3 被支配者を中心に叙述するのは変だよ
以前にも述べたような気がするが、支那(シナ。chinaの地理的呼称)の歴代王朝は、目まぐるしく交替するが、その歴史は、どこで輪切りにしても、金太郎飴の如く同じような権力闘争を繰り返している。
儒教は、これを易姓革命(えきせいかくめい)と呼んでいる。天子(王・皇帝)の姓が易(か)わるのは、天命が革(あらた)まったからだという政治思想だ。
すなわち、禅譲(ぜんじょう。天子の位を世襲せずに有徳者に譲ること)を行ったとされる例外もあるが、放伐(ほうばつ。悪徳の天子を討伐すること)が原則であって、悪政を行なって徳を失った天子(王・皇帝)を武力で打倒した者が天子(王・皇帝)になり、再び同じことをエンドレスで繰り返す悪夢のような歴史が支那の歴史だ。まったく進歩がないのだ。
そのため、支那人ですら司馬遷の『史記』を通読するのが辛くて、簡略な『十八史略』が編まれたほどだ。
さて、皆さんも支那の歴代王朝を暗記したと思うが、夏、殷、周、春秋・戦国時代、秦、漢(前漢)、新、漢(後漢)、三国時代、晋、五胡十六国時代、南北朝時代、隋、唐、五代十国時代、宋、元、明、清のうち、漢民族が作ったとされる王朝は、夏、殷、周、秦、漢(前漢、後漢)、晋、明の7つだけだ(夏の存在については、学説上疑われているし、また、秦を建国したのはチベット系羌族(きょうぞく)だとする説もあるし、さらに、明代になるまでに、民族の交雑が進み、純粋な漢民族はいなくなったと思われるが、これらの点は、とりあえず捨象する。)。
しかし、夏、殷、周は、黄河中下流域の中原(ちゅうげん)と呼ばれる狭い地域の王朝にすぎず、支那全土の統一王朝ではなかったし、秦と晋は、短命だったから、極論かもしれないが、漢民族が支那全土を統一支配したのは、漢と明の2王朝だけと言っても過言ではない。
しかも、漢(前漢)を建国した劉邦は、32万の軍勢を率いて、モンゴル系匈奴(きょうど)の冒頓単于(ぼくとつぜんう)率いる40万の軍勢と戦って敗れて、匈奴を兄、漢を弟として、漢の公主(天子の娘。皇女)を冒頓単于に差し出し、毎年莫大な貢物を匈奴に贈る代わりに、匈奴は、漢に手出ししないという条件で和睦し、50年間、漢は、匈奴の属国となった。
漢は、名分上、匈奴の縁戚となることにより、虎の威を借る狐として、劉邦は、粛清を行なって国内の地歩を固めたのだ。
我が国では遣隋使や遣唐使で馴染みのある隋も唐も、モンゴル人鮮卑族(せんぴぞく)の王朝だ。宗は、トルコ人沙陀族(さだぞく)だし、元寇の元は、ご存知の通りモンゴル人だし、清は、ツングース系満州女真族(じょしんぞく)だ。
つまり、長い間、支那は、漢民族以外の北方異民族によって支配されてきたと言っても過言ではない。
換言すれば、漢民族は、その歴史のほとんどを「被支配者」として生きてきたのだ。
それ故、支那の歴史を正しく理解しようと思えば、「支配者」である北方遊牧民族を「中心」に考察するのが妥当だ。
ところが、学校の教科書では、世界史を西洋史と東洋史に分けて、東洋史は、漢民族が「被支配者」であることを伏して、前述した中華思想に立脚して、漢民族を「中心」に叙述され、北方遊牧民族が「支配者」であることを伏して、北方遊牧民族を「周辺」民族(「夷狄」)として扱っている。
西洋史も、ヨーロッパ人を「中心」に叙述され、北方遊牧民族は、「周辺」民族(「barbarian」バーバリアン野蛮人)として扱われている。
しかし、これではユーラシア大陸の中心を占めるモンゴル系又はトルコ系などの北方遊牧民族が西洋と東洋を股にかけて世界史を動かしてきたことを正しく理解できない。
北方遊牧民族を中心に捉えれば、西洋史と東洋史を統合したユーラシア大陸の歴史に再構成できるのだ。
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