言葉狩り

 一部の政治勢力が日本語の豊かな表現を不適切・差別だとしてその使用を禁止するよう圧力を加えることがよく行われている。いわゆる「言葉狩り」だ。その結果、言葉の言い換えをせざるを得ない。


 「放送禁止用語一覧」で検索したら、下記のサイトがヒットした。「えッ!?これもダメなの?」という用語のオンパレードだ。


 放送局が自主規制する分には勝手にしたらよいが、一般人に強制されたら、たまったものではない。

 憲法の人権規定は、直接私人間に適用が予定されている規定を除き、国家と国民との間を規律するルールにすぎない。なんでもかんでも一方的に差別認定して「言葉狩り」されたのでは、表現の自由が不当に抑圧されてしまう。一体いつあの連中にレッテル貼りによる言語取締の権限が与えられたというのだ。自由で開かれた言語空間を己の一方的な統制下に置こうとする「言葉狩り」に断固反対だ。

 国家社会主義者のやり口は、いつも同じだ。Gestapoゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密国家警察)にそっくりだ。


 この点、海外でも同様であって、例えば、「インディアン」ではなく「ネイティブ・アメリカン」と呼べとか、「ジプシー」ではなく「ロマ」と呼べと言われてきた。


 ところが、下記の記事によると、「インディアン」も「ジプシー」も差別用語ではないという反論が「インディアン」や「ジプシー」自身によってなされているらしい。


 川口マーン恵美氏は、「私はかねてより、キャンセルカルチャーとは白人による優越感や差別意識の裏返しであると思っていたが、それをインディアンとジプシーが完膚なきまでに証明してくれたように感じている。言葉は差別を隠すだけで、決して無くすわけではないのだ。」と述べている。

 私も、差別だと騒いで「言葉狩り」をしている連中こそが差別意識を持っているからだと思っていたので、川口氏に賛成だ。


 言語は、自然発生的に生まれた「自生的秩序」の一つであって、「暗黙知」(言語化できない知識・知恵)が含まれている。長い年月をかけて先人が試行錯誤しながら実践したことによって有効性が経験的に確かめられた叡智が含まれているのだ。  

 人間は無知であるが故に、伝統、慣習、言語等の自生的秩序に敬意をもってこれを保守し、後世へと継承しながら、漸進的(ぜんしんてき。物事を徐々に進めるという意味。)に現状に合わせて改めていくことが何よりも大事なのだ。

 一部の政治勢力の圧力によって一方的に「言葉狩り」を行ってよいものではないのだ。


 東欧では事情が異なるようだ。

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