葬法

 夏らしく背筋が凍るお話をしよう。


 墓地、埋葬等に関する法律(墓地埋葬法)では、遺体を土の中に埋葬する「土葬」が禁じられているわけではないが、我が国では、遺体を焼却する「火葬」が一般的で、我が国の火葬率は、99.9%で世界一らしい。

 ところが、イスラム教では、戒律上、土葬以外の埋葬方法が禁止されている。

 そこで、我が国に在留するイスラム教徒(ムスリム)の増加にともない、イスラム教徒の土葬墓地問題が顕在化している。

 今日は、この問題について深入りしない。この問題を考える上で、我が国の葬法の歴史について振り返ろうと思う。


 さて、文化は、高いところから低いところへと流れる。

 例えば、玄関がそうだ。本来、玄関は、「玄妙なる道(=仏道)に入る関門」という意味であって、鎌倉時代の僧侶栄西が、京都の建仁寺に設けたのが始まりという(諸説あり)。

 玄関は、室町時代になると書院造りに用いられ、貴族や武士の屋敷に広まり、主人や来客のための表玄関、家族のための内玄関、使用人や御用聞きのための勝手口と用途に応じて使い分けられた。

 明治になると、庶民にも玄関が許され、猫も杓子も玄関を作り、立派な門構え・玄関構えを競い合うようになる。


 墓も同じだ。今でこそ庶民も墓を作ることができるが、かつてはそうではなかった。「◯◯家先祖代々の墓」と刻んである真新しい墓石を見ると、失礼ながら、「嘘つけ!」と思ってしまう。


 古代の墓といえば、古墳だ。古墳は、「土葬」であるが、『日本書紀』孝徳天皇の大化2年(646年)3月22日条にある勅令は、民が貧しいのは、むやみに立派な墳墓を造るためだとして、大化の改新の一環として、従来の厚葬から著しく簡素化された墓制を定めたことから、「薄葬令(はくそうれい)」と呼ばれている。

 身分によって墳墓の大きさ、役夫の人数、築造日数等を定め、王以下庶民に至るまで、殯(もがり)を禁止するとともに、殉死や殉死を強制すること、馬の殉葬をすること、金銀などの宝を副葬することを禁じたことから、前方後円墳が造られなくなり、古墳時代が終わった。


 養老律令(757年)の「喪葬令(そうそうりょう)」では、墓にはみな碑を立て、具官(=帯びる官職全て)姓名の墓、と示すことが義務付けられていた。

 そして、三位(さんみ)以上、及び別祖(分立した氏の始祖)・氏宗(うじのそう。氏の長)については、墓を営むことができたが、それ以外はしてはならない、と定められていた。

 つまり、庶民は、墓を作ってはならなかったわけだ。


 ただ、庶民に禁止された「墓」が埋葬まで禁じる趣旨だったのかどうかは不明だが、喪葬令には、皇都及び道路の側近くには、いずれも死者を埋葬してはならない、と定められていた。


 ところで、和語「ほおむる」(葬る)は、「ほおる」(放る)に由来するから、喪葬令が定められる以前から、山野や海などに遺体を放棄する風習があったと考えられ、実際、『万葉集』には、死人を見て詠んだとする設定で詠まれた歌(行路死人歌)が、5群11首、又は6群13首あるらしい。

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 遺体を放る葬法として、「水葬」と「風葬」・「鳥葬」があった。


 「水葬」は、海や川に遺体を流すやり方だ。

 海に流すやり方には、遺体を小さな舟に乗せて海に流す「舟葬」(しゅうそう)と、遺体をそのまま海に流す「海葬」がある。海の先に「常世(とこよ)の国」(死後の国)があると考えられていたからだ。

 また、例えば、京都の鴨川では、遺体を川に流す水葬が行われていた。鴨川は、雨が降ると氾濫する暴れ川で、遺体を流すのに都合が良かったからだ。鴨長明の『方丈記』(講談社学術文庫)には、養和の飢餓(1181年〜1182年)の際に、京都の町中は死体だらけで、「まして、賀茂の河原なんかでは、死体が多く捨てられ、馬や牛車(ぎっしゃ)の往来する道さえない」とある。

 灯籠流しは、このような水葬の名残だ。


 他方、吉田兼好の『徒然草』(講談社文庫)第七段に、「あだし野の露消ゆる時なく、鳥辺山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。」(あだし野の露が消える時がなく、また鳥辺山の煙が立ちさりもしないで、人の命が、いつまでもこの世に生きながらえる慣しであるならば、さだめし哀憐の情味というようなこともなかろう。この世は無常であるところがよいのである。)とあるように、観光客で賑わう京都の清水寺の南方にある「鳥辺野(とりべの)」、北の「蓮台野(れんだいの)」、西の「化野(あだしの)」は、京の三大葬送地と呼ばれ、遺体を埋葬せずに捨てて腐敗・白骨化・風化させる「風葬」や鳥などが啄(つい)ばむに任せる「鳥葬」が永く行われていた。

 「野辺送り」という言葉に「風葬」・「鳥葬」の名残が見られる。

 下記の『餓鬼草紙』は、この「風葬」・「鳥葬」を描いたものだ。

 感染症予防の観点からは、「火葬」にするのがベストだ。

 縄文時代の遺跡や弥生時代の遺跡から火葬骨が出土しているが、火葬が一般的だったとは言えないようだ。

 文献上、日本最初の火葬は、文武天皇4年(646年)の僧侶道昭で、『続日本紀』には「天下の火葬これよりして始まる」とある。「荼毘(だび)に付す」と言われるように、「荼毘」は、インドのパーリ語で「燃やす」に由来する仏教用語だから、仏教の伝来ととも火葬が広まったと考えられている。

 そして、『続日本紀』によれば、最初に火葬された天皇は、大宝3年(703年)の持統天皇だ。


 しかし、「火葬」が行われたのは、このような身分の高い人だけであって、それ以外の人々については、「水葬」・「風葬」・「鳥葬」・「土葬」が広く行われていた。

 なぜならば、火葬するには、生活必需品である貴重な薪が大量に必要であり、生焼けにならぬように火葬するには、高度な専門技術を必要としたからだ。

 公衆衛生の観点から火葬がベストであるけれども、当時は、石油も石炭もガスもなかったから、皆が火葬すれば、薪がなくなり、生活できなくなるので、江戸時代以降は、次善の策として、「土葬」が増えた。


 前述したように、明治になるまでは庶民は、墓を持つことが禁じられていたので、遺体を特定の場所に捨てたり、土葬したりした。「捨墓(すてばか)」・「埋め墓」と呼ばれる。

 これとは別に、村の寺院や共同墓地に「祭墓(まつりばか)」・「(まい)り墓」を作って供養を行っていた。通常、石塔が建てられ、供養が行われた。

 このように同一故人の遺体処理地と供養地を分ける習俗を「両墓制」という。

 遺体の穢(けが)れ、臭気、感染症予防の観点から、人里離れた場所を遺体処理地として、供養地と分ける両墓制は、理に適っていた。

 江戸時代の檀家制度にともない両墓制が定着した。


 しかし、両墓制を採る地域は、近畿地方にのみ濃密に存在し、関東、中部、中国、四国には点在するにすぎない。

 両墓制が上方(かみがた)から地方へと伝播(でんぱ)しつつある時期に明治を迎えたのだろう。


 明治政府は、神仏分離令に関連して、火葬は仏教葬法であり廃止すべきだとして、明治6年「火葬禁止令」(太政官布告第二百五十三号)を布告した。

 その結果、都市部で土葬用地が枯渇し、埋葬料が高騰した。仏教徒などから火葬再開を求める声が高まった。


 そこで、明治政府は、明治8年に火葬禁止令廃止し、葬法を宗教から切り離して、公衆衛生の観点から火葬推進するようになった。

 大正時代には地方公共団体が火葬場の設営に積極的に取り組むようになったため、土葬よりも火葬の方が費用も人手も少なく済むようになったことから、火葬が一般的になり、今では99.9%が火葬になったわけだ。


 このように明治8年以降、葬法を宗教から切り離して、もっぱら公衆衛生の観点から火葬が行われるようになったのだから、イスラム教徒の土葬墓地問題も、宗教問題として捉えるのではなく、公衆衛生の観点から考えるのが妥当だろう。


 この点、世界保健機関(WHO)は、1998年に発表したリポート『墓地の環境と公衆衛生への影響』で、地下水汚染の程度は「墓地の規模や埋葬数、地質特性に大きく依存する」と述べた上で、適切な土壌環境を選定すれば「環境や公衆衛生への影響を最小限に抑えることができる」と説明している。


『海ゆかば』

 大伴家持(おおとものやかもち)の長歌から採られたのが、「海ゆかば」の歌詞だ(万葉集巻十八)だ。

 「海行(ゆ)かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かへ(え)り見はせじ」 

 戦いで海に行くなら、水に漬(つ)かる屍(しかばね)となりましょう。戦いで山に行くなら、草の生える屍となりましょう。天皇のお側(そば)で死ぬのなら、決して後悔はしません。

 一家の大黒柱である天皇と心を一(いつ)に一丸(いちがん)となって国難を乗り越えましょう、という歌であって、天皇のために死ね、という歌ではない。

 戦後80年経った今でも戦没者の遺骨収集が続いている。

 愛するもののために戦い、戦地に散った兵隊さんの遺骨を祖国日本に帰してあげたい。







 

 

 




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