1 ご神木
自治体職員研修に出講する際には、電車が遅れた場合に備えて、現地に1時間前に到着するよう早めに家を出る。昔は、電車の中で本を読んでいたのだが、今は、目が辛いので、本を読まずに、目を閉じて考え事をしている。それを休みの日や帰宅後にこのブログに書いているわけだ。
昔、電車の中で通読したのが『万葉集』だ。通読しただけで、暗記はしていない。
その中に、大伴家持(おほとものやかもち)の祖父である大納言兼大将軍大伴卿、つまり大伴安麻呂(おほとものやすまろ)の歌がある。
「神樹(かむき)にも手は触るとふを うつたへに 人妻といへば触れぬものかも」(『万葉集』巻4-517)
触れることは罪であるとされるご神木にさえも手を触れることがあるというのに、あなたが人妻だからといって、絶対に手を触れてはいけないのだろうか、というような意味だ。
人妻への恋に苦悩していたのだろう。
この歌から明らかなように、ご神木に触れることは、罪なのだ。思わず触れたことがあるのでは?
ご神木以上に人妻に手を出すことが許されなかったわけで、当時の倫理観の高さが興味深い。
とはいえ、今日は、不倫の話をしたいわけではない。先日、桜の話をしたが、話の腰を折るため、述べられなかった森の文明について、徒然なるままに述べようと思う。
2 木霊
先史時代から日本では、自然のあらゆるものに神が宿るという八百万(やおよろず)の神信仰が続いている。アミニズム的信仰だ。
科学万能の現代に生きる我々でさえも、旅先で訪れた土地の雄大な景色、山、川、滝、岩石、木々などに畏怖の念を抱くとともに、神々(こうごう)しさを感じるのだから、古代の人々ならば、なおさら自然界の森羅万象に神霊(しんれい。神のみたまの意)を感じ取ったに違いない。
例えば、我々は、山頂に到着すると、思わず「ヤッホー!」と叫んでしまうが、「ヤッホー」の由来には諸説あり、不明だ。
日本では、修験道の行者が山頂へ登ることはあったが、一般人が山菜採りや焚き木拾いなどのために山に入ることはあっても、登山をすることは皆無に等しく、近代的な登山は、幕末・明治初期に外国人が始めたのが嚆矢(こうし)とされている。
それ故、英米人があげる歓声yoo-hooユーフー又はドイツ人のjohooヨッホーを日本人が聞き違えて「ヤッホー」と真似したという説に一票投じたい。
「ヤッホー」の由来がなんであれ、古代の人々も、山や谷に声が反射して聞こえる山彦(やまびこ)を知っており、山彦は、木に宿る神霊である「木霊」(こだま)の仕業だと考えられてきた。己が発した同じ言葉が遅れて返ってくるので、不思議であり、神秘的だったからだろう。
木に「木霊」が宿っているように、その他の植物にも神霊が宿っていると考えていたからこそ、植物を大切にし、愛(め)でる意識が生まれ、花見や植林の文化が生まれたのだ。
花見については、先日述べたので、しばらくの間、植林について述べよう。
3 植林と森林保全
日本では、植林がかなり古くから行われていたようだ。
最古の記録は、『日本書紀』の「神代」にある。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、髭を抜いて放つと杉の木になった。胸の毛を抜いて放つと檜(ひのき)になった。尻の毛は槇(まき)の木になった。眉の毛は樟(くすのき)になった。そしてその用途をきめられて、「杉と樟、この二つの木は舟をつくるのによい。檜は宮をつくる木によい。槇は現世の国民の寝棺をつくるのによい。そのための沢山の木の種子を皆播(ま)こう」と言われた。
神話の時代から神様自ら植林を行ったと伝承されているわけだ。
『万葉集』巻10-1814にも、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が詠んだ、「古(いにしえ)の 人の植ゑけむ杉が枝(え)に 霞(かすみ)たなびく春は来ぬらし」(昔の人が植えたという杉の枝に霞がたなびいている。春が来たらしい、というような意味だ。)という歌がある。
時代が下るにつれて、大規模な植林が行われるようになり、室町時代から江戸時代にかけて全国各地で産業としての植林が盛んに行われた。
これには理由がある。
すなわち、飛鳥時代になると、法隆寺・東大寺大仏殿などの寺社仏閣や都の造成など、建築資材としての木材の需要が高まり、伐採が盛んに行われるようになった。また、食糧増産のため、開墾が行われて森林が伐採されて田畑になり、人口が増えると、薪や木炭の需要も高まり、さらに伐採が行われた。そのため、森林が荒廃した。
特にたたら製鉄、製塩、窯業(ようぎょう)には、燃料として大量の木材が必要で、森林の再生能力を超える伐採が行われたため、これらの産地では、山の荒廃が目立ち、禿げ山になってしまった。
江戸時代になると、江戸や大坂などの大都市では大火がしばしば発生し、建築資材としての木材の需要が高まり、全国各地で伐採が行われた。
そこで、『日本書紀』の天武天皇5年(676年)5月7日、現在の奈良県飛鳥川上流の「南淵山(みなぶちやま)、細川山(ほそかわやま)は草木を切ることを禁ずる。また畿内の山野の、もとから禁制のところは、勝手に切ったり焼いたりしてはならぬ」と天武天皇が日本初の森林伐採を禁ずる勅令(禁伐令)を出された。
全国各地で盛んに植林が行われるとともに、森林の利用と保全の両立を図るため、森林利用を自主的に制限する「山仕法」(やましほう)と呼ばれる方法が採られ、このような村落による共同利用形態を「入会」(いりあい)という。
入会に関して認められた慣習上の権利を入会権といい、民法第263条・第264条に規定がある。また、入会権に類似する制度として、地方自治法第238条の6に規定する旧慣使用権がある。
また、森林を20区画に分けて、毎年1箇所だけ伐採し、最初に伐採した箇所に戻るまでに20年かかるので、その箇所は20年育った森林になっている、というやり方で安定的・継続的な伐採が行われた。
このような管理が行われた森林を「番山」(ばんやま)・「順伐山」(じゅんぎりやま)という。
さらに、森林を保護するため、伐採を禁止する「留山」(とめやま)、特定の樹木の伐採を禁止する「停止木」(ちょうじぼく)が定められた。
江戸時代には、河川の氾濫対策として森林整備が行われたし、また、土砂の流出防止のための植林や海岸砂防林も各地で盛んに行われた。
4 植林を知らぬが故の悲劇
アミニズム的信仰は、原始的で、世界各地にあるから、植林や森林の保全なんて世界中どこでもやっていたはずだと思われるかもしれないが、意外なことに、決してそうではないのだ。
例えば、西洋文明の源流の一つである古代ギリシャでも、植林が行われなかったため、禿げ山だらけになってしまい、石の文化になってしまった。
ところで、トロイの遺跡を発見したシュリーマン『古代への情熱 シュリーマン自伝』(岩波文庫)は、誰もが一度は読んだことがあろうが、トロイア戦争の原因は何かと問われたら、答えに窮するかも知れない。
というのは、ホメロス『イーリアス(上)(下)』・『オデュッセイア(上)(下)』(岩波文庫)、クイントゥス『トロイア戦記』(講談社学術文庫)、アイスキュロス『アガメムノーン』(岩波文庫)には、トロイア戦争の原因が載っていないからだ。
コルートス/トリピオドーロス『ヘレネー誘拐・トロイア落城』(講談社学術文庫)の「ヘレネー誘拐」によると、オリンポスで開かれた結婚披露宴に唯一招待されなかった不和の女神エリスが怒って、「最も美しい女神へ」と書いた黄金の林檎(不和の林檎)を祝宴に投げ入れたところ、誰が一番美しいかを巡ってへーレー、アテーネー、アプロディーテーという三人の女神が対立し、その判定をトロイの王子パリスに委ねた。
パリスは、魅力あふれる妻を進呈しようと言った女神アプロディーテーに黄金の林檎を与え、アプロディーテーの言葉に従ってスパルタ王メネラーオスの妃ヘレネーを連れ去ったことが原因で、トロイア戦争が起きたそうだ。
実によくできた神話だ。
しかし、最近の環境考古学の研究では、ギリシャがトロイの森林資源を奪うためだったのではないかと考えられている(安田喜憲『森と文明の物語』ちくま新書、88頁)。
木は、燃料、家屋、家具調度品、什器、舟、武器などの原材料として、現在の石油以上の価値があった。降雨量が少ない地中海性気候の下、植林を知らぬギリシャは、森林の再生能力を超える過度の伐採によって、オリーブとブドウしか育たない痩せた土地になってしまった。
そこで、豊かな森林がまだ残っていたトロイからこれを強奪しようとしたわけだ。
ギリシャは、トロイの木馬作戦が功を奏して、トロイア戦争に勝利し、森林を奪ったけれども、植林をしないので、結局、貧困から抜け出せなかった。
ヘロドトス『歴史』(岩波文庫)にもあるように、ペルシャ戦争で、ギリシャに侵攻し、ギリシャの諸都市を占領したペルシャは、ギリシャには戦利品が乏しく、あまりにも貧しいことに驚いているぐらいだから、植林をしなかったツケは、かなり深刻だったと考えられる。
ギリシャ人自身も、貧しいことを認めている。
例えば、元スパルタ王でペルシャに亡命していたデマラトスは、ペルシャの大王クセルクセスに対して、「そもそもわがギリシアの国にとって昔から貧困は生まれながらの伴侶のごときものでありました。しかしながらわれわれは叡智ときびしい法の力によって勇気の徳を身につけたのであります。この勇気があればこそ、ギリシアは貧困にも挫けず、専制に屈服することもなく参ったのでございます。・・・ギリシアに隷属を強いるごとき殿の御提案は、絶対に彼らの受諾するところとはなりませぬし、さらにはたとえ他のギリシア人がことごとく殿の御意に従うことがあろうとも、スパルタ人のみは必ず殿に刃向い戦いを交えるであろうということでございます。」と答えている(ヘロドトスの『歴史(下)』(岩波文庫)66頁)。
「叡智ときびしい法の力によって身につけた勇気の徳」の有無が、同じ半島民族で植林を知らず貧しかった点で共通するギリシャ人と朝鮮人との違いだと言えよう。
ギリシャの禿げ山で思い出すのは、和辻哲郎『風土』(岩波文庫)の一節だ。和辻は、地中海について、次のように述べている。
「冬の海にはなつほどの磯の匂いがないとしても、しかし我々の海にはもう少し海の匂いがあると思う。自分にはとにかくこの「海の感じのない海」が珍しく感ぜられたので、透き徹った海の水をのぞいて回ったことがある。渚に近い海底や海底の岩には、どこにも植物らしいものが見えず、また貝殻の付着しているらしい影も見えなかった。そういうものがここの海に全然生育していないとは考えられぬが、しかし自分の眼にはついに触れなかったのである。そのためここの海水の色の透き徹った化学的着色らしい感じが特に強く自分の心に烙(や)きついた。・・・これは全く死の海である。」(80〜81頁)。
豊かな森を失って、禿げ山だらけになり、海のプランクトンの餌となる栄養素が川から海へ流れ込まなくなって、海がすっかり痩せてしまったのが原因だ。
メソポタミア文明(シュメール文明)も、黄河文明も、ギリシャ文明と同様に、植林をせず、森林の再生能力を超える過度の伐採により禿げ山になった。これが文明衰亡の一因だ。
このように見てくると、日本の植林文化・森林保全文化の特異性が浮き彫りになる。
5 日本の森の文明
アミニズム的信仰は、原始的で、世界各地にあったのに、なぜ植林や森林の保全が日本にのみ行われたのか。
従来の考古学では、土器は、農耕民が使用する物だと考えられてきた。約1万年前に始まった新石器時代は、地中海東部で農耕集落が登場するまでは、獲物を追い求めて移動する狩猟採集生活であり、割れやすい土器は、移動にそぐわないと考えられたからだ。
ところが、現時点で世界最古の土器は、久保寺南遺跡(新潟県十日町市)で発掘されたもので、約15000年前〜11800年前のものだ。
2013年『Nature』4月18日号で発表された論文によると、ヨーク大学(英国)の考古学者であるOliver.E.Craigらがこの土器を調べた結果、この土器に脂質が沈着していることがわかり、土器が魚の調理に使われていたらしいことが分かった。
つまり、移動型の狩猟採集民が土器を使用していたわけで、従来の考古学の定説が覆ったのだ。
いずれ大陸でもっと古い土器が発見されるだろうが、大事なことは、土器の古さではなく、日本では1万年以上もの長きにわたって、森林の狩猟・採集を中心とする縄文文化を維持・発展させた点にある。
すなわち、長く続いた氷河期が終わりを告げ、13000年前の大規模かつ急激な温暖化に伴って、西アジアでは大型哺乳動物が姿を消し、農耕が始まった。農耕社会へと移行せざるを得なかったと言ってもよいだろう。
開墾により、次々と森が消滅していった。農耕にとって邪魔な木を植えようという発想が生まれないのも当然と言える。
農耕は、古代文明を創り出しただけでなく、富の蓄積・独占という新たな欲望を生み、人間同士の闘争・戦争を生んだ。その結果、富と権力の集中により王制が誕生し、人間同士の支配と隷属が生まれた。
以前述べたように、漢字の「争」が鋤鍬(すきくわ)を引っ張り合う形であり、古代支那の貨幣(布幣)が鋤鍬のミニチュアであること、また、漢字「闘」は、二人の人が壺に入った食料と斤(おの)を奪い合っている形であることは、これを見事に象徴している。
また、支那や西洋において木を切る斧が王の象徴であったことも、これを象徴している。
かつて栄耀栄華を極めた古代文明は、森林破壊によって生まれ、森林破壊によって衰亡した砂上の楼閣であった。
この大規模かつ急激な気候変動は、当然日本にも、植生と動物相の大変化をもたらした。
しかしながら、幸いなことに、様々な地理的要因が奇跡的に重なり合い、日本列島では、従来の草原が縮小し、替わってブナやナラの温帯の落葉広葉樹の豊かな森が広がった。ドングリ、栗、胡桃(くるみ)、山菜、猪、鹿、鮭、貝など、四季折々の自然の恵みに満ち溢れるようになったのだ。
その結果、先人たちは、草原に生息する大型哺乳動物を追い求めて移動する狩猟・採集生活から、植生と動物相を異にする森林の狩猟・採集を中心とする生活に転換を余儀なくされたのだが、これは、決して容易なことではない。
しかし、前述したように、先人は、気候変動の前後に、この環境の変化に最も適応した土器を発明した。
この画期的な技術革新によって、森林の狩猟・採集を中心とする生活への転換という困難を克服し、森と共存する文明を独自に創り出したのだ。
これまで温かい食べ物と言えば、焼き物しかなかったが、土器で煮炊きすることにより、安全で温かくて美味い煮物や汁物を食べることができる。
しかも、土器を使えば、堅い肉や植物を柔らかくして食べることができるし、ドングリをアク抜きして食べることができるし、保存食をつくることもできるし、食べ物を貯蔵することもできる。
つまり、土器を用いることにより、森林がもたらす豊かな自然の恵みを最大活用できるようになったので、四季折々の旬の食べ物を食べ、冬に備えて食料を備蓄すれば、飢える心配がなくなったのだ。
その結果、定住が可能になった。これまでの移動生活では足手纏(まと)いだとして泣く泣く置き去りにせざるを得なかったであろう病人・怪我人・高齢者も、定住化により、家族と一緒に暮らせるようになった。
病人や怪我人を治療するため、薬草の知識・経験が蓄積された。また、同様に、食べられる動植物の知識・経験が豊富になった。1万数千年以上もかけて蓄積された知識は、今も役立っている。
そこで、薬草や木の実の成る栗の木などを居住地近くに栽培するようになった。
この点で興味深いのは、冒頭で述べたご神木だ。樹齢千年の木を除き、我々日本人が考える霊木は、杉、榊(さかき)、欅(けやき)、榎(えのき)、樒(しきみ)のような薬効のあるものに限られている。村落共同体・子孫のためを思って大切にしてきた証拠だ。
新緑と紅葉を繰り返し何百年も生き続ける樹木に生命・「木霊」(こだま)があると考え、その生命力・木霊の保護を受けて生かされているという生活意識が日本人にあればこそ、ご神木という概念が生まれたのだ。これも縄文時代の智慧に基づくのだろう。
また、焼畑による陸稲栽培も行われた。この農業の知識・経験が後の弥生時代に水稲栽培の普及に役立つことになる。
さらに、豊かな自然の恵みは、平均寿命を延ばした。
すなわち、1967年の小林和正氏の研究によれば、縄文人の平均寿命は、男性で31.1歳、女性で31.3歳で、15歳まで成長した場合の平均余命が16.2歳(=31.2歳で死亡)とされたのだが、2008年の研究によれば、1.5倍にまで伸びて46歳あまりなのだそうだ。近世の「人間五十年」に近かったわけだ。
平均寿命が46歳ならば、技術や文化の継承発展が可能になる。もっと時代が下るが、元服が15歳だったことを考えると、平均寿命が46歳であれば、子や孫に技術や文化を伝承できるからだ。
そして、縄文時代前期の福井県鳥浜貝塚の調査によると、春は山菜、夏は魚貝類、秋は木の実、冬は猪や鹿を食していたことが分かった。しかも、猪や鹿は、一年中いるのに冬にしか狩猟せず、幼獣の骨が少ないことから、幼獣を保護していることまで分かった。飢える心配をする必要がないため、来年以降のことも考えて、獲り尽くすことをしなかったのだろう。
自然の再生力を超えない範囲内で資源を利用するとともに、多様な資源を利用することによりリスクを分散していたわけだ。
このように自然のサイクルに従って生活すれば、長生きできる以上、何も好き好んで他人と争って物を奪い合う必要がない。縄文社会は、血縁部族社会だから、なおさら争うよりも仲良く暮らすことに重きを置いたはずだ。
現代まで続く和の精神が縄文時代に醸成されたのだ。
この点、民族学者の佐々木高明氏は、東南アジアの焼畑民や北米のネイティブ・アメリカンの社会では、偏った富を一気に再分配するシステムがあることを指摘した上で、縄文時代の日本にも、富の再分配システムが存在したのではないか、と述べている(『日本史誕生』集英社)。
つまり、闘争の結果、一部の者に富と権力が集中し、多数の人間を支配し隷属させるという他の古代文明に共通して認められる階級社会が縄文時代には生まれず、人々は、豊富な知識と経験を有する高齢者を敬いながら平等かつ平和に暮らしていたと考えられるのだ。
これを裏付ける証拠が武器の不存在だ。驚くべきことに、縄文時代の遺跡からは、人殺しの武器が出土しておらず、武器が出土するのは弥生時代以降なのだそうだ。つまり、先人たちは、1万年以上にわたって平和を維持してきたのだ。
また、縄文遺跡には、王家の宮殿に相当する建物がない。
さらに、以前、指摘したように、漢字「罪」(ザイ)には「つみ」という訓読みがあるのに、漢字「罰」(バツ、バチ)には訓読みがないことも、縄文社会が罰を必要としない社会だったことを物語っている。
他の古代文明には全く見られない、森林の狩猟・採集を中心とする日本独自の平和で平等な古代文明が形成されていたのだ。
この平和で平等な古代文明は、様々な地域から日本列島に渡ってきた部族たちを包容し、日本人の民族性の基礎を確立してくれた。
そのお蔭で、弥生時代や遣隋使・遣唐使を通じて支那文明を移入する際に、日本人の民族性に適合しない制度(ex.宦官(かんがん))や文化(ex.cannibalismカニバリズム食人)を主体性をもって取捨選択し、日本人の民族性・日本の独自性を維持できたのだ。
先人たちが豊かな自然の恵みにどれほど感謝したか想像に難くない。神代の時代から行われてきたとされる植林も森林との共存を図るための先人の智慧であると同時に、神事だったのではなかろうか。
1万年以上も続いた縄文時代の森の文明があったればこそ、支那文明を取り入れた弥生時代以降も、前述したように、試行錯誤しながら植林と森林保全の文化を幕末まで継続することができたのだ。
お蔭で、現在、国土の約7割が森林だという。
6 森の文明の危機
イギリスの歴史学者アーノルド・J・トインビーは、『歴史の研究』(中央公論社)において、日本を中華文明とは異なる独自の文明圏として捉えている。
アメリカの国際政治学者サミュエル・ハンチントンも、『文明の衝突』(集英社)において、日本を独自の文明圏として捉えている。
故人である両氏は、縄文時代に関する最新の知見を知る由(よし)もないが、その卓越した知性により、日本文明の独自性に気付いていた。
西洋文明は、神の下に人を置き、人の下に自然を置き、自然を支配し破壊することによって成り立っている。森林破壊によって衰亡した古代文明と同じ道を歩んでいるのだ。
賢(さか)しらな西洋人は、上から目線でSDGs(Sustainable Development Goals)を声高に叫んでいる。
しかし、我々日本人は、世界に先駆けて、縄文時代から幕末まで、1万数千年以上もの長きにわたってSustainableサステナブル「持続可能な」社会を独自に生み出し実践してきた実績があるのだ。
弥生時代以降、支那文明を移入した結果、森林を破壊し、危機に直面したが、前述したように、神代の時代から続く植林と森林保全によってこれを乗り越えてきたのだ。
ところが、西洋文明の忠実な下僕となってその恩恵に浴している我々現代日本人は、過去と将来の世代に想いを馳せることなく、森林を伐採してメガソーラを建設したり、産業廃棄物を森林に不法投棄したり、水源地を外国人に売ったりするなど、命の源である森林を破壊し続け、国土の荒廃から目を背けている。
支那文明の移入による森林破壊が第一の危機とすれば、明治以降の西洋文明の移入による森林破壊は第二の危機といえる。
左翼は、環境問題を自らの勢力拡大の絶好の機会と捉えて、全体主義的アプローチで規制しようとやっきになっているが、ご先祖様から預かり、子孫へと受け渡すべき相続財産たる森林の破壊をこのまま放置すれば、「ご先祖様に合わせる顔がない」、「神様に申し訳ない」、「たたりがある」という縄文時代から続く日本人の生活意識(世俗化・習俗化した宗教意識)を甦らせることが今切実に求められているのではなかろうか。先人の叡智を学び、これを継承し、子孫へと伝えていく責務があるのだ。過去・将来の世代のことを考慮しない法学の責任は重い。
地球温暖化が事実かどうかについては、なお検討の余地があるが、仮に地球温暖化が事実だとすれば、我々はその過渡期にいるわけで、かつて縄文人たちが土器を発明することによって大規模かつ急激な気候変動に見事に適応して独自の森の文明を築き上げたように、子孫たる現代に生きる我々も、技術革新によって地球温暖化を乗り越え、新たな文明を築くことができないはずはない。後進に期待したい。
7 歴史教育の弊害 <追記>
歴史を共産主義社会へ向かう発展の過程であると捉える進歩史観が我が国の歴史学会を牛耳っている。そのため、過去に遡(さかのぼ)るほど暗黒時代ということになる。
しかも、なんでもかんでも日本が悪いという反日自虐史観が支配しているので、日本人に自信と誇りを持たせないことが肝要とされている。
私が子供の頃は、小中学校の社会の教科書には、縄文時代について、穴を掘って柱を立て茅(かや)で屋根を葺(ふ)いた竪穴式住居と呼ばれる見窄(すぼ)らしい家に住み、磨製石器を用いて狩猟採集を行って貧富の差が生じないほど貧しい生活を営み、縄目が付いた分厚くて素焼きの脆(もろ)い縄文式土器を用いて食事をしていた、というようなことが書かれていた。
そのため、縄文人というのは、原始人に毛が生えた程度の貧しい暮らしをしていたイメージだった。
世界史年表を見て、同時代の四大河文明(エジプト、メソポタミア、インダス、黄河)が農耕を行い、文字や金属器を使用し、統一国家を形成していたことに比べると、なんと遅れていたことか、と思ったものだ。
さすがに今は積極的意義を教えているだろうと思って検索してみたら、例えば、中学受験や高校受験向けの歴史について、縄文時代のポイントを書いてある下記の2つのサイトを見て驚いた。私が子供の頃と全く変わっていなかった。
要するに、間違ったことは教えていないのだが、前述した縄文時代の森の文明が果たした人類史的意義や日本人の民族性に及ぼした影響をまったく教えていないのだ。日本人に自信と誇りを持たせないためだろう。
先ほど、後進に期待したいと述べた。私は、棺桶に片足を突っ込んでいるので、第二の危機が顕然化する前に死ぬからよいが、後進がこのような歴史教育を受けていては、第二の危機を乗り越えられるかどうか心許(もと)ない。
学校や塾には期待できない以上、家庭教育に期待するしかないのだが、社会に出て、日々の仕事や家事に追われながら、消費文化に毒されて流行を追い求め、幼稚なディズニーランドやUSJなどに現(うつつ)を抜かしている現代の親のうち、縄文時代に想いを馳せる人が果たしてどれだけいるのか。況(ま)してや縄文時代の積極的意義を理解している親がどれだけいるのか。
暗澹(あんたん)たる気持ちになってしまった。。。
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