今も生きているプロパガンダ

 今朝、ブログを書いたら、勝手に消された。なにか不都合があるのだろうか?

表現を一部変更して、再アップする。


 下記の記事によると、宝塚歌劇団宙組公演で使用している軍歌『海ゆかば』の歌唱を取りやめるそうだ。公演を見たファンから第2次世界大戦の象徴ともいえる軍歌の使用を疑問視する声が相次いだからだそうだ。

 抗議するのも自由、使用を中止するのも自由、好きにしたらいい。


 しかし、『海ゆかば』自体には、なんの罪もない。


 戦後、GHQのWar Guilt Information Programウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム「戦争責任広報計画」(日本人に戦争に対する罪悪感を植え付けるプロパガンダ)に基づいて、NHKラジオ『真相はかうだ』が放送され、公文書で「大東亜戦争」という用語の使用が禁止され、終身・国史・地理の授業停止と教科書の回収・改訂が行われた結果、反日的自虐史観が流布した。

 詳しくは、慶應大学教授江藤淳『閉ざされた言語空間』(文春文庫)、櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く―戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』(小学館文庫)に譲る。


 戦後になって、『海ゆかば』は、軍国主義の歌だ、右翼の歌だ、天皇のために死ねという歌だ、戦争賛美の歌だなどと散々罵倒されてきたのも、このプロパガンダの一環だ。


 以前、ブログで触れたように、この歌が詠まれた奈良時代に、右翼(=国粋主義的国家社会主義)も軍国主義もない。この歌詞のどこにも天皇のために死ねとか、戦争を讃美する要素はない。

 一家の大黒柱である天皇と心を一(いつ)に一丸(いちがん)となって国難を乗り越えましょう、そのためにたとえ死んでも悔いはありません、という歌なのだ。

 己の命よりも大切であるものを守るため、自ら勇気を奮い立たせて、天皇と心を一にして国難を乗り越えようとする「高貴なる自由」を詠った歌であって、西洋におけるNoblesse obligeノブレス・オブリージュ(高い地位には身を挺してでも守るべき責務がある)と同じだ。


 いやいや歌詞自体は、仮にお前の言う通りだとしても、大本営発表の際に『海ゆかば』が流されたから、『海ゆかば』には、先の大戦の忌まわしき記憶なり色彩なりが色濃く残っているのだ、という主旨の反論があるやもしれぬ。


 先の大戦をどのように評価するかに関わってくるので、水掛け論になろう。


 少なくとも言えることは、曲調からして明らかだが、大本営は、戦地で亡くなった将兵たちの高貴なる死に哀悼の意を表して、鎮魂歌として『海ゆかば』を流したのであって、将兵の士気を鼓舞するためではない。戦意高揚のためならば、威勢の良い『軍艦マーチ』でも流したはずだ。また、戦争を讃美するものでもない。当時の国民ならば、みな理解していたことだ。戦後生まれが色眼鏡で勝手なことを言っているようにしか思えない。


 『海ゆかば』は、「第二の国歌」とも呼ばれるが、外国の国歌とはずいぶん色彩が異なる。

 例えば、フランスの国歌であるLa Marseillaiseラ・マルセイエーズは、フランス革命の革命軍(王党派から見たらテロリスト)の兵士の士気を鼓舞するための歌だ。歌詞の和訳を読めば明らかだが、これこそが士気を鼓舞する歌なのだ。曲調も全く異なる。鎮魂歌である『海ゆかば』と聴き比べてほしいものだ。

 これを歌唱することはよくて、『海ゆかば』はダメだというのは、理解できない。

 terrorismテロリズムの語源は、フランス語のterrorismeで、1793年から1794年のフランス革命の際のLa Terreur「恐怖政治」に由来する。フランス革命は、自国民を大量虐殺したテロだからだ。

 詳しくは、エドマンド・バーク『フランス革命の省察』(光文社文庫)、A・deトクヴィル『アンシャンレジームと革命』(講談社学術文庫)、ハンナ・アーレント『革命について』(ちくま学芸文庫)に譲る。


 要するに、GHQの洗脳が解けていないのだろう。

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