異国の丘

 昨夜、テレビで放送された映画『ラーゲリより愛を込めて』(2022年)を観た。

 30年前に原作である辺見じゅんのノンフィクション『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(文春文庫)を読んでいたので、どのように映像化されているのか、気になったからだ。


 原作と映像化された映画やドラマは、全く別の作品だから、映画は映画として観なければならないとはいえ、この映画は、TBSが「戦後80年特別放送」と銘打って放送しただけあって、原作とは異なり、家族愛を中心にした陳腐な反戦映画に成り下がっていた。


 まず、映画では、主人公の山本幡男(はたお)は、ロシア文学が好きでロシア語を勉強したという風に描かれていた。


 しかし、山本は、単なるロシア文学好きにとどまるものではない。ロシア革命の共感したが故に、ロシア語を学ぶために、旧制東京外国語学校(後の東京外国語大学)に進学し、在学中にマルクシズムの研究会に参加し、社会主義運動にのめり込んで、昭和3年の三・一五事件の際に逮捕され、退学処分を受けているのだ。筋金入りのマルキスト・革命家なのだ。

 マルクシズムは、平和擁護の思想だというのが山本の持論だった。

 満鉄調査部に採用された山本は、調査部内のソ連贔屓(びいき)の中心人物だった。


 これを描かないから、ソ連に心酔していた山本の真の絶望と絶望しても希望を失わなかった不屈の闘志が伝わって来ないし、また、後述する「第三の思想」に至る経緯が分からないのだ。

 監督、脚本家などが左翼なのだろうか。


 山本の理想の国だったソ連が、日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦し、残虐の限りを尽くした。

 敗戦後、旧日本軍将兵・軍属60万人以上は、ソ連に抑留され、家畜の如く理不尽な扱いをされた。

 シベリアの過酷な環境下で、粗末なバラックに押し込められ、暖房や十分な食事や被服等を与えられずに重労働させられ、辛酸を嘗(な)めた仲間たちが帰国を願いながらばたばたと死んでいく。


 これは、大規模かつ組織的な拉致事件であって、戦時国際法及びスターリンも署名したポツダム宣言に違反する重大な人権侵害事件なのだ。

 この点についても、映画では触れられなかった。映画関係者が左翼なのだろうか。


 ソ連に迎合した方が早く帰国できると考え、積極的にソ連の手先となって収容所内の同胞を密告する日本人たちが、虎の威を借る狐として収容所で幅を利かせるようになる。

 このソ連に洗脳されて同胞を密告したスパイは、およそ8千人いたらしい。また、帰国後、ソ連のスパイとして諜報工作活動に従事した者が500人余りいたらしい。


 ソ連は、「国際ブルジョアジー援助罪」や「スパイ罪」というソ連国民を取り締まる国内法を外国人である日本人に無理矢理当てはめて、次々に有罪判決を下していった。

 山本も、戦犯に仕立て上げられ(映画では上司の虚偽の密告により)、非公開の軍事法廷に起訴され、弁護人を付けられることもなく、25年の刑を言い渡された。裁判とは名ばかりだった。


 ソ連・社会主義に裏切られた山本の絶望感は、如何許(いかばか)りだったろう。


 しかし、山本は、絶望に打ちのめされても、決して希望を失わなかった。

 収容所内で、「アムール句会」を立ち上げ、皆で俳句を作り、山本が寸評を行った。この寸評は、俳句に無縁だった人々にも好評だった。

 また、山本は、松江中学時代に野球部のスコア係だったので、草野球のアナウンサー役を買って出て、当意即妙なアナウンスで大いに盛り上げた。

 さらに、山本たちは、英語、ロシア語、数学などを教える「学術講座」という名の授業を行った。満鉄関係者や特務機関員には一流大学出身者が多かったので、講師の人材が豊富だった。この講座に真面目に出席していたのが平壌中学の朝鮮人青年たちだった。山本は、この青年たちを可愛がり、青年たちも山本を慕った。しかし、平壌(北朝鮮)に戻った青年たちには、さらに過酷な運命が待っていた。

 山本たちは、ぼろを身に纏い、痩せこけ、虜囚の辱めを受けながらも、野蛮で無教養なソ連兵たちと異なり、文明人として、日本人としての誇りを抱き、来たるべき未来に向けて文化・スポーツ活動を続けたのだ。


 映画では、癌に冒されながらも、左翼でも右翼でもない、全体主義でも個人主義でもない、西洋でも東洋でもない、「第三の思想」と呼ぶべき希望の光を見出す思索の過程も、必ずしも十分に描かれていなかった。


 「ぼくはね、人間が生きるということはどういうことなのか、シベリアにきてようやく分かった気がするんだ。ぼくは、共産主義者でも、もとより右翼主義者でもない。野本さん、時代はね、ぼくたちがこうしているあいだにも、日々、確実に移っているんだよ。いまのぼくの考えを強いて命名すると、第三の思想と呼ぶのがふさわしいかもしれない。右でも左でもない第三の思想、全体主義にあらず、個人主義にあらず、東洋でも西洋でもないんだ。おそらくそれは、いずれきたるべきものであり、創造されるべきものなのだと思う。ぼくはね、これを第三の思想と呼ぶ以外にいまは名付けようがないのですよ」(192頁)

 この山本が野本に語った言葉は、映画でも述べられていた。


 しかし、次の山本の言葉は、映画で述べられていなかった。

 「かつて、日本に『枕草子』、『源氏物語』、『徒然草』が現われた頃、イギリスはまだバイキングの時代だった。古く美しい文化を有する日本が、戦争に敗けて世界の劣等国と見做(みな)されている。古代の文化に限らず、彫刻にせよ、絵画や建築にせよ、私たちはもう一度、祖先の偉業に立ち返って見る必要があるのです・・・」(193頁)


 山本の言う「第三の思想」は、子供達への遺書に語られていると思う。

 「君たちは、之から人生の荒波と闘って生きてゆくのだが、君たちはどんな辛い日があろうとも光輝ある日本民族の一人として生まれたことを感謝することを忘れてはならぬ。日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれたる道義の文化ー人道主義を以て世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ。

 また君達はどんなに辛い日があろうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏頗(へんぱ)で矯激な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道に基く自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。

 最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。友だちと交際する場合にも、社会的に活動する場合にも、生活のあらゆる部面において、この言葉を忘れてはならぬぞ。

 人の世話にはつとめてならず、人に対する世話は進んでせよ。但し、無意味な虚栄はよせ。人間は結局自分一人の他に頼るべきものが無いーといふ覚悟で、強い能力のある人間になれ。自分を鍛へて行け!精神も肉体も鍛へて、健康にすることだ。強くなれ。自覚ある立派な人間になれ。」(231・232頁)


 「偏頗(へんぱ)で矯激な思想に迷ってはならぬ」は、社会主義にのめり込んでしまった反省だろう。

 「最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである」は、収容所で山本自身が終生そうあらんと努め、山本の遺書を仲間たちが分担しあって暗記し、遺族の元へ伝えに行ったことで証明され、子供達の心に響いたと思われる。

 惜しむらくは、学生時代に山本が英国の保守主義に出会わなかったことだ。せめて収容所で保守主義に出会っていれば、これこそ「第三の思想」だと確信し、思索を深めたに違いない。


 映画では、遺書を暗記して遺族に伝えた仲間たちの名前やその収容所内での行動等は、原作と全く異なる。物凄く違和感を覚えた。

 多分に創作が入っており、この映画を「実話」と呼ぶのは如何なものかと思う。未読の方は、ぜひ原作を読んでいただきたい。


 私が生まれたときには、すでにシベリア抑留は終わっていた。しかし、幼き頃、シベリア抑留、引き揚げ船の話題は、テレビでたまに取り上げられ、ぼんやりと記憶に残っているが、その際によく流れた2曲は、鮮明に覚えている。


シベリア抑留兵が作った『異国の丘』

二葉百合子『岩壁の母』







 


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