以前このブログで、神と教皇への絶対的服従を求める恐怖支配こそがキリスト教会(カトリック)の本質だ、と述べた。
カトリックの関係者を敵に回しかねない発言をしたわけだが、ど素人の私が何を言っても、何の影響力もない。
しかし、先日読了した加藤隆(かとう たかし)『キリスト教の本質 「不在の神」はいかにして生まれたか』(NHK出版新書)は、そうではない。
著者である千葉大学人文科学研究院名誉教授の加藤氏は、フランスの国立大学であるストラスブール大学プロテスタント神学部博士課程修了及び東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程修了の神学博士だからだ。
キリスト教の専門家である神学者が、人間の活動・指図では神を動かせないので、救いはあり得ないのに、キリスト教は、「神なしの領域」で、聖職者と呼ばれる「宗教ビジネス人間」が救いが実現可能だと宣伝し、これに異議を挟むことが許されずに「その通り」(アーメン)と認めて服従する信者によって構成される団体・組織だ、と述べているのだ。
しかも、「宗教ビジネス人間」の人集めがうまくいくかどうかが成功・不成功の基準なので、宣伝その他の活動の内容は、千差万別になるため、キリスト教は、大中小の様々な宗派・分派が生じる、とも述べている。
ここまで踏み込んだ発言をしたキリスト教の学者を私は知らない。
口の悪い私が一言で要約すれば、キリスト教はペテンということだ。信じる者は騙される、これがキリスト教の本質なのだ。
西洋の文明・文化を理解するために、素人なりにキリスト教をコツコツ勉強してきたが、素朴な疑問が次々に浮かんで、頭の中がクエスチョン・マークで一杯になる。
司祭や牧師に疑問をぶつけて教えを乞おうと思ったことが何度もあるが、私の素朴な疑問は「喧嘩を売りにきたのか!」と怒られそうなものばかりなので、差し控えてきた。
しかし、この本を読んで、私の疑問の多くが氷解した。ネタバレになるので、詳細は控えるが、知的刺激に満ちた本なので、ご一読をおすすめする。
加藤氏は、科学技術の発達により、キリスト教離れ・世俗化が進んだと述べているだけで、加藤氏自身は言及していないのだが、キリスト教に代わって登場した代表制民主政が今危機に瀕している。
ユダヤ人(イエスは、ユダヤ人で、キリスト教はユダヤ教の一派としてスタートした。)は、ヤーヴェという神を自分たちの神として選択した。
しかし、北イスラエル王国が滅亡するなど、ユダヤ人は、異民族・異教徒に支配され続けた。なぜ神は助けてくれないのか、なぜ神は沈黙しているのか。
ユダヤ人は、人が「罪」の状態にあるからだと考えた。
しかし、人が「罪」の状態にあるから、神が動かないのだとしたら、人が「義」を行えば、神を動かすことができるということになる。
つまり、神は、人が操縦することができる僕(しもべ)・奴隷ということになるのだが、ユダヤ人は、この間違いに気付かない。
神がユダヤ人を救うかどうか、誰を救うのかは、神の任意なのに、「洗礼」を受ければ良いのではないか、律法を守れば良いのではないか、ついには「どうすれば救われるかを私は知っている。私に従いなさい。」と宣伝し、自分に従う信者集団を形成する宗教指導者が現れるようになる。これがキリスト教だ。
キリスト教は、聖職者と信者という人間二分論に基づく。古代ギリシャ・ローマの伝統である自由人と奴隷という人間二分論に馴染むこともあり、乱れたローマ帝国をまとめる方策としてキリスト教が国教とされ、中世以降も教会が生活の隅々まで支配した。
キリスト教が西洋文明社会の維持・運営にとって有用だったから、その権威・権力を保ち続けたのだが、やがて科学技術の発達により、その有用性が失われ、キリスト教離れ・世俗化が進むようになる。
個人的な意見だが、このキリスト教に代わって登場したのが代表制民主政だと考える。「どうすれば生活が良くなるかを私は知っている。私に従いなさい。」と宣伝し、自分に従う政治団体・政党を形成する政治指導者が現れた。人が何かすれば神が助けてくれると考えたように、有権者が投票すれば議員が自分たちを助けてくれるというわけだ。ご利益(りやく)宗教ならぬご利益政治だ。
しかし、有権者の利益・意見のために議員が行動せずに、議員が自分自身の利権を守るために行動したり、圧力団体・利益団体の利権を守るために行動したりするなど、政治不信を招いている。
換言すれば、有権者が投票すれば議員が自分たちを助けてくれるという代表制民主政はペテンではないか、と多くの人々が疑い始めているわけだ。
しかも、社会主義・共産主義という癌が社会の隅々に転移して価値観の多様化を生んだ結果、自分の単なる欲望を権利であると強弁する輩(やから)が増加して収拾がつかなくなり、西洋文明社会に分断が生じているため、代表制民主政が機能不全に陥っている。
他方で、ロシア、中国、北朝鮮などの強権的な全体主義国家が台頭し、弱体化した西洋諸国は、後手後手に回り、押され気味だ。
今、西洋文明に求められているのは、先人が長い時間をかけて試行錯誤しながら自然発生的に生まれた伝統、慣習等に敬意を払い、これを保守して子孫に伝え、漸進的に改善を図る保守主義だ。
以前このブログで述べたように、我々人間は、決して未来を見ることができず、後ろ向きで未来に向かって進んでおり、一歩間違えば奈落の底へ転落するおそれがあるため、足元の現在をしっかりと確かめながら少しずつ後ずさりしながら歩みを進めるしかない。
その際、かつて船乗りが星(過去の光)を頼りに方角を確かめながら船を航行させたように、過去(伝統、慣習等)から先人の智慧を学んで自らの歩むべき道・方向を選択しなければならないのだ。
歩みは遅く、改善には時間がかかるが、社会は安定し、自由と品位が保たれる。保守主義が社会の基底となることによって、はじめて代表制民主政は、生者の傲慢な寡頭政治を脱却して、その本来の機能を果たすことができるのだ。
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