「古典の授業が無駄」?

 下記の記事によると、テレビによく登場する古市憲寿氏が、「『古典の授業が無駄』といった議論に反射的に反論するひとって、授業時間が有限だということを忘れがちだよね」、「そりゃ時間が無限にあれば古典でも何でもすればいいけど、それはたとえば外国語よりも有益なのか。あと反論するひとたちが、どれだけの古典に関する教養を持っているかを知りたいところ」と述べたそうだ。

 まあ、考え方は人それぞれなので、有益かどうかで科目を取捨選択すべしという実用性重視の考え方もあり得るだろう。

 おそらく多くの小学生・中学生・高校生も、「これって何の役に立つのだろう?」と疑問に思いながら授業を受けていることだろう。嫌いな科目・不得意な科目・苦手な科目ほど、このような疑問を抱き、不勉強やできないことへの言い訳にするものだ。

 このように子供でも思い付くような考え方というのは、それだけ幼稚な考え方ということだ。


 私が子供の頃は、詰め込み教育全盛期だったから、私も御多分に洩れず「これって何の役に立つのだろう?」としばしば思ったものだ。

 例えば、高校では数Ⅰから数Ⅲまで勉強したが、微分・積分が経済学を学ぶ際に多少役立ったぐらいで、社会に出てからは全く役立っていない。

 しかし、だからといって「数学の授業が無駄」だったとは思わない。頭が悪い私にとっては、頭の訓練になったし、嫌なことから逃げたりせずに辛抱強く成し遂げる力が養われるからだ。

 文系学部へ進学した私にとっては、数学は実用的ではなかったが、理系学部へ進学した同級生たちにとっては、数学は実用的で、きっと役立ったはずだ。

 法学部の場合、古典の授業のお蔭で、文語調の条文・判決文・論文等を苦もなく読める。江戸時代以前の法制を調べる際にも、役立つ。

 このように、無駄かどうかは、人によって相対的なものなのだから、一律に「古典の授業が無駄」と決めつけるのは、いかがなものかと思う。


 古典を現代語訳で読めば良いと言う人もいるが、そう言う人ほど現代語訳すら読んでいない。本当に現代語訳を読んだことがあれば、訳者によって解釈が異なるため、現代語訳も異なることが分かるはずだ。だからこそ自分で原文を読んで確かめ、自分で解釈することが大切なのだ。そのためには古典の授業が必要だ。

 例えば、『論語』學而第一3 子曰、巧言令色、鮮矣仁。(子(し)曰(いわ)く、巧言令色(こうげんれいしょく)鮮(すくな)し仁(じん))という短い文章であっても、訳者によって解釈が異なるため、その現代語訳は全く異なるのだ。

・ 宇野哲人訳 「言葉を巧みにし、外貌を飾って人を悦ばせようとすると、己の本心の徳がなくなってしまうものである。」(『論語新釈』講談社学術文庫)

・ 宮崎市定訳 「ねこなで声でお世辞笑いする人間に最高道徳の仁は求められぬ」(『現代語訳 論語』岩波現代文庫)

・ 貝塚茂樹訳 「弁舌さわやかに表情たっぷり。そんな人たちに、いかにほんとうの人間の乏しいことだろう」(『論語』中公文庫)

・ 魚返善雄訳 「おせじや見せかけに、ろくなものはない」(『英和対照 論語』原書房)


 長い日本の歴史の中で、今ほどコミュニケーション能力が必要とされている時代はない。官民問わず、採用試験においてコミュニケーション能力の高い人が求められている。換言すれば、それほどコミュニケーション能力がない人が多いということだ。自分のことにしか興味がなく、想像力や共感力が欠如していることが原因だ。

 このような人は、自己中心的なので、自分が理解できない・楽しめない「古典の授業が無駄」だと思うのだろう。

 この点、サマセット・モームも、「世間には、自分には小説はよめない、というひとがよくあるが、わたくしの気がついたところでは、そういう人びとは、精神のすべてを重要な仕事にうばわれているため、想像上の出来事などに頭を用いる余裕はまったくないのだから、よめないのだと考えがちである。だが、それは思いちがいであると、わたくしは思う。そういう人びとに小説がよめないのは、自分のことだけに心をうばわれていて、自分以外の者の身におこることには、ぜんぜん興味がもてないためであるか、あるいは、想像力が不足していて、小説にあらわれた思想を理解することも、作中人物の喜びや悲しみに共感することもできないためであるか、そのいずれかである。好奇心もなければ、同情心ももたぬとあっては、どのような書物にせよ、楽しくよめるはずがない。」と述べている(『読書案内』岩波文庫、12頁・13頁)。


 古市氏は、古典よりも外国語の方が有益だとおっしゃるのだが、外国人から日本の歴史や文化について外国語で訊ねられた場合に、古文・漢文が読めない者が日本の歴史や文化を深く理解できるはずもなく、ましてや外国人を納得させ得るような回答ができるとは思えない。何も答えられないか、中身のない薄っぺらい回答しかできぬであろう。

 コメンテーターの古市氏のコメントは中身のない薄っぺらなコメントばかりなのに、コメンテーターが務まるのだから、外国語も、道を訊ねたり、商品の値段を訊ねたりするなど、中身のない薄っぺらな会話ができさえすればよいとお考えなのかもしれないが。


 外国語といえば、例えば、英米人の中で、チョーサー(1343年頃〜1400年)の『カンタベリー物語』を原文(Middle English中英語)で読める人は、一部の専門家を除き、皆無だ。現代の英語(Modern English近代英語)とは全く異なるからだ。

 簡体字を使うようになった戦後の中国人の多くは、『論語』などの古典だけでなく、戦前の漢籍を原文で読むことができない。

 ところが、我々日本人は、古文の授業のお蔭で、『太平記』や『徒然草』ぐらいまでは、特に注釈がなくても大体読めるし、注釈があれば、『枕草子』(1001年頃)や『源氏物語』(1008年)などの平安文学を読むことができる。また、漢文の授業のお蔭で、漢文で書かれた『日本書紀』(720年)を読むことができる。白文で漢籍を読むのは骨が折れるが、句読点・訓点が付いていれば、誰でも和漢の漢籍を読むことができる。

 一部の専門家ではなく、素人である一般庶民であっても、1000年以上も昔の書籍を原文で読めることは、世界的に見て、大変珍しいことであり、凄いことなのだ。


 この点、死語であるラテン語を流暢に話すアメリカ人が、ローマでイタリア人にラテン語で質問して、ラテン語が通じるかどうかを試した興味深い動画がある。ドッキリみたいで思わず笑ってしまった。ラテン語の字幕の下に英語の字幕があるので、何を言っているかは分かるはずだ。

 市井のイタリア人たちにはラテン語がほとんど通じなかったようだが(階級社会である欧米でラテン語を学ぶのはエリートだけだから。別の動画では、バチカンのローマカトリック教会の坊主たちには通じた。)、イタリア語に似た言葉から質問の意味を推測して、親切に答えようとしていた。中には、からかっているのかと苛立つ人もいてちょっと気の毒だったが。


 欧米ではラテン語を学ぶのは一部のエリートだけだが、我が国では、江戸時代の庶民の子供ですら読み書きそろばんができ、『論語』などの漢籍を読めた。

 東アジアにおいて、漢文はラテン語のようなものであって、漢文を使えば、外国人と会話ができた。

 戦後、漢字を捨てた朝鮮人・ベトナム人や簡体字を用いる中国人とは漢文で会話することができないが、今でも台湾人とは漢文で会話することができるのではないか。

 ショウペンハウエルは、「無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。貧困と困窮は貧者を束縛し、仕事が知にかわって彼の考えを占める。これに反して無知なる富者は、ただ快楽に生き、家畜に近い生活をおくる。」と述べている(『読書について』岩波文庫、127頁)。

 我々が人間らしく品位をもって生きるためには、 Intellectual Lifeインテレクチュアル・ライフ知的生活が不可欠なのだ。

 ヘルマン・ヘッセも、「真の教養はなんらかの目的のための教養ではない。それは、完全なものへのすべての努力と同様に、その意味をそれ自身のうちに持っている。…真の教養は、われわれの生活に意味を与え、過去を解釈し、恐れぬ心構えで未来に臨むようにわれわれを助けるのである。」と述べている(『世界文学をどう読むか』新潮文庫、5頁)。

 人間の歴史・文化は、先人たちの遺産だ。かつて船乗りが星(過去の光)を頼りに方角を確かめながら船を航行させたように、人間は無知であるが故に、過去から先人の智慧を学んで自らの歩むべき道・方向を選択しなければならない。先人たちの遺産を受け継ぎ、後世へと伝え、長い時の試練に耐えた先人の叡智を学んで、漸進的に改善の歩みを進めていくのだ。

 「古典の授業が無駄」と主張する人々の中には、日本文化の継承を断絶させたいと目論んでいる連中が少なからずいると想像している。政治的背後関係を洗った方が良い。

 いい歳をして「古典の授業が無駄」と言う幼稚な思考しかできない人には、理解し難いだろうが、古典から得られる先人の智慧は、成熟した大人の智慧なのだ。ショウペンハウエルのいう品位やヘッセのいう真の教養は、古今東西の名著名作を読み、熟慮し、味わう知的生活によって育まれるのだから、「古典の授業が無駄」だということはあり得ない。


 この点、現在、日本保守党の党首である小説家の百田尚樹氏は、『SAPIO』(小学館)2017年5月号の「禁断の日本再生論」なる特集のなかで、「対中政策の秘策」として、「中国を偉大な国と勘違いさせる「漢文」の授業は廃止せよ」と述べている。

 百田氏は、漢字を使いながら、何を言っているのか。百田氏は、保守主義者を自称しているようだが、エセ保守主義者であることは、この提言で明らかだ。遣隋使・遣唐使以来、我が国の先人たちは、主体性をもって、我が国の国柄に照らして支那(シナ。Chinaの地理的呼称)の文化を取捨選択しながら移入し、豊かな日本独自の文化を育んできたのであって、漢文もその一つだからだ。

 保守主義者は、漸進的改善を行うのであって、「漢文の授業は廃止せよ」と革新を唱えたりしない。

 支那は、度重なる異民族の支配により、混血が進み、諸子百家が活躍した頃の純粋な漢民族はもはやいない。また、「中国4千年の歴史」と言われることがあるが、真っ赤な嘘だ。これは、1981年に販売されたインスタントラーメン「中華三昧」のテレビCMで、コピーライターの糸井重里氏が考えた「中国4000年の幻の麺 中華三昧」というキャッチフレーズに由来するものであって、支那は易姓革命により何度も王朝が交替しており、中国(中華人民共和国の略称)は、1949年10月1日に建国してからたった75年の歴史しかない。

 現代の情報化社会において、中国共産党による一党独裁体制の下、自由を抑圧し、チベット等を侵略し、軍拡を続けている中国を偉大な国だと勘違いする馬鹿はいない。私は、小学生の頃から父の書架にあった諸子百家の漢籍を読んでいた。当時、マスコミは「毛沢東、万歳!」と喧伝していたが、これまで一度たりとも中国が偉大な国だと思ったことはない。漢文の授業をしたら、中国を偉大な国と勘違いするなんて、日本人を馬鹿にするにも程がある。


 ショウペンハウエルのいう品位やヘッセのいう真の教養を身に付けるためであれば、古典でなくても、現代作品でもよいではないかと言う人もいるだろうが、世間の評判ほど当てにならぬものはなく、現代作品は、時の試練を経ていないので、鑑賞に値しない駄作である可能性が高いのに対して、古典は、幾世代にもわたって名声を博してきた名著名作であって、鑑賞に値するのだ。

 この点、アーノルド・ベネットは、「古典とは、飽くことなく文學に熱烈な興味を寄せる人達に、歓びを與へる作品を言ふのである。少數の人達が、歓びの情を新たにせんとの熱情に燃えて、絶えず好奇の心を動かし、それゆゑに、絶えず再發見の道を歩めばこそ、古典は永遠の生命を持つのである。…古典は歓喜の泉であるが故に存續するのである。」(『文学趣味 ーその養成法ー』岩波文庫、40頁)と述べた上で、「何故最初は現代作品を避けねばならぬかと言へば、その理由は、君が未だ現代作品の中から選擇しうるほどになつていないから、といふだけのことである。否、何人と雖も、確信をもつて現代作品中から選擇することは出来ない。…現代作品は後代幾代もの鑑識眼の法廷を通り過ぎなければならない。が、古典は既に厳密な試煉を經てきてゐるから、事情は全く之と反對である。君の鑑識眼は古典の法廷を通過しなければならないのである。」(同書49頁)と述べている。


 「古典の授業が無駄」という主張が毎年のように繰り返されるのは、おそらく入試問題の在り方に原因があるのではないか。例えば、古文では細かい文法を丸暗記させ、題材も平安文学に偏重している。

 重箱の隅をつつくような細かな文法については、大学の文学部で学ばせれば良いし、また、題材についても、後世の歴史家・思想家に多大な影響を与えた南北朝時代の北畠親房『神皇正統記』、江戸時代のベストセラーである貝原益軒『和俗童子訓』、明治時代のベストセラーである福沢諭吉『学問のすゝめ』などを加えると良い。

 例えば、古市氏の母校である慶應大学が「古文は『学問のすゝめ』から出題する」と発表すれば、受験生は真剣に読むだろうし、たとえ不合格になったとしても得るものが多いだろう。


 中学生には、いっそのこと戦前・戦中の子供達に大人気だった立川文庫もよかろう。例えば、雪花山人『真田三勇士 忍術名人 猿飛佐助』の冒頭を一部抜粋すれば、「虎は死して皮を遺(のこ)し、人は死して名を遺す、建武(けんむ)の昔は大楠公正成(だいなんこうまさしげ)、降(くだ)つて真田幸村、元禄四十七義士の快挙、明治聖代の乃木大将、各々(おのおの)其(そ)の目的は異なりと雖(いえど)も、志は一(いつ)なり、或(ある)いは勤王と云(い)ひ、忠君と云ひ、節義と云ひ、何(いず)れも武士道の亀鑑(きかん)として、千載(せんざい)に傳(つた)ふべきの大人物(だいじんぶつ)に相違なく、當時(とうじ)の天下を背負って立つたる大器量人(だいきりょうじん)と云つて然(しか)りである、左(さ)ればにや勇将の下に弱卒(じゃくそつ)なし、一門郎黨(いちもんろうとう)にも豪傑勇士又(また)尠(すくな)からず、就中(なかんずく)今回説き出す忍術の名人猿飛佐助は、真田幸村の郎黨にして、七人勇士の随一と呼ばれ、變幻(へんげん)出没極まりなき快男子であつた。」とある。

 戦前・戦中の小学生は、このような立川文庫(明治44年から大正13年刊行)を夢中になって読んでいたから、古典もスムーズに学ぶことができたのだ。その意味では、福田恒存氏が『私の國語教室』(文春文庫)で述べているように、旧漢字(正漢字)・歴史的仮名遣いを復活させるのがベストなのだが。

 立川文庫の著作権(著者の死後70年)は切れているはずだから、可能であれば、小学生から立川文庫を読ませると良い。


 文科省や学校関係者には、すべての人が知的生活をおくれるように工夫をしてほしいものだ。


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