5 長江文明に言及しないのは変だよ
紀元前5000年頃に、支那北部の黄河流域の黄土で、黄河の氾濫を利用した雑穀(キビ、アワ)の農耕を中心に牧畜や狩猟が行われた。黄河文明だ。磨製石斧と彩文土器を特色とする。
紀元前2070年頃、最古の王朝である夏王朝があったとされ、司馬遷『史記』では殷の湯王に滅ぼされたとされる。文字の出土資料がないため、夏王朝の存在に疑問が投げかけられている。
紀元前1600年頃、黄河中下流域(「中原」(ちゅうげん)と呼ばれる平原)には、「邑」(ゆう)と呼ばれる血縁同士の集落があり、殷(いん)と呼ばれる王朝があった。殷墟と呼ばれる殷の遺跡には、宮殿、墓、住居だけでなく、甲骨文字が刻まれた青銅器が発見された。
紀元前11世紀頃、殷は、周によって滅ぼされた。周は、一族や功臣に土地を与え、世襲の諸侯とした。封建制だ。
これに対し、黄河文明と同時代に、長江流域に稲作を中心として漁労も行う独自の長江文明が興った。甲骨文字よりも古い巴蜀(はしょく)文字と呼ばれる未解読の文字や青銅器も存在していた。
支那中部を東西に貫く秦嶺(しんれい)山脈によって、支那は、南北に分断され、隔絶しているので、黄河文明と長江文明は、それぞれ独自に興ったと考えられている。
現在も、北側の黄河流域は、乾燥し、小麦文化であるのに対して、南側の長江流域は、温暖で、稲作文化であり、お互いに言葉が通じないほどの違いがある。
なお、最近では、習近平国家主席が目指す「中華民族復興」に合わせて、黄河文明と長江文明を包摂した「中華文明」という呼び方が中国で行われつつある。
ところが、長江文明について、日本の教科書で触れられることがない。前掲『もういちど読む山川世界史』にも載っていない。
支那の歴史は、黄河文明から説き起こされるのが一般的だ。これには、主に2つの理由が考えられる。
まず、ドイツの地理学者リヒトホーフェンが、中央アジアから支那に至る古代の東西交通ルートをSeidenstrassenザイデンシュトラーセン「絹街道」と名付け(これを受けて、イギリスの考古学者スタインがSilk Roadシルクロード「絹の道」と称し、日本に広まった。)、支那が秦嶺山脈によって南北に分断され、山脈の北側にある黄河流域の小麦栽培に着目して、ここが支那の古代文明発祥の地だと指摘した。これがきっかけで黄河文明が重視されるようになった。
次に、中華思想だ。春秋・戦国時代に、長江流域に、おそらく長江文明の子孫であろう楚、呉、越という国が興ったが、結局、秦に征服され、漢字文化圏に組み入れられ、漢民族に同化させられてしまった。
そのため、中華思想に基づいて、漢民族の黄河文明が「中心」であり、夷狄の長江文明は「周辺」と位置付けられたわけだ。
長江文明の子孫が北方の漢民族に追われて、南西の山岳地帯に逃げて「苗族」(ミャオぞく)になったとされ、急勾配の山に棚田を作ること、納豆・醤油・なれ鮨などの発酵食品を食べ、正月に餅を食べ、おこわを食べ、粽(ちまき)を食べ、蕎麦を食べること、日本の国生み神話と非常に似ている神話があることなど、日本人と似ている。顔もよく似ている。ミトコンドリアDNAハプログループの研究から苗族の祖先(つまり、長江文明の子孫)が日本に移住した可能性が指摘されている。
長江文明の遺跡で発掘された米は、ジャポニカ米だし、高床式倉庫や住居の構成なども日本と共通していることから、漢民族に追われた長江文明の子孫が水田稲作を日本に伝えたと考えるのが妥当だ。
ところが、教科書などには、「朝鮮半島を経由して日本に稲作が伝来した」とか、「朝鮮半島など大陸から日本に稲作が伝来した」とか、「弥生時代に朝鮮半島から渡来した渡来人が稲作を日本に伝えた」と記述されることが多い。最近は、朝鮮半島ルートを含む3つのルートを上げることもある。
いずれにせよ、まるで朝鮮に感謝しろと言わんばかりだ。
しかし、朝鮮半島経由ならば、日本で見つかった稲作の痕跡よりも古い痕跡が朝鮮半島で見つかっていなければならないのだが、日本で見つかった3000年前の稲作の痕跡よりも古い痕跡は、朝鮮半島では一切見つかっていない。
しかも、日本で見つかった古代の稲をDNA解析したところ、日本の各所に点在するRM1-b遺伝子を持つ稲は、長江流域の稲と同じ遺伝子構造であり、朝鮮半島には存在しないものだった(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明: 起源と展開 』NHKブックス)。
柳田國男の「海上の道」など、南方から沖縄を経由して水田稲作が伝わったとする説も有力だが、沖縄の貝塚時代に稲作の痕跡がないことから、可能性は低い。
先日述べたように、縄文時代に森林の狩猟・採集を中心とする日本独自の平和で平等な古代文明が形成されていた。
九州に渡ってきた長江文明の子孫たちは、縄文人と争うことなく受け入れられたからこそ、日本各地に縄文晩期の水田跡が残っているのだろう。
<追記>
『三国志』の「魏志倭人伝」には、「男たちは、大人も子供もみな、顔や体に模様の入れ墨をしている。昔から、使節が中国に使いするときには、みな自分のことを大夫(たいふ)という。夏王朝の少康(しょうこう)の子は、会稽(かいけい)の王とされると、髪を短くし体に入れ墨をして、それで大ヘビの害から身を守った。現在、倭の海人(あま)たちが、水にもぐって魚貝を獲るのに、入れ墨をしているのも、少康の子と同じように、それで大魚や水鳥を威圧しようというのである。のちにだんだん、入れ墨を飾りとするようになった。倭の諸国での入れ墨のしかたは各々違っていて、ある者は左に、ある者は右に、ある者は大きく、ある者は小さくというふうで、位によって差がある。」(藤堂・竹田・影山全訳註『倭国伝』講談社学術文庫、108頁)。
この入れ墨文化は、おそらくポリネシアなどの南方から沖縄経由で渡ってきた漁労を生業とする人々の文化だと思われる。
昔から、倭の使節は、みな自分のことを大夫と名乗っていたとある。「大夫」は、周王朝の職名で、偉い順に卿(ケイ)、大夫、士となる。臣下のうち、2番目の地位だと名乗っていたわけだ。「昔から」とあるだけでいつからなのかは不明だが、三国時代よりも以前から支那との外交があったことを示唆している。
面白いのは、漢民族の夏王朝の少康の子の入れ墨を例に挙げて、これと同様に、倭の海人の入れ墨も害悪から身を守るためだと説明している点で、公平性・客観性が見られるとともに、のちに入れ墨が飾りになったと述べている点だ。おそらく南方系の人々の入れ墨がファッションとして流行したのだろう。日本人の新しいもの好きは、この頃からあったようだ。
また、入れ墨が、身分の上下を表すようになったと述べている点も興味深い。
ところが、この入れ墨の文化は、完全に失われるわけではないが、多くの人々が入れ墨をしなくなった。それがなぜなのかが不明だった。
しかし、未読なのだが、民俗研究家で写真家の萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道』(大修館書店)によれば、萩原氏は、中国南部からタイ北部の少数民族(チベット族、リス族、リー族、タイ族、シャン族、ワ族、カレン族、イ族など)をほぼすべて調査した結果、苗族だけが入れ墨の習慣をもっていないことをつきとめたそうだ。
長江文明の子孫たちが漢民族に追われて九州に渡ってきて、水田稲作、高床式住居、青銅器など、当時の最新技術・文化をもたらした。縄文人たちは、目新しい文物に目を見張り、美味しいお米にすっかり魅了されただろう。そうでなければ、これほど短期間に日本中に水田稲作が普及するはずがない。
この長江文明の子孫たちも、現在の苗族と同様に、入れ墨をしていなかったはずだ。そこで、入れ墨をしないことが逆にかっこいいと流行し、入れ墨は遅れている・劣っていると思われるようになったため、入れ墨文化が衰退したのではないか。
このようなマイナスイメージを持たれた入れ墨が罪人の印とされるようになったのも、これで理解できる。
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