4 北方遊牧民族を「夷狄」扱いするのは変だよ
北方遊牧民族は、「略奪」ばかりする「夷狄」(いてき。野蛮人の意)として扱われている。遊牧生活では十分に自立できないから、定住生活をしている農耕民族から奪うのだというわけだ。
しかし、家族単位であれば、遊牧生活であっても十分生活できる。足りない物があれば、交易によって入手できるからだ。
ただ、集団になれば、これを維持するための政治的制度や経済制度が必要になる。さらに大きな集団になれば、国家の論理で動くようになる。軍事的に均衡していれば、攻めたりしないが、軍事的均衡が破れれば、その空白を埋めるべく兵を進めるのは、農耕民族も遊牧民族も同じなのだ。中華思想に毒されて、遊牧民族のみを「夷狄」扱いするのは、公平ではない。
また、遊牧民族も、定住する。前述した隋や唐など、北方遊牧民族が建国した王朝は、定住化しているからだ。
さらに、遊牧民族というと、馬に乗って草原を走り回るしか能がないイメージかもしれないが、決してそうではない。
紀元前12世紀頃にヒッタイトが発明した製鉄技術がユーラシア大陸中央部を経由してモンゴル系匈奴に伝わっていることがモンゴル国内の遺跡の発掘により明らかになった。匈奴は、当時の最先端技術である製鉄炉を持っていたのだ。匈奴の冒頓単于が漢の劉邦に勝利した一因だ。
三国時代の魏を継いで司馬炎が建国した晋が滅亡すると、再び国が乱れた。支那北部(華北)にモンゴル人鮮卑族が「北魏」を建国し、支那南部(華南)の漢民族王朝(宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。)と並立する南北朝時代を経て、モンゴル人鮮卑族が建国した「隋」によって、再び支那は統一された。
モンゴル人鮮卑族は、遊牧民族だから、農耕民族である漢民族とは異なり、土地に執着しない。漢民族は、黄河文明の時代から王や貴族が土地を囲い込んで、富を収奪し、民衆を隷属させたのだが、モンゴル人鮮卑族は、土地は公有だとして、遊牧民族の伝統に従って、民衆に均等に土地を支給した。
この北魏が始めた制度が「均田制」だ。同じモンゴル人鮮卑族が建国した「隋」・「唐」も均田制を採用した。これが「班田収授法」として日本に継受された。
また、遊牧民族は、納税さえしてくれれば、支配地の宗教・風俗・慣習等に干渉しない。そこで、モンゴル人鮮卑族が建国した隋・唐は、支那の伝統に従って、租庸調を制度化した。
このように、遣隋使・遣唐使が学んで、日本に移入した「隋」や「唐」の律令制は、モンゴル人鮮卑族が作った制度なのだ。
難関の試験を「科挙」に譬(たと)えることがよくあるが、「科挙」を始めたのも、モンゴル人鮮卑族が建国した「隋」だ。
漢民族は、農耕民族であり、黄河文明の時代から富と権力を集中して王政を敷き、多くの人間を隷属させてきた。官吏は、王から土地を与えられた世襲貴族が独占していた。無能で不正を行う官吏が増えたので、これを改善すべく前漢の武帝の時代から「郷挙里選」が行われたり、南北朝時代に「九品官人法」が行われたりした。この点については、以前少し述べた。
これに対して、遊牧民族は、土地に執着せず、臨機応変に対処することが求められるため、現場の有能なリーダーに権限を与える実力主義が伝統だった。
そこで、隋は、従来の漢民族の貴族政治を打破すべく、実力主義の伝統に基づいて、血筋・家柄ではなく、試験によって官吏を登用する科挙を実施したのだ。
隋は、二代で滅んだが、モンゴル人鮮卑族が建国した唐も科挙を採用し、清国まで科挙が続いた。
大雑把ではあるが、このように見てくると、分かることがある。
すなわち、漢民族が建国した漢や明は、広大な領土を統治しきれなかった。儒教という血筋・家柄を重んじる頑迷固陋(がんめいころう)な宗教に毒されたからだ。
これに対して、漢民族が「夷狄」と蔑(さげす)む北方遊牧民族が建国した元や清は、版図を拡大して広大な領土を統治できた。これはひとえに北方遊牧民族が、漢民族とは異なり、多種多様な異民族をまとめ上げる統治のノウハウを持っていたからに他ならない。
すなわち、北方遊牧民族は、他の異民族を尊重して、納税さえすれば、その言語・宗教・文化に干渉せず、他方で、血筋・家柄ではなく、人に着目して、実力主義の伝統に基づき、能力本位で人材登用し、統治の中枢に据え、柔軟な発想で制度を改善していったので、広大な領土をまとめることができたのだ。これをどうして「夷狄」と言えようか。
0コメント