聞き捨てならぬ

 石破総理は、「七面倒くさい日本語、日本の習慣は日本政府の負担によってでも習得をしてもらい、適法な人に日本の社会と共生できる形で入ってもらう。違法なものは認めない。どういう人に来てもらうかということについて、日本政府としてもっと責任を持ちたい」と述べた。

 言語も慣習も、誰か特定の人が作ったわけではなく、抽象的な理念から演繹されたものでもなく、気が遠くなる歳月をかけて、先人たちが試行錯誤しながら自然発生的に形成してきた秩序だ。フリードリッヒ・フォン・ハイエクは、自生的秩序と呼んでいる。これには何度も実地検証に耐えてきた先人の叡智が含まれているから、子孫には、これに敬意を払い、これを大切に守り、後世へと伝えていく責務がある。


 ところが、石破総理は、「日本語、日本の習慣」(正しくは「慣習」と言うべきだ。石破総理は、日本語が七面倒くさいので、習慣と慣習の違いも理解できていないのだろう。)を「七面倒くさい」と形容している。ここには敬意がまったく感じられない。つい本音が出たのだろう。

 古今東西、国家指導者は、数多くいるが、いずれも自国の歴史と文化に誇りを持ち、これに敬意を払って国民に呼びかけるものだが、自国の言語と慣習を「七面倒くさい」と公言して、恬(てん)として恥じない首相は、歴史上石破総理が初めてではないか。


 マスコミが次期首相候補No.1だとゴリ押しして、誕生した石破内閣は、発足時から「だらし内閣」と揶揄(やゆ)されたことが記憶に新しい。

 育ちが悪くても、大人になってからは自己責任だ。いくらでも直す機会があったからだ。

 石破総理のとろくて一本調子で要領を得ない話し方やマナーの悪さは、「七面倒くさい」と思って、矯正する気もなければ、恥だとも思わないことに由来することがよく分かった。


 石破総理の「最側近」で英語ができるというだけで日米関税交渉の担当者となった赤澤亮正経済再生担当大臣は、アポ無しで訪米し「押しかけ成功率100%」だと自慢していたそうだが、米国の長官たちも多忙を極めているのに、アポ無し訪問を繰り返すとはあまりにも失礼であり、非常識だ。

 「(石破氏は)たばこと赤沢はやめられない」と言われ、赤澤大臣は、「石破マニア」を自称しているそうで、まさに類は友を呼ぶだ。

 また、「七面倒くさい日本語、日本の習慣は日本政府の負担によってでも習得をしてもらい」とあるが、なぜ日本政府の負担で、つまり日本人の税金で、外国人に日本語や日本の慣習を習得させねばならないのか。

 日本語も話せないし、日本の慣習も守らない外国人に来日してほしくないというのが、多くの良識ある日本人の正直な気持ちだと思う。きっと民意に耳を傾けることも「七面倒くさい」のだろう。








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