている人は幸福である」という聖書の教えに従い、イエスと十二使徒が清貧だったように、自分たちも質素な生活を営んだ結果、どんどん資本が蓄積した。
資本の蓄積自体は、世界各地で過去幾度となく行われたが、資本主義を生み出すことはなかった。資本主義に不可欠な資本主義の精神が欠けていたからだ。ところが、プロテスタンティズムは、資本主義の精神を生み出したのだ。
すなわち、本来、労働は、原罪に対する罰であって、苦痛以外のなにものでもないから、額に汗してあくせくして働くことは、卑しい奴隷の仕事だと考えられてきたのだが、全知全能の神が人間の一生を予め定めている以上、自分の職業もまた神が定めたもの(天職)だから、一所懸命に働くことこそが神の御心に沿うことになる。怠けたり、手抜きをしたりすると、神の意に背き、自分は救済されないのではないかと不安になるので、真面目に働くことが心の平安をもたらすようになって、勤勉の精神が生まれた。
また、適正な価格でお客が望む商品やサービスを提供することは、イエスが唱えた隣人愛の実践に他ならないので、適正価格による商売の結果、多くの利益を得ることは、自らの隣人愛の大きさとそれが神の意志に沿うことの証しでもあるから、単なる勘や経験ではなく、お客が望む商品やサービスを提供するためには何をなすべきかを合理的に考え、実践するという目的合理性の精神が生まれた。
このようにプロテスタントは、蓄積した資本を元手に、勤勉の精神と目的合理性の精神(資本主義の精神)に基づいて、勤勉に働き、適正な価格でお客が望む商品やサービスを提供して利益を上げたことが近代資本主義を生んだのだ。
また、ローマ教皇、国王、領主は、様々な特権を有する偉い人だと思われてきた。しかし、神の意志に沿うよう一所懸命に働くプロテスタントは、常に神のことが頭を離れないので、神から見たら、ローマ教皇も国王も領主も、自分と同じく原罪を背負った罪人なのに特権を有するのはおかしいではないかということに気がついたのだ。その結果、神の下では人間は平等だと考えるようになった。ここから人権思想や近代民主政が生まれてくるわけだ。
詳しくは、マックス・ヴェーバー著/大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)をご覧いただきたい。個人的には面白い本だと思っているが、多くの学者が一生をかけて読み解いているぐらいの本だから、初めて読む際には、「訳者解説」を先に読んだ方が理解しやすいと思う。
一度、このブログを書き上げて、アップしたはずのに、たまたまWi-fiが途切れたようで、全てのデータが消えてしまったため、もう一度、書き直さなければならなかった。。。
同じことを書いていたら、頭が腐ってきて疲れたので、ここらで切り上げることにする。
みなさんも、ブログを書くときは、こまめに保存しましょう。
気分転換に、EurythmicsのThere Must Be An Angel(1985年)をどうぞ♪
たまにCMに用いられるので、お若い方も一度は聴いたことがあるかも知れない。
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