昨日は、お盆休み初日なので、のんびりとコーヒー片手にテレビをつけたら、ワイドショーが政治と宗教の話題を取り上げていた。
しばらく辛抱して見ていたが、コメンテーターと呼ばれる人々の床屋談義を聞いていると、イライラしてきて、我慢しきれず、テレビのスイッチを切った。
凡百(ぼんぴゃく)のコメンテーターのコメントを聞いて、時間と電気を浪費するよりも、1689年のジョン・ロック『寛容についての書簡』(中公バックス『世界の名著32 ロック ヒューム』中央公論社)を読む方がはるかに有益だ。
コメンテーターは、「〜の問題についてそろそろ真剣に議論しなければならない時期が来ているのではないでしょうか。」と馬鹿の一つ覚えのように言うけれども(こんなコメントをするだけで生活できるなんて、楽な仕事だ。)、こと政治と宗教の問題については、333年前に西洋的文脈においてほぼ決着がついているからだ。
1 ジョン・ロックの勇気ある主張
ジョン・ロックの議論は、多岐に亘っているが、主な主張を要約すれば、次の3つになろうか。
① 政治の問題と宗教の問題は、明確に区別されなければならない
「私はなによりも政治の問題と宗教の問題とを区別し、その両者の間に、正しい境界線を設けることが必要であると思うのです。これをしなければ、一方で人間の魂のことに関心を持つ人々と、他方で国家に関心を抱いている人々、少なくともそういうふうに言っている人々相互の間に、絶えず起こってくる争いに結着をつけることはできないでしょう。」(同書353頁)
② 政治は、世俗的事柄のみにかかわり、宗教は、魂の救済にのみかかわるのであって、政治を担当する国家と宗教を担当する教会とは区別され、分離されなければならない
「国家(コモンウエルス)とは、人々がただ自分の社会的利益(シヴィル・インタレスツ)を確保し、護持し、促進するためだけに造った社会である、と考えられます。
社会的利益とは、生命、自由、健康、身体の安全、さらに貨幣や土地や住宅や家具などのような外的事物の所有のことです。
こういう現世的な事物の正当な所有を、平等な法の公平な施行によって、国民全般に、また臣民の一人一人に確保することこそ、為政者の義務なのです。…
…為政者の権限がこうした社会的なことがら以上には及ばず、政治的な権力や権利や支配がこれらのものの護持・増進のための配慮だけに限定され制約されていて、けっして魂の救済にまでは手を伸ばしえない、また伸ばすべきでない」(同書353頁・354頁)
「あらゆる政治権力が人々の社会的利害のみにかかわり、現世的なことがらの配慮のみに限定されるものであって、来世とはまったく無関係のものだ」(同書356頁)
「私は、教会とは人々の自発的な集まりであり、人々が神に受け容れられ、彼らの魂の救済に役だつと考えた仕方で神を公に礼拝するために、自発的に結びついたものである、と考えます。
それは自由(フリー)で自発的(ヴォランタリ)な結社(ソサエテイ)なのです。だれも生まれながらにある教会の一員であるのではありません。もしそうなら、両親の宗教があたかも土地所有者と同じように相続権によって子供に伝えられ、すべての人が土地を保有するのと同じように信仰を持つことになりましょう。こんな馬鹿げた話があるでしょうか。」(同書356頁・357頁)
「宗教的団体の目的は[すでに申し述べましたように]神の公的な礼拝であり、またそれによる永遠の生命の獲得であります。それゆえ、すべての規律はその目的に役だつべきものであり、すべての教会法はその目的に限定されるべきなのです。この団体のなかで社会的・現世的な財貨の所有に関することがらが扱われてはなりませんし、また扱うことはできません。そこではいかなる場合にも暴力が用いられるべきではありません。なぜなら、暴力はまったく為政者にのみ属するものであり、外的な財貨いっさいの所有は為政者の管轄下に属することであるからです。」(同書359頁・360頁)
「教会はそれ自体、国家とはまったく別の、切り離されたものだからです。両者の境界線は確固不動のものであります。その起原においても目的においても任務においても、あらゆる点において完全に区別され、相互に無限に異なっているこの二つの社会を混同するような人は、まったく離れ対立している天と地のような対立物をごちゃまぜにしているのです。」(同書364頁)
③ 政治と宗教は、お互いに相手の領域に介入してはならない
「魂への配慮が為政者の仕事には属さない…すべての人の魂の配慮はその人自身に属し、その人自身に任されるべきことがらです。」(同書367頁)
「宗教については疑わしいことがどれほどあるにしても、少なくとも、自分が真実であると信じていない宗教は、私にとって、決して真実でもなく役にも立たないということだけは確かであります。それゆえ、国王が臣民の魂を救済するためと称して、彼らを強制的にその教会へ入れても、それは無益なことです。もし彼らが信じているなら、自分で進んで加入するでしょうし、信じていないのなら、入ってもなんにもなりません。…
このようにして、人はついに、宗教の問題においては他からいっさいの支配を免れることになったわけです」(同書372頁)
「外面的な礼拝については、[まず第一に]為政者は神の礼拝についてのなんらかの儀礼や儀式の使用を自分の教会においても、ましてや他の教会においてはなおさら、法的に強制する権力を持ってはいないのだということです。その理由はたんに、これらの教会は自由な団体であるからというばかりではなく、神の礼拝のためになされることはすべて、それを実行する人々がそれこそ神に受け容れられるものと信じているかぎりにおいてのみ正当化されるものであるからです。」(同書373頁)
「宗教に無関係のことがらは、おそらくはまさにそれのみが、立法権に服するものである…為政者は宗教に無関係なことについてならなんでも好きなことを命令してよいということにはなりません。公共の福祉こそ、すべての立法の規準であり尺度であります。あることが国家にとって有用でないならば、それがいかに宗教と無縁な些細なことがらでも、直ちにそれを法によって定めるというようなことをしてはなりません。
さらにまた、それ自体としてはいかに宗教に無縁なことがらであっても、それが教会および神の礼拝のなかに持ち込まれるときには、それはもう世俗的なことがらとはまったく関係がなくなっているわけですから、為政者の管轄権外のことになります。教会の唯一の仕事は魂の救済であり、そこでどういう儀式が用いられるかということは、国家ないし国家の成員にはかかわりのないことです。」(同書374頁)
「為政者はいかなる教会におけるいかなる儀礼や儀式の使用をも法によって強制する権力は持たないと同様、すでにある教会が受け容れ、承認し、実行している儀礼や儀式の使用を禁止する権力も持ってはおりません。なぜなら、もしそんなことをすれば、教会そのものを破壊してしまうことになってしまうからです。教会設立の目的はただ、自由に、それぞれのやり方で、神を礼拝することにあるのであります。
けれども、そういうことにしたら、もしある集会が幼児を犠牲にしようと考えたり、あるいは[原始キリスト教徒に誤ってそうした非難が浴びせられたように]不浄なる雑婚によってわが身をけがそうとしたり、あるいはその他そうした憎むべく厭うべきことを実行しようとしたときに、それが宗教的集会において行われているという理由で、為政者はこれを許さねばならないのであろうか、とあなたは問われるでありましょう。私は、否と答えます。そうしたことは日常生活においても、私人の家においても、合法的なことではありません。ですから、神の礼拝においても、宗教的集会においても、やはり合法的ではないのです。」(同書377頁)
「国家において合法的なものはすべて、教会においても為政者がこれを禁止することはできません。臣民がその日常的使用を許されているものはすべて、どの教派の人が宗教上の目的のために用いようと、為政者によって禁止されることはできませんし、また禁止されるべきではありません。」(同書378頁)
「人々はその世俗的な財産を守るための相互援助の契約に基づいて社会を造ったわけですが、にもかかわらず、仲間の市民の略奪とか欺瞞によって、または外国人の敵対的暴力によって、その財産が奪われることがあります。そこで、この後者の被害を防ぐ方法は、市民の武力、富、多数ということであり、前者の被害を防ぐ方法は、法であるということになり、そのいずれにも関係するすべてのものの配慮が、社会によって為政者にゆだねられるのです。これこそ、あらゆる国家における最高の権力たる立法の起原であり、用途であり、限界であります。つまり、各個人の私有財産の安全と、全国民の平和、富、公共の福祉と、さらにできるかぎり外敵の侵入に対する国内の力の増強とが図られるようにするということです。」(同書386頁)
「もしも為政者の権限内にないことがら[たとえば、国民あるいは国民の一部が別の宗教を受け容れ、別の教会の礼拝や儀式に参加することを強制されるといったことがら]について法が定められるならば、そういう場合には人々はみずからの良心に背いてその法に束縛されることはありません。なぜなら、政治的社会は別の目的のためには、ただ現世における事物についての各人の所有権を確保するためだけに、造られたものなのですから。各個人の魂と天上のことについての配慮は、国家に属するものでも、国家に服従せしめうるものでもなく、まったく各個人自身にゆだねられているものです。ですから、人々の生命と、現世の生活に属する事物を守ることが国家の任務であり、それらのものをその所有者に保護してやることは為政者の義務であります。したがって、為政者が、政治的支配に関係のない理由、つまり宗教上の理由によって、ある人、ある党派からこの現世的財産を取り上げて他に与えたり、臣民の間の所有関係を変えたりすることは、[法律によってさえ]できないことなのです。」(同書388頁)
「キリスト教世界において宗教上の理由で起こったあらゆる紛争や戦争の原因は、意見の相違[これは避けられないものです]ではなく、[当然許されてよかったはずの]相異なる意見の人々に寛容が拒否されたことにあるのです。」(同書397頁)
「教会と国家…それぞれが自分の限界内に甘んじて、一方は国家の現世的な福祉に努め、他方は魂の救済に努めていたならば、両者の間にいかなる不和も生じえなかったでありましょうに。」(398頁)
西洋は、十字軍や異端審問によって異教徒・異端者を殺しまくる極めて不寛容な社会であり、17世紀になっても、例えば、ホーソーンが『完訳 緋文字』(岩波文庫)でアメリカのニューイングランドの姦通事件を描いているように、不寛容な時代だった。これは、『寛容についての書簡』の文章が、揚げ足を取られないように、幾重にも予防線を張っていることからも窺える。
ジョン・ロックが『寛容についての書簡』を公にするには、さぞや勇気を要しただろう。
2 政府見解を改めよ
さて、政教分離の原則については、憲法の教科書に学説の状況が詳述されているので、そちらに譲るが、このような憲法学者の土俵に上がると見えてこないことがある。
すなわち、宗教は、絶対主義であって、自分の信じている宗教・宗派の教義が正しくて、それ以外の宗教・宗派は間違っていると考えている。
これに対して、民主政は、相対主義であって、世俗的なことがらについて、何が正しい政治的判断であるかが分からないから、歴史から先人の知識・経験を学びながら、少数派の意見にも耳を傾けて、慎重な議論を尽くした上で政治的決断を行う。
このように宗教と民主政は相入れないので、ジョン・ロックが言うように、お互いに棲み分けをして、それぞれの領域に介入してはならないのだ。
この点、憲法学者は、政治が宗教に介入してはならないと熱心に説くが、宗教が政治に介入してはならないという点についてはなぜか強調しないだけでなく、触れようとすらしない。
このような憲法学者に毒されているのか、それとも自公連立政権を維持するためだろうか、政府は、
「いわゆる政教分離の原則は、憲法第二十条第一項前段に規定する信教の自由の保障を実質的なものにするため、国その他の公の機関が、国権行使の場面において、宗教に介入し、又は関与することを排除する趣旨であると解され、この原則に基づく規定として同項後段及び同条第三項並びに第八十九条の規定が設けられている。特定の政党と宗教団体との関係について政府としてお答えする立場にないが、一般論として申し上げれば、憲法の定める政教分離の原則は、先に述べたような趣旨を超えて、宗教団体等が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではなく、また、憲法第二十条第一項後段の規定は、宗教団体が国又は地方公共団体から統治的権力の一部を授けられてこれを行使することを禁止している趣旨であって、特定の宗教団体が支援する政党に所属する者が公職に就任して国政を担当するに至ったとしても、当該宗教団体と国政を担当することとなった者とは法律的に別個の存在であり、宗教団体が「政治上の権力」を行使していることにはならないから、同項後段違反の問題は生じないと解してきているところである。」
と答弁している(下線:久保)。
この政府見解こそが諸悪の根源だ!
まず、政府見解は、「いわゆる政教分離の原則は、…国その他の公の機関が、国権行使の場面において、宗教に介入し、又は関与することを排除する趣旨であると解され、…宗教団体等が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではなく」と述べている点が間違っている。
そもそも政教分離の原則は、政治と宗教の役割を区別し、相互に相手の領域に介入しないという原則である以上、①国家による宗教への介入禁止のみならず、②宗教の政治への介入禁止をも内包しているのに、政府見解は、②を無視している。
次に、政府見解は、「憲法第二十条第一項後段の規定は、宗教団体が国又は地方公共団体から統治的権力の一部を授けられてこれを行使することを禁止している趣旨」だと狭く解しており、この政府見解に従うと、国又は地方公共団体から正式に統治権の一部を授けられない限り、宗教団体がどれほど政治に介入しても構わないということになって、政教分離の原則が骨抜きにされてしまう。
このような政府見解は、早急に改めなければならない。ワイドショーは、政治家が統一教会と関わりがあるかどうかという問題に矮小化させているが、この政府見解を改めない限り、この問題は何度でも再燃することになる。
3 反セクト法(反カルト規制法)を制定せよ
ところで、下記の記事によると、コメンテーターを務める橋下徹弁護士が「反カルトというのは、あくまでも宗教に絞った規制。でも、(信者が)信じているのはしょうがない。だから教義内容や内心に踏み込むのは危険」と主張して、反セクト法(反カルト規制法)の制定に異を唱えたところ、全国霊感商法対策弁護士連絡会の紀藤弁護士に「40年前の議論を蒸し返している。基本的には信教の自由には立ち入らない。諸外国の常識で、カルト規制法もそう。」とやり込められたそうだ。
私ならば、「橋下弁護士は、333年前に決着がついている問題を蒸し返している」と言っただろう。
繰り返しになるが、ジョン・ロックは、「もしある集会が幼児を犠牲にしようと考えたり、あるいは[原始キリスト教徒に誤ってそうした非難が浴びせられたように]不浄なる雑婚によってわが身をけがそうとしたり、あるいはその他そうした憎むべく厭うべきことを実行しようとしたときに、それが宗教的集会において行われているという理由で、為政者はこれを許さねばならないのであろうか、とあなたは問われるでありましょう。私は、否と答えます。そうしたことは日常生活においても、私人の家においても、合法的なことではありません。ですから、神の礼拝においても、宗教的集会においても、やはり合法的ではないのです。」と述べているからだ(同書377頁)。
宗教団体も個人と同様に国家の法の下に存在している以上、宗教団体であろうがなかろうが詐欺・恐喝・拉致監禁等の犯罪を犯した場合には、それは合法的なことではないから、当然処罰されるべきであって、宗教団体がかかる犯罪を犯した場合に、カルトだと認定して規制を加えることは、教義内容や内心に踏み込むものではなく、信教の自由にも政教分離の原則にも反するものではないのだ。
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