1 言葉は難しい
先日、スマホのニュースアプリで、デーブ・スペクターが、「夫を逆さにすると¥になる」、「人の為と書くと偽になる」と述べた旨の記事を読んだ。
なぜ「円」の表記が「YEN」なのかについては、以前、このブログで述べた。
ドル記号$を見習って、YENを¥という記号で表したのであって、決して夫を逆さにしたわけではない(笑)。
デーブ・スペクターは、ごく稀に面白いジョークを言うものだ。
これに対して、「人の為と書くと偽になる」というのは、本当だ。「嘘から出た実(まこと)」ならぬ、ジョークから出た実かな?
「偽」は、「人と、爲(ヰ)→(グヰ)(する、ため)とから成り、人為、ひいて、つくりごと、「いつわる」意を表す」(『角川新字源』)。
この記事を読んで、思い出したことがある。
昭和54年(1979年)、TBSの大人気テレビドラマ『3年B組金八先生』において、武田鉄矢演じる金八先生が生徒たちに「人という字は、人と人とが支え合っている姿を表したもの」だと教えたため、世間では今でもこれが信じられているようだが、真っ赤な嘘だ。
我が家ではテレビは、1日1時間、夜8時までというルールがあったため、リアルタイムでこのドラマを見られなかったので、翌年に夕方の再放送で見たのだが、ちょっと辞書を引けば分かるのに、よくもまあこんな白々しい嘘を放送するものだと呆れたことを覚えている。
「人」という漢字は、「人が立って身体を屈伸させるさまを横から見た形にかたどり、「ひと」の意を表す」(『角川新字源』)。
武田鉄矢自身も長年「人という字は、人と人とが支え合っている姿を表したもの」だと信じていたそうだが(ちなみに、武田鉄矢は、名誉漢字教育士(立命館大学)なのだそうだ。なんの冗談かと思ったら、本当だった!苦笑)、嘘をついていたことを認めた。
悪いのは、武田鉄矢ではなく、嘘の台詞を書いた脚本家などの番組制作サイドなのだが、TBSが間違いを認めて謝罪したという話を聞いたことがない。
この点で、武田鉄矢は、TBSよりも誠実だ。
<追記>
「人という字は、人と人とが支え合っている姿を表したもの」という台詞は、武田鉄矢のアドリブだそうだ。脚本家にお詫びして、訂正します。
「武田ー 略・・・金八先生のパート3か4の頃、ちょっとウケた授業がありましてね。それは金八先生が黒板に漢字を書いて、字源を授ける…名場面と呼ばれる、アドリブのシーンなんですけどね。
加地 ー アドリブとはすごいですね。
武田 ー いやいや。「人」という字は支え合って生きているんだよというと、(生徒役の)子ども達もアドリブでぶつけてポカーンとして聞いている。スタッフも、今のはいい話ですねという。いろんなお褒めの言葉をいただいて。・・・略」
2 愛国心の由来
さて、ロシアによるウクライナ侵略戦争がきっかけで、日本人の愛国心が問われている。
下記の記事によると、「国のために戦いますか?」という問いに対して、日本人の「はい」率は、世界最低の13%だそうだ。
そこで、日本で誤解されがちな愛国心について述べようと思う。
そもそも「愛国」という言葉は、音読みなので、漢語なのだろうか、それとも日本語(和語)なのだろうか。
支那の古典には、例えば、道德真經註の「愛國治民」(国を愛し民を治める)のように、「国を愛す」という表現が出てくるが、「愛」と「国」を連結させた熟語として用いられているわけではなく、しかもそれはあくまでも君主が国を愛するという意味にすぎない。
また、『日本書紀』巻第三十 持統天皇紀に、「朕、嘉厥尊朝愛國賣己顯忠」(朕(ちん)、厥(そ)の朝(ちょう)を尊び國を愛(おも)ひて、己を売りて忠を顕(あらわ)すことを嘉(よろこ)ぶ)とある。私は、おまえが朝廷を尊び国を思い、己を売ってまで、忠誠を示したことを喜ぶという意味だ。
ここにいう「愛國」も、「愛」と「国」を連結させた熟語として用いられているわけではなく、國を愛(おも)うこと、すなわち故郷を懐かしむというような意味にすぎない。
このように考えると、愛国心にいう「愛国」という言葉は、元々、漢語でもなければ、日本語(和語)でもないのではないかという疑問が生じたわけだ。
そこで、調べてみたら、山内育男「『愛国』という語」(参考書誌研究第31号/1986.3)がこの点について詳しく検討しており、結局、「patriotismに該当する「愛国」という語は、翻訳語として、と言うよりはむしろ翻訳語の意識なしに、日本人によって創作され、後に中国人にも受容された字音語であろうとは、相当の確度をもって推定してよろしい」と結論づけている。
私の感が当たったわけだ。エヘン!笑
さらに調べてみると、上掲・山内論文を遡ること95年も前に、「愛国」という言葉が、元々、漢語でもなければ、日本語でもなく、patriotismの翻訳語として日本で作られた言葉だと明言している学者がいた。上には上がいるものだ。
すなわち、『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)によれば、「明治時代の学者西村茂樹は『尊王愛国論』(1891)のなかで、「現今本邦にて用ひる愛国の義は支那(しな)より出(いで)たるに非(あら)ずして、西洋諸国に言ふ所のパトリオチズムを訳したるものなり……本邦及び支那の古典を閲するに、西人の称するが如(ごと)き愛国の義なく……」と書いている」そうだ。
3 patriotismの意味
そうすると、「愛国」という翻訳語の元になったpatriotismの意味が気になる。
例えば、『Collins』によると、「Patriotism is love for your country and loyalty towards it.」とある。つまり、patriotismとは、あなたの国を愛することとそれ(国)に対する忠誠を意味する。
また、『Oxford Learner's Dictionaries』によると、「love of your country and the desire to defend it」とある。あなたの国を愛することとそれ(国)を守りたいという願望を意味する。
つまり、patriotismというのは、単に国民が国を愛するにとどまらず、それを基礎として、国への忠誠心と国を守りたいと強く願う国防意識が渾然一体となった感情・主義を意味するわけだ。
アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が「国が自分のために何をしてくれたかではなく、自分は国のために 何をすべきかと問え」と言ったように、patriotismは、自分の国を愛することというよりも、むしろそれを当然の前提として、自分の国のために役立とうとする心と行動に力点が置かれた言葉なのだ。
それ故、『世界大百科事典 第2版』(平凡社)は、「愛国心とは,人が自分の帰属する親密な共同体,地域,社会に対して抱く愛着や忠誠の意識と行動である」と定義づけている。
『デジタル大辞泉』(小学館)も、「自分の国を愛し、国の名誉・存続などのために行動しようとする心。祖国愛。」と定義している。
このように見てくると、patriotismを「愛国心」と翻訳すると、国への忠誠心と国防意識という大切な部分がすっぽりと抜け落ちてしまう可能性があるので、「愛国心」は、不適切な訳だと言えよう。「忠誠心」又は端的に「忠誠義務」とでも訳した方が良かったと思う。
左翼御用達の『広辞苑 第六版』(岩波書店)は、「愛国心」を「自分の国を愛する心」と定義して、国への忠誠心と国防意識を捨象している。日本人に国への忠誠心と国防意識を持たせたくないのだろう。『広辞苑』が政治的に偏向しており、学術的に使えないと言われる所以の一つだ。
4 愛国心教育は、危険なのか?
西洋では、否、日本以外の諸外国では、このようなpatriotismに基づく教育が盛んに行われている。
例えば、アメリカ合衆国では、学校の教室に星条旗が掲げられ、生徒たちが自発的にThe American's Creedアメリカ人の信条を読み上げている。
文末の「私は、国を愛し、憲法を支持し、法律を遵守し、国旗を尊重し、すべての敵から国を守ることが私の国への義務であると信じています。」という部分がまさにpatriotismだ。
The American's Creed by William Tyler Page
I believe in the United States of America as a government of the people, by the people, for the people; whose just powers are derived from the consent of the governed, a democracy in a republic, a sovereign Nation of many sovereign States; a perfect union, one and inseparable; established upon those principles of freedom, equality, justice, and humanity for which American patriots sacrificed their lives and fortunes.
I therefore believe it is my duty to my country to love it, to support its Constitution, to obey its laws, to respect its flag, and to defend it against all enemies.
–Written 1917, accepted by the United States House of Representatives on April 3, 1918.
諸外国の愛国心教育については、批判的な立場から様々な研究・報告がなされているので、そちらに譲るが、日本では、「愛国心教育は危険だ!」という理由で、国への忠誠心や国防意識の醸成はもちろんのこと、自分の国を愛することすら教えることが危険視されている。「日本の常識は、世界の非常識」と言われるが、これもまさにそうだ。
前述した国のために戦うと答えた日本人が世界最低の13%だったことは、日本の反日的学校教育の輝かしい成果だと言えよう。
日本において、愛国心教育が危険視される理由の一つは、patriotismがしばしばnationalismと混同されているからだが、両者は異なる。
この点、アメリカの雑誌『ライフ』で、フランスのシャルル・ド・ゴール大統領は、エスプリを効かせて、“Patriotism is when love of your own people comes first: nationalism, when hate for people other than your own comes first”と述べている(Life, May 9, 1969 )。
パトリオティズム(愛国心)は、初めに自国民を愛する心あり、ナショナリズム(国粋主義)は、初めに他国民を憎む心あり。
左翼は、意図的に混同して、patriotismを危険視するから、始末が悪い。
また、GHQの占領政策の一環として行われたWar Guilt Information Programウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラムが愛国心教育を妨げている。
GHQによって世間に流布された歴史観、すなわち「狂信的な軍国主義者・国粋主義者である政治家や軍部が始めた誤った国家の戦争に国民が巻き込まれた。国民は、国家の犠牲者であり、アメリカがそれを解放したのだ。」という歴史観の影響力は、凄まじく、戦後77年経った今でも、国民の思考を拘束し続けている。
そのため、岩波文化人などの左翼は、この歴史観に仮託して、国家が愛国心教育を行うと、再び軍国主義・国粋主義が台頭し、誤った国家の戦争に国民が巻き込まれて、国民が国家の犠牲者になると国民を恫喝し続けている。
しかし、一部の政治家や軍部が戦争を行い、一般国民は戦争の犠牲者だというロジックは、まるで中世のようであって、荒唐無稽(こうとうむけい)だ。中世においては、戦争は、王侯貴族が行うものであって、一般庶民は、戦争の犠牲者だと言えるが、近代国家の構成員は、国民であって、国民と無関係に国家が存在しているわけではないから、国家の戦争は、同時に国民の戦争でもある。国民が国家の戦争の犠牲者だというのは、国民の主体性を否定するものなのだ。
ましてや戦後は国民主権になったのだから、国民自らが主体的に国家のために役立とうと思い、行動すること(愛国心)を否定することは、国民主権それ自体を否定することにつながる。
この点、ロシアによるウクライナ侵略戦争が始まった当初、ワイドショーのコメンテーターを務める弁護士がしたり顔で、「ウクライナ政府は早々に降伏すべきだ」、「国家の戦争で市民が犠牲になるべきではない」とお為ごかしに述べていた。
語るに落ちるだ。コイツも左翼と同じロジックを用いている。根っこの部分で同じ穴の狢(むじな)だ。
この手の連中は、外国による侵略から日本を守る気なんてさらさらなく、真っ先に白旗を揚げて敵に尻尾を振るだろう。否、真っ先に国外へ敵前逃亡し、安全な外国から「日本政府は早々に降伏すべきだ」、「国家の戦争で市民が犠牲になるべきではない」とお為ごかしに述べることだろう。
5 国民とは何か
惜しむらくは、敗戦後、フィヒテやルナンが日本に現れず、GHQ史観を払拭することができなかったことだ。
プロイセンの哲学者フィヒテは、ナポレオンに占領されたプロイセンの首都ベルリンの学士院において、1807年12月から翌年の3月まで連続14回の講演を行って、ドイツ国民を鼓舞し、ドイツ国民に多大な感動を与えた(大津康訳『獨逸國民に告ぐ』岩波文庫)。
その目的は、「打ち砕かれた人々の間に勇氣と希望とを齎し、深き悲しみの中に喜びを喧傳し、大なる窮迫の時機を易々と穏かに通過せしめようとする」ことにある(同書23頁)。
フィヒテによれば、ドイツ人はゲルマン民族の種族であり、ドイツ人と他のゲルマン民族との違いについて、「獨逸人は本来の國語を維持して之を發達せしめ、他の諸族は外國語を採用してそれを自己の流儀に従つて漸次改造して行つた」と述べている(同書58頁)。ここにいう「外國語」は、ラテン語だ。
フィヒテは、ドイツ文化が優秀であり、これを向上するためには、教育制度を抜本的に改革すべきであり、これこそがドイツ国民の生存を図る唯一の道だと述べ、具体的には、青少年への祖国愛を基にした道徳的革新が重要だと説いた。ここにいう祖国愛は、patriotismだ。
これが後に、ゲルマン民族こそが純粋なアーリア人種であり支配人種なのだというナチス・ドイツの人種主義・反ユダヤ主義へとつながるのだが、フィヒテの講演は、敗戦に打ちひしがれたドイツ国民を奮い立たせたことは間違いない。
このようにフィヒテは、血統(ゲルマン民族)や言語(ドイツ語)に基づく有機的な一体性を持つ存在として国民を捉えるわけだが、この考え方は、日本に当てはめやすい。
しかし、国籍離脱の自由が保障され、帰化が認められている以上、日本においてすらこの考え方を維持することはできないし、いわんや多民族国家においてをや。
フィヒテと対照的なのは、ルナンだ。
『イエスの生涯』(津田穣訳『イエス伝』岩波文庫)で有名なフランスの宗教史家エルネスト・ルナンが1882年3月にパリで行った講演は、普仏戦争に敗北して打ちひしがれたフランス人の国民的一体感を呼び覚ました(長谷川一年訳『国民とは何か』講談社学術文庫)。
ルナンは、国民を作るのは、血統・言語・宗教・利害・地理ではないとして、暗にフィヒテを批判しつつ、「国民とは魂であり、精神的原理です。本当は一つである二つのものが、この魂、この精神的原理を構成しています。一つは過去に、もう一つは現在にあります。一方は豊かな記憶の遺産の共有であり、他方は現在の同意、ともに生きたいという願望、共同で受け取った遺産を活用し続けようとする意志です。」と述べている(同書34頁)。
すなわち、①過去の記憶(歴史)の共有:人間は、行き当たりばったりでつくられるものではなく、個人も国民も、祖先の長きにわたる過去の努力と犠牲と献身の賜物であって、偉人と栄光に満ちた英雄的過去こそが国民の観念の拠って立つ社会的資本(遺産)なのだ。さらなる偉業を成し遂げようとすることが国民であることの必要不可欠の条件だという。そして、国民的記憶として大きな悲しみは、勝利よりも価値があると述べている。それは、義務を課し、共通の努力を命じるからだ。
②犠牲を払ってでも共同生活を続けていくという意志:個人の存在が生命の絶えざる肯定であるのと同じように、「国民の存在は日々の人民投票」である(同書36頁)。法的、政治的に共同生活を続けていくことに同意した個人の自由意志によって国民が形成されるわけだ。
③国民という道徳意識:「健全な精神と熱い心をそなえた大きな人間集団が、国民と呼ばれる道徳意識を作り出します。この道徳意識が、共同体のために個を放棄することが求める数々の犠牲によってその力を示しているかぎり、国民は正当なものであり、存在する権利があります。」(同書38頁)と述べている。国民がpatriotismをもつかぎり国民が存続するわけだ。
フィヒテにせよルナンにせよ、様々な批判に晒されているが、国への忠誠心と国防意識を伴うpatriotismこそが国民を国民たらしめる必要不可欠な要件だという点については、日本を除き、世界中で共通認識が形成されていると言っても過言ではない。
ところが、平成18年(2006年)、第1次安倍内閣の下で、教育基本法が全面改正されて、第2条第5号が盛り込まれたため、マスコミから愛国心教育は危険だと叩かれまくったのだが、第2条第5号の条文をよく読んでもらいたい。国への忠誠心と国防意識というpatriotismの大切な部分がすっぽりと抜け落ちている。
いったいいつになったらpatriotismが正しく理解されるのだろうか。
cf.教育基本法(平成十八年法律第百二十号)
(教育の目標)
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
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