お千代さん

 「内助の功」(ないじょのこう)とは、「陰ながら援助する身内の功績。特に、夫の活躍を支える妻のはたらきについていう」(『デジタル大辞泉』小学館)。

 「内助の功」と言えば、「山内一豊(やまのうちかずとよ)の妻」と同義と言っても過言ではないほどだ。


 「内助の功」も「山内一豊の妻」も、少なくとも私が子供の頃には、誰もが知っている常識だった。


 ところが、象印マホービン株式会社が、1987年(昭和62年)と、その17年後の2004年(平成16年)の二度にわたって、首都圏の主婦300人(働いている夫を持つ主婦)を対象に、「内 助の功」に関する調査を実施したところ、驚くべき結果が出た。

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1. 17年前、ほとんどの主婦が知っていた「内助の功」、 最近の主婦の6.7%、20代では22.5%が「内助の功」という言葉自体を知らない


2. 「内助の功」をまったく意識していない主婦が“10人に1人”から“4人に1人”に増加


3. 「山内一豊の妻」の話を知らない主婦が33.3%(前回 7.3%)


4. 「内助の功」という言葉が「好き」27.7%(前回 39%)、「嫌い」18.0%(前回 13.7%)


5. 「内助の功」を“妻として当然とする「肯定派」は50%から34%に、否定派は33.3%に倍増


6. 最近の主婦が考える「内助の功」は「家事をやっていること」。また停滞する景気や、雇用を取り 巻く厳しい諸環境もあってか「夫の健康管理」、「夫の愚痴、悩みの聞き役」も大幅増


7. 夫は妻の「内助の功に感謝していると思う」24.7%、「内助の功などと思っていない」21.7%

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 「男は仕事、女は家庭」、「良妻賢母」、「内助の功」など、「男は女はかくあるべし」という性による役割分担は、男女平等に反するとして、フェミニズムが学校やメディアを通じて世に喧伝したため、おそらく今では「内助の功」、「山内一豊の妻」は、死語になっているのではあるまいか。


 以前、お話ししたように、フェミニズムの大家である上野千鶴子東大名誉教授によれば、「結婚」とは、「自分の身体の性的使用権を、特定の唯一の異性に、生涯にわたって、排他的に譲渡する契約」であると定義して、結婚に性交以外の意義を一切認めないのだから、「内助の功」や「山内一豊の妻」なんて唾棄すべきものということになる。


 結婚に性交以外の価値を見出すことができない乏しい知性と下劣な品性の持ち主には、理解できないのだろうが、山内一豊の妻である山内千代は、決してフェミニストが言うような「家庭内奴隷」ではない。

 この点について、述べようと思う。


 山内一豊は、貧乏な若侍。妻千代は、まな板を買うお金も倹約して、六合枡(ろくごうます)をひっくり返してまな板代わりに使ったり、得意の裁縫(さいほう)の腕を活かして内職したりして、武具の購入や家来を雇う費用を捻出した。

 家来が一人でも多ければ、それだけ夫の命が助かる可能性が高くなるし、夫も手柄を立てる可能性が高くなるからだ。

 ※  六合枡の使い方



 「山内一豊の妻」を「内助の功」として一躍有名にしたのが、「山内一豊出世の馬揃え」だ(マルキストの自称歴史学者たちは、作り話だと主張している。)。

 織田信長の家臣たちが馬揃えをした際に、一豊がひときわ立派な馬に乗って登場したので、信長から一番だとお褒めの言葉を賜った。

 一豊は、己一人の手柄とはせずに、妻のお蔭であるとして、この名馬を購入した経緯(いきさつ)を信長に語った

 この馬が金10両もしたこと、このお金は、妻千代が嫁入りの際に、千代の母から一大事の時に使うようにと鏡の裏に隠したお金であったことなどを話したのだった。

 信長は、甚(いた)く感心し、一豊に褒美として加増するとともに金品を贈り、この馬に「鏡栗毛」の名を与えた。


 妻は「家庭内奴隷」だとするフェミニストの主張が正しいとしたら、一豊が妻のお蔭だと信長に言うはずがない


 この話をご存知ない方はもちろん、ご存じの方も、一龍斎貞花の講談「山内一豊出世の馬揃え」をどうぞ♪ 面白いです。

 ※  千代の鏡も枡も御神体として高知城内に建立された藤並神社(現在の山内神社)に祀られ、毎年大黒祭りの際に枡が披露されていたが、昭和20年の空襲で枡が焼失した。幸い藤並神社に奉納される前に、忠実に再現した複製品が作られていたので、包丁の傷跡など、往時を偲ぶことができる(土佐山内家宝物資料館蔵)。

 これに対して、結局、千代は、夫のために家事をしたり、持参金を夫にあげただけではないか、という批判があろう。

 また、上記の象印マホービンのアンケートにもあるように、最近の主婦は、「内助の功」を「家事をやっていること」だと考えているようだ。


 しかし、このように「内助の功」を矮小化するのは間違っている。


 本能寺の変のあと、一豊は、羽柴秀吉の家臣となり、次々に手柄を立てて、2万石の長浜城主(現在の滋賀県長浜市)を経て、5万石の掛川城主(現在の静岡県掛川市)に出世した。


 豊臣秀吉が天下を統一し関白太政大臣に上り詰めると、槍働き一筋で出世してきた一豊は、算盤で出世してきた石田三成(いしだみつなり)に出世競争で遅れをとった。


 しかし、千代は、同じような境遇で夫を支えてきた秀吉の妻ねねに共感したのだろうか、ねねを尊敬し、得意の裁縫の腕を活かして、西陣織や唐織物の端切れを使ったパッチワークで小袖を仕立てて、ねねに献上した。あまりの美しさに感激したねねは、夫秀吉にこの小袖を見せたところ、秀吉も甚く感動し、この小袖を後陽成天皇(ごようぜいてんのう)に献上したという。

 このように千代は、ねねを中心とした戦国武将の奥様ネットワークに確たる地位を築き、人脈を広げ、情報収集を行い、夫一豊を支えた。


 慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、子を授からなかった正室ねねに代わって、豊臣秀頼を産んだ側室淀君(よどぎみ)が豊臣家の実権を握り、石田三成がこれを支えた。


 ねねは、幼き頃より我が子の如く可愛がってきた加藤清正などの豊臣恩顧の大名たちを徳川家康側に味方するように仕向けた。ねねに淀君に対する嫉妬・妬みがなかったとは言えないが、秀吉を夫として選んだ確かな目で見ると、淀君や三成よりも家康の方が天下を治めるに相応しいと映ったのだろう。我が子のように可愛がってきた豊臣恩顧の大名たちのためを思って、家康側へ付くことを勧めたと考えられる。

 千代は、かねてよりねねを尊敬していたし、また、ねねと同様に、一豊を生涯の伴侶として選んだ確かな目を持っている。当時の政治情勢などを踏まえて、山内家は、徳川に付くことにした。


 慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の合戦が目前に迫っているとき、徳川家康が会津の上杉景勝(かげかつ)を討伐するため、大坂城から出陣すると、一豊も千代を大坂屋敷に残して従軍した。

 石田三成は、会津に向かった大名たちが反旗を翻(ひるがえ)さぬように、大坂に残した妻子を大坂城に移して人質に取ろうとした。

 人質になることを拒んで自害したのが細川忠興(ただおき)の妻ガラシャ。千代も、一豊が心置きなく石田三成と戦えるように、自害することを覚悟したが、細川ガラシャの自害により、石田三成の人質作戦は、一旦中止になった。


 そこで、千代は、一計を案じ、まず、自分に味方するよう求める石田三成の一豊宛の書状と千代の夫宛の手紙を文箱に入れて紐を掛け、封をした。

 次に、それとは別に、大坂の近況を詳しく記した密書を書き、それを紙縒(こよ)りにして、文箱を運ぶ使者の編み笠の緒に忍ばせた。 

 そして、千代は、この使者に、必ず夫に先に密書を見せ、文箱を開封せずにそのまま徳川家康に渡すことを伝えるように命じた。 

 一豊は、まず密書を読み、千代の言う通りに、文箱を開封せずに徳川家康に渡した。


 大坂の情報が欲しい徳川家康は、妻からの文箱を開封せずに、先に自分に見せた山内一豊の忠誠心に甚(いた)く感心した。

 千代の一豊宛の手紙には、大坂の近況、万一人質になった場合には自害する覚悟であること、徳川家康公に忠節を尽くすべきことが認(したた)められていた。


 そして、徳川家康は、宇都宮にいる諸将を集め、のちに「小山評定」(おやまひょうじょう)と呼ばれる軍議を開き、千代からの手紙から得られた情報に基づいて、石田三成が挙兵し、大坂にいる諸将の妻子達が人質になっていること、石田三成に味方したい者は自由に立ち去ってもよい旨を告げた。


 諸将が浮き足だったその時、一豊は、自分の居城である掛川城を家康に差し出すと申し出て、その場の空気が一変し、徳川家康に味方することで一致団結した。

 一豊が軍議の場を後にしようとした時、家康は、一豊の袖を掴んで涙を流して感謝したそうだ。


 関ヶ原の合戦では、一豊は、大手柄を立てることがなかったのに、家康は、小山評定の功績に基づいて、一豊を土佐一国24万石の領主にし、その恩に報いた。

 これに不平を言う者もいたそうだが、家康は、「一豊の忠節は木の本、その他の衆中(しゅちゅう。大勢の人という意味)は枝葉の如し」と答えたそうだ。

 一豊は、初めて一国一城の主になったのだ(マルキストの自称歴史学者たちは、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで、「笠の緒の文」も作り話だと主張している。馬鹿は死ななきゃ治らない。)。


 もうお気づきだろうが、これすべて千代の作戦勝ち。筋書きを書いた千代は、「家事」をするだけの、フェミニストが言うような「家内奴隷」ではなかったことが明らかになったと思う。


 千代と一豊は、「夫婦」としてお互いを敬愛し、深く強い信頼関係で結ばれ、仲睦まじいだけでなく、若き頃よりファミリー・ネームたる氏を同じくした「山内家の共同経営者」としてお互いに山内家の行く末を案じ、お互いに己の足りぬところを補いながら、常日頃から家政や流動的な政治情勢を話し合い、協力しながら事に当たっていたからこそ、千代は、大坂から遠く離れた宇都宮で一豊がどのような状況に置かれているのか、家康が何を必要としているのか、家康の性格からしてどうすれば信頼を勝ち得て感謝されるのかを正しく把握することができたので、かかる作戦を立てることができたのであり、また、一豊も千代の言葉を信じて行動することができたのだと考えられる。


 このように、妻を「家内奴隷」と捉え、「内助の功」を「家事」に矮小化して理解することが如何に愚かであるかが分かるというものだ。

 何しろ一豊と千代が共同経営する山内家は、国持大名(くにもちだいみょう)になったのだから。


 江戸時代に描かれた土佐藩初代藩主山内一豊と妻山内千代(慶長10年に一豊が61歳で亡くなると、出家して見性院(けんしょういん)と名乗り、61歳で亡くなった。)の肖像画は、常に夫婦一対(いっつい)の掛け軸で作られ、対等な立場としてお互いの顔を見合う形で描かれている。

 江戸時代の人の方がフェミニストよりも正しく理解していたと言えよう。






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