同期の桜 <追記>

 今日8月15日は、以前述べたように、「終戦記念日」ではなく、「ポツダム宣言受諾の日」だ。

毎年、戦争関連の行事が行われ、テレビニュースや新聞記事で取り上げられる。

 そこで、季節外れだが、『同期の桜』にちなんで、桜の話をしようと思う。

 『同期の桜』と言えば、以前このブログのどこかに書いたが、昔、広島県庁へ出講した際に、前泊してくれと言われ、研修日の前日に広島入りしたのだが、何もすることがない。

 ビジネスホテルの机に置いてあった観光パンフレットをたまたま見たら、江田島の海軍兵学校(旧帝国海軍の士官学校)が今も残っており、海上自衛隊によって管理されていることを知って、ふらっと船に乗って見学に行った。

 初めて訪れた場所なのに、なぜか土地勘があって、この角を曲がれば何があり、あの角を曲がると何があるかが分かった。海軍兵学校の建物の中も部屋の配置や階段・トイレの場所なども、なぜか分かっていた。dejavuデジャヴー「既視感」というやつだ。生まれて初めての不思議な体験だった。

 案内役の元海上自衛官が、「これが同期の桜です」とおっしゃったのだが、なぜか「違う。もっと大きかった。」と思ってしまった。理由はない。ただ、そう思ってしまったのだ。「ひょっとしたら、自分はここの卒業生だったのか?」と実に馬鹿げた考えが脳裏をよぎった。

 海軍兵学校の全卒業生の証明写真を見つけた。はやる気持ちを抑えつつ、ドキドキしながら恐る恐る見ていたのだが、見学時間が足りず、ほんの一部しか見られなかった。

 もし行く機会があれば、私にそっくりな卒業生がいるかどうか確認してほしい。あッ!私が若い頃を知らないか。。。苦笑

 海軍兵学校の事実上の校歌『江田島健児の歌』

 オカルトめいたくだらない話は、これぐらいにして、桜の話に戻ろう。


 今でこそ桜は、日本を代表する花だが、『万葉集』の時代には、梅が流行していた。梅は、支那(シナ。chainaの地理的呼称)から来た花だ。

 後漢や魏で作られた銅鏡が古墳の副葬品とされたように、梅は、文明開花の象徴だったのだろう。『万葉集』には、梅を詠んだ歌は、萩に次いで多く、119首あるのに対して、日本原産の桜を詠んだ歌は、その約3分の1にすぎないからだ。


 梅の枝を手折(たお)って、女は髪に、男は冠に挿(さ)して、髪挿(かみざし)と呼び、のちに簪(かんざし)と呼ばれるようになった。

 梅の簪は、古代の装束に似合っておしゃれで、きっと大流行したのだろう。


 遣唐使が終了して、国風文化が花開く平安時代になると、日本原産の桜(野生種である山桜。染井吉野は、この時代にはない。)が歌に多く登場するようになる。例えば、『古今和歌集』には、桜が梅の2倍以上詠まれている。


 「さくら」(桜)の由来については、諸説あるが、『古事記』や『日本書紀』に登場する、天照大御神の孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)との間に海幸彦・山幸彦を産んだ木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)という女神の名の「さくや」が「さくら」(桜)になったと言われている。


 花を鑑賞することは、洋の東西を問わないが、木の下で花を鑑賞する花見は、日本独自の方法だ。女神に由来する桜の花の精気を全身に浴びて健康長寿にあやかろうというわけだ。


 家紋、衣服、皿、調度品など、身の回りの品々に花模様を付けるのは、この発展形と言える。

 また、咳をすると精気が逃げてしまうので、咳止めの効能がある桜の花を梅酢と塩で漬けて、お湯を注いだ「桜湯」をお見合いや婚礼の席等で飲む日本独自の風習も、この名残りと言える。「お茶を濁す」というように、お茶をお見合い等の席で飲むと、縁起が悪いからでもある。


 なお、巷(ちまた)では「桜の木の下には死体が埋まっている」というフレーズが広まり、半(なか)ば都市伝説化しているらしい。

 梶井基次郎の短編小説『櫻の樹の下には』(1931年)の「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。」という冒頭の文章にインパクトがありすぎたからだろう。

 しばしば無知な大衆は、フィクションを事実だと誤信するものだ。「桜の木の下には死体が埋まっている」ならば、豊臣秀吉をはじめ昔の人々が花見なんぞするものか。木花之佐久夜毘売も泣いていよう。


 花見は、咲き誇る桜の花の精気を浴びて、自らの生命力を高めて健康長寿を願うだけでない。

 「さくら」(桜)の「さ」は、田の神様で、「くら」は、神様の座る場所という説もある。春になって山からおりてきた田の神が宿る木が桜であり、神人和合して、楽しく飲めや歌えやの宴会を行なって村落共同体の連帯意識を確認し合い、さらにこれを向上させ、豊作を願うものでもあったのだ。


 江戸時代になると、花見は、今も続く庶民の一大イベントになり、レジャー化した。お花見弁当の料理本まであったぐらいだ。こんな国は、世界広しといえども、日本だけだ。それだけ精神的にも経済的にも豊かだったということだ。


 ところが、桜の意味が明治に変わってしまった。


 江戸時代後期の国学者である本居宣長(もとおり のりなが)の「敷島(しきしま)の大和心(やまとごころ)を人問はば朝日ににほふ山桜花」という吉野の桜を詠んだ歌がある。

 宣長が還暦に描いた自画像に「筆のついでに」と前置きし、賛として書いたものにすぎない。「大和心(やまとごころ)」を視覚的に「朝日ににほふ山桜花」(朝日に輝き精気に溢れる山桜花。今風に言えば、朝日に映(ば)える山桜花)に譬(たと)えたにすぎないのだ。


 ところが、これを平田篤胤(あつたね)の門下で、幕末・明治初期の国学者である津和野藩士大国隆正(おおくに たかまさ)が絶賛した。

 国粋主義者・軍国主義者・右翼などがこぞってこの歌を持ち上げ、吹聴(ふいちょう)した結果、桜の花の散り際(ぎわ)の潔(いさぎよ)さこそが、「漢意(からごころ)」とは異なる「大和心(やまとごころ)」であると曲解されるようになってしまった。


 古来、生命力・健康長寿の象徴だった桜が、日本人の死に際の潔さという死の美学に変質してしまったのは、何たる皮肉だろうか。

 元より、これは宣長の本意ではない。宣長は、「大和心(やまとごころ)」を、いわば朝日に輝き生命力が溢れ匂い立つ山桜花のようなものだと視覚的に捉えて言っているにすぎないからだ。


 ただ、この桜に譬えた死の美学は、大国隆正や国粋主義者・軍国主義者・右翼のオリジナルではない。

 今では諺(ことわざ)になっている「花は桜木 人は武士」(「花では桜がすぐれており、人では武士がすぐれている。」という意味。『精選版 日本国語大辞典』小学館)がオリジナルだと思う。初出が、浄瑠璃・仮名手本忠臣蔵(1748年)だからだ。

 江戸時代に、桜の華やかで散り際の潔さを武士のあるべき姿とする考え方がすでに生まれており、仮名手本忠臣蔵を通じて、一般庶民の間にも普及していたからこそ、国粋主義者・軍国主義者・右翼のプロパガンダが大衆に受け入れられてしまったわけだ。


 ちなみに、漫画・アニメ『ドカベン』の岩鬼 正美(いわき まさみ)は、これをもじって「花は桜木 男は岩鬼」と言い、漫画・アニメ『スラムダンク』の桜木花道(さくらぎ はなみち)は、これをもじって「花は桜木 男は花道」と言っている。

 どちらを連想したかによって、世代が分かる。笑


 この桜に譬えた死の美学を端的に表したのが軍歌『同期の桜』だ。

 この歌は、テンポが良くて歌いやすく、勇ましくありながらも哀愁に満ちているのだが、他方で、私には、国のために潔く死ぬことが「大和心」だという風に、兵隊の命を軽んじている日本軍に対して、批判しても無駄だという諦観がベースに流れているように聴こえるのだ。

 零戦は、世界一の戦闘機だと言われたが、パイロットの脱出装置が付けられていない。しかもペラペラ装甲だ。すべての戦闘機がそうだった。機体を軽くするしかなかったことは理解できるが、生命軽視にもほどがある。いわんや特攻作戦をや。


 戦後80年、もう一度『同期の桜』を聴いて、愛するもののために戦い、その幸せを願いながら死んでいった英霊たちに想いを馳せたいと思う。


<追記>

 同期の桜 歌詞と原曲について



 


 











 




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