前回、夕暮れを意味する「たそがれ」(「誰そ彼」、「黄昏」)について述べた。
「たそがれ」は、空に夕焼けの赤みが残っている状態を指すが、夕焼けが失われて藍色の空が広がり始めると、「おおまがとき」(大禍時)と呼ばれる。
ぴったりの写真をネットで探したのだが、見つからなかったので、これに近い写真のリンクを貼っておく。
夕方の薄暗くなる時刻は、昼の世界(現世(うつしよ))と夜の世界(常世・常夜(とこよ))の変わり目に当たる。
常世・常夜は、死後の世界だから、夕方の薄暗くなる時刻には、「まがまがしい」(悪いことが起こりそうだ、不吉だ、好ましくないという意味。)ことが起こりそうで、不気味な感じがする。
実際、日が暮れると、山賊、追い剥ぎ、人攫(さら)い、獣に遭ったり、転(こ)けて怪我をしたりする可能性がある。
そこで、先人は、夕方の薄暗くなる時刻を「おおまがとき」、大きなわざわいが起こる時刻と呼んで注意喚起したのだろう。
時代を経ると、魔物に逢う時刻だということで、「逢魔時」(おうまがとき)とも呼ばれるようになった。魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する時刻だと子供たちに言ってきかせたのだろう。
「おおまがどき」の「まが」も、「まがまがしい」の「まが」も、「まがる」(曲がる)に由来し、「よくないこと。悪いこと。わざわい。」という意味なのだが、興味深いことに英語と発想が似ているのだ。
すなわち、英語rightの元々の意味は、「垂直に立てる」・「真っ直ぐにする」という動詞の過去分詞形であって、そこから転じて「適切な」・「正しい」という形容詞になった。
これに対して、「間違った」・「不適切な」・「不正な」という意味の英語wrongは、「wr」という語からできており、「wr」には「曲げる」という意味があるから、wrongの語源は、「曲がっている」なのだ。
支那(シナ。chinaの地理的呼称。)では、木や竹で作ったまげもの細工の形から、曲げる、曲がるという意味の漢字「曲」が生まれた。
支那では、同じまげるであっても、道理や法をまげる場合には、木をまげるという意味の「枉」(おう)を用いる。
ど素人の考えにすぎないのだが、「曲」は、もともと曲げやすいように木や竹を薄く加工した上で曲げるのであって、曲げること自体には悪い・間違っているという価値判断が入っていないのに対して、「枉」は、生木を無理矢理に曲げるから、無理矢理に道理や法を曲げる場合には、「枉」を用いるのではなかろうか。
このように「まげる」という言葉は、日英支で似たような意味を持っている点で、大変興味深い。
最後に、タイトルの「枉法徇私」(おうほうじゅんし。法を抂(ま)げて私(し)に徇(した)がう。)とは、「法を悪用して、私利私欲にはしること。また、正しいきまりを曲げて、わがまま勝手に振る舞うこと。」をいう( 『新明解四字熟語辞典』三省堂)。
0コメント