内閣は、故・長嶋茂雄氏を従三位(じゅさんみ)に叙することを閣議決定したそうだ。
位階は、飛鳥時代の603年に聖徳太子によって設けられた、冠の種類によって朝廷内の序列を示す「冠位十二階」を起源とする。今年で1422年の歴史があるわけだ。
701年の大宝律令(りつりょう)から江戸時代までは、朝廷の身分の序列である「位階」が正一位(しょういちい)から少初位下(しょうそいのげ)まで30階あった。
正一位、従一位
正二位、従二位
正三位、従三位
正四位上、正四位下、従四位上、従四位下
正五位上、正五位下、従五位上、従五位下
正六位上、正六位下、従六位上、従六位下
正七位上、正七位下、従七位上、従七位下
正八位上、正八位下、従八位上、従八位下
大初位上、大初位下
少初位上、少初位下
正は、「しょう」、従は、「じゅ」と読む。正四位下は、「しょうしいのげ」、従四位上は、「じゅしいのじょう」、という風に読む。
ただし、三位は、「さんみ」、初位は、「そい」と読む。
一般的に五位以上の官僚を「貴族」、三位以上の官僚を「公卿(くぎょう)」と呼ぶ。四位・五位で清涼殿への昇殿が特に許された者を「殿上人(てんじょうびと)」と呼ぶ。
例えば、豊臣秀吉や徳川家康は、生前に従一位に叙せられ、死後に正一位を贈られている。
位階に相当する官職が定められ、相当する官職に就く建前だった(官位相当制)。位階があっても官職に就いていない者を「散位(さんい)」という。
位階とは別に、軍功に授けられた12等級の「勲位」があり、勲一等は、位階では正三位(しょうさんみ)、勲十二等は、従八位下(じゅはちいのげ)というように、位階と勲位は、連動していた(位階勲等)。
江戸時代になると、幕府の推挙により武家の位階が決められるようになり、大名は、一般的に従五位下に叙せられた。テレビ時代劇『水戸黄門』の水戸徳川家は、御三家なので、従三位だ。
ということは、故・長嶋茂雄氏は、世が世ならば、徳川光圀公と同列の公卿ということになるわけだ!
「この背番号3が目に入らぬか!こちらにおわすは、畏(おそ)れ多くも、読売巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄公にあらせられるぞ!御老公の御前である。頭(ず)が高い。控え居(お)ろう!」ってなことになっていたかもね♪笑
ここからは、ややこしい話になるが、明治4年(1871年)に、従来の官位相当制が廃止されて、位階と官職の関係は断たれた。
明治8年(1875年)に勲等賞牌及ヒ従軍牌制定の件(太政官布告第54号)が制定され、国家への勲功に対して相応の勲等に叙し(叙勲)、それに相当する勲章を贈ることになった。
これにより、「勲位」が栄典に特化された勲等(10等級)として復活したわけだ。儀典での肩書は、「正三位勲一等」などと位階と勲等で示され、勲章の名を省くのが通例となった。
栄典というのは、国家や社会への長年の功労、あるいは社会の各分野における優れた行いを国家が顕彰することだ。栄誉を称えることを栄典というわけだ。勲位は、軍功に限らず、栄誉を称える栄典に性質が変わったのだ。
さらに明治20年(1887年)公布の叙位条例によって、位階も、栄典の役割に特化され、一位から八位までそれぞれ正従に分かれて16階と定められた。
位階も、身分ではなく、栄誉を称える栄典に性質が変わったわけだ。その結果、栄典には、位階と勲位の二本立てになり、現在も続いている。
明治22年発布の大日本帝国憲法第15条には、「天皇ハ爵󠄂位勳章及其ノ他ノ榮典ヲ授與ス」と定められていたので、天皇が叙位・叙勲を授けることは「栄典大権」とされ、政府は関与しなかった。
大正15年(1926年)に、叙位条例を廃止する代わりに位階令(大正十五年勅令第三百二十五号)が公布された。
戦後、昭和21年(1946年)、日本国憲法に改正され、「栄典を授与すること。」は、天皇が、内閣の助言と承認により、国民のために行う国事に関する行為とされた(第7条第7号)。
位階令は、現在も効力を有する。なぜならば、日本国憲法第98条第1項は、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と定めており、位階令は、日本国憲法に違反しないからだ。
昭和21年(1946年)の閣議決定により、在職中の死没者を除いて官吏に対 する叙位は一時停止されたが、昭和22年(1947年)に、官吏退職者が死没した場合に ついてはその停止を解除する旨の閣議決定がなされた。
つまり、生存者への叙位は、停止されたままなのだ。理由は不明だが、日本国憲法第15条第2項に「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」と定められたことにより、官吏はもはや天皇の臣下ではなくなったので、天皇が生存者に叙位するのはふさわしくないと考えられたからではないか。
昭和39年(1964年)に、生存者への叙勲が再開されたが、生存者への位階の叙位は行われず、故人に対する叙位のみを行う運用が続けられている。すなわち、国家・公共に対して功績のある人が死亡した際に、生涯の功績を称え追悼の 意を表するものとして運用されているのだ。
そのため、長嶋茂雄氏も、亡くなってから従三位に叙せられるわけだ。
林官房長官は、「偉大な選手であるとともに、監督時代にも素晴らしい業績を残され、後進の育成にも多大なる業績を残された」と述べている。
この理屈からすると、故・野村克也氏の方が長嶋氏よりも選手としても監督としても優れた業績を残しているから、位階を叙するべきだということになりそうだけど、野村氏には叙位が行われていない。
野村氏は、生前、「王や長嶋はヒマワリ、俺は月見草」と言っていたが、死後もその通りになってしまった。王さんと長嶋さんは国民栄誉賞を授与され、さらに長嶋さんは、死後に従三位に叙せられるのに、野村さんは、何もなしだからだ。
cf.位階令(大正十五年勅令第三百二十五号)
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