原則と例外〜稀代の策士 藤原不比等小伝〜


 実務上、例外を押さえなければ、正しい法令執行ができないのだが、自治体職員研修で初心者を対象とする場合には、細かな例外については触れずに、原則を押さえるように講義をしつつ、重大な例外については、「法律の世界で原則と言えば、必ず例外があります。例外のない原則はありません。」という風に注意喚起してから、説明するようにしている。


 変な話だが、法令上は例外とされていることが、実務上原則的に運用されていることも多い。

 例えば、弊ブログ「例規から見える大阪人気質?〜国民健康保険〜」で述べたように、国民健康保険法上は、保険料方式を原則としており、保険税方式は例外として位置付けられているにも拘らず、保険税方式の方が自治体にとって有利であるために、保険税方式を採っている自治体が多い。

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 また、地方税の徴収方法には、徴税吏員が徴収する普通徴収と企業が給与から天引きする特別徴収があるが、普通徴収は、特別徴収に該当しない自営業者など給与所得者以外の者や、特別徴収が著しく困難な人が住民税を納める方法なので、給与所得者が多い現状から、実は「特別」と呼ばれている特別徴収の方が原則的な方法ということになる。


 さらに、原則が建前にすぎず、例外が本音という場合がある。中学校で必ず習う「大宝律令」がその最古の例だ。

 大宝元年(701年) に完成し、同2年藤原京で施行された律6巻約500条、令11巻約1000条を、当時の人は「新律」・「新令」と呼んだが、後世の人は「大宝律令」と呼んでいる。律は刑法、令は行政法・民法だ。

 これ以前にも、天智7年(668年) の「近江令」22巻、天武 11 年(682年) の「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりよう)」があったが、この「大宝律令」が律と令が揃った我が国最初の本格的な法典だと言われており、これを一部修正する天平宝字元年(757年)の「養老律令」施行まで国の基本法典となった。そして、令外官(りょうげのかん。律令制の令制に定めのない官職のこと。ex.摂政、関白、内大臣、中納言)である征夷大将軍が幕府を開くなどのイレギュラーなことがあったが、明治18年(1885年)に内閣制ができるまでの約1200年間、我が国は律令制国家だったのだ。これらはいずれも唐の律令制を真似たものだが、太政官とは別に神祇官(じんぎかん)を設けたり、神祇令や僧尼令の内容など、日本の国柄に合わない部分を取り入れずに独自の内容を定めている点に特徴がある。

 持統上皇・文武天皇の命令により、刑部(おさかべ)親王、粟田真人 (まひと) 、下毛野古麻呂 (しもつけぬのこまろ) ら19人が編纂したとされるが、その中心人物は藤原不比等(ふじわらのふひと)だ。

 

 「藤原」姓を与えられた中臣(なかとみ)氏は、もともとは田舎豪族にすぎなかった。中臣氏は、その名の通り、神と人の中をつなぐ神職であって(文武天皇2年(698年)の詔勅により、不比等の子孫のみが「藤原」姓を名乗り、それ以外の者は祭祀を司るベく「中臣」氏に戻された。)、茨城県の鹿島神宮が氏神様だった。この辺りは、砂鉄の宝庫だった。当時の鉄は、貴重品であり、戦略物資だった。鉄製の武器と青銅製の武器では雲泥の差があったからだ。時代も国も異なるが、例えば、かの漢の高祖劉邦(りゅうほう)が、紀元前200年に、冒頓単于(ぼくとつぜんう)率いる匈奴(きょうど)を討伐せんとしたら、返り討ちに遭い、命からがら匈奴を兄、漢を弟とし、毎年漢が匈奴へ貢物を贈るという屈辱的和睦をしたのも、匈奴が優れた鉄製武器を製造保有していたからだ。また、鉄を鋤(すき)や鍬(くわ)などの農具に用いれば、硬い土地を耕すことができ、農業生産性が飛躍的に向上する。鉄を制する者が国を制すると言っても過言ではなかった。


 この鉄製品を足がかりにして中央政界へ打って出たのが中臣鎌足(なかとみのかまたり)だ。当時は、皇室と言えども、同輩中の首席にすぎず、蘇我氏、物部氏、大伴氏などの大豪族が覇を競い合っていた。中臣鎌足は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ。のちの天智天皇。)を助け、大化改新での功績が認められ、天智天皇から「藤原」姓を賜ったが、壬申(じんしん)の乱において、中臣氏は近江朝に味方したため、中臣氏の勢力は一時衰えた。


 中臣鎌足の次男不比等(当初は「史(ふひと)」と表記したが、後世、並び立つ人がいないほど優れていたということで「不比等」と表記されているらしい。)は、11歳の時に父鎌足が亡くなり、壬申の乱が起きたときには13歳で乱とは無関係だったため、追放こそされなかったが、京都山科に住む田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の家に匿(かくま)われ、雑用などを行う大舎人(おおとねり)の下級役人からスタートせざるを得なかった。


 しかし、天才不比等は、歴史から教訓を学び、律令制度を研究し、世に出る機会をじっと窺いつつ、職務に精励した。その甲斐あってか、30歳の時に直広肆(じきこうし)従五位下の判事(裁判官のこと。)になり、その後、草壁皇子(くさかべのみこ)に仕え、草壁皇子の長男である軽(かる)皇子を天皇(文武天皇)に擁立することに功績があったことが認められ、41歳のときに中納言(ちゅうなごん)として「大宝律令」の編纂に携わる機会を得た。不比等は、その力を遺憾なく発揮し、大法典である「大宝律令」をわずか1年数か月で完成させた


 不比等は、法律に詳しく仕事がデキルだけではなく、草壁皇子に引き立てられていることから見ても、社交術に長けており、さらに男性としても大変魅力的だったと思われる。というのは、県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)という3人の子持ち女性(20代後半)を後妻として迎えているからだ。県犬養三千代は、敏達(びたつ)天皇の4代の後裔(こうえい)である美努(みぬ)王の妻だった。皇族とはいえ、大事にされるのは親王までで、親王の子や孫である王は無位無官が多く、生活に困窮していた。県犬養三千代が、夫美努王と別れて、不比等に嫁いだのは、甲斐性なしの夫美努王に愛想を尽かしたからなのか、それとも本当に不比等に惚れ込んだからなのかは分からぬが。


 この県犬養三千代は、宮中における女官の最高位である命婦(みょうぶ)に就いて後宮を牛耳って、不比等とともに軽皇子を天皇(文武天皇)に擁立するとともに、不比等の先妻の娘である宮子(みやこ)を文武天皇に嫁がせ、宮子の産んだ首(おびと)皇子を天皇(聖武天皇)に擁立し、不比等と県犬養三千代との間にできた娘である光明子(こうみょうし)を聖武天皇に嫁がせた。不比等は、養老2年(718年)に「養老律令」を完成させ、その2年後の養老4年(720年)に62歳で亡くなるのだが、不比等の亡き後、光明子は、不比等の先妻の息子である藤原四兄弟(南家、北家、式家、京家)の力によって光明皇后となり、光明皇后の長子が女帝として即位し、孝謙天皇になる。これらが可能だったのは県犬養三千代の尽力があればこそだった。


 県犬養三千代は、当時7歳だった首皇子が成人するまでの中継ぎとして天皇に即位した元明天皇(文武天皇の母である阿閇皇女(あへのひめみこ))からその功績が認められ、「橘」姓を賜り、橘三千代(たちばなのみちよ)と呼ばれる。「橘」姓は、前夫である美努王との間にできた3人の子供たちに受け継がれる。長男である橘諸兄(たちばなのもろえ。初名は葛城王で、臣籍降下して宿禰(すくね)のちに朝臣(あそん)を賜る。)が、のちに藤原一族の強敵になるのは歴史の皮肉だが、その話は別の機会にしよう。


 この文武天皇・聖武天皇の乳人(めのと)である県犬養三千代の強力なバックアップにより、不比等は、さらに出世し、「大宝律令」が完成した大宝元年(704年)に大納言に、和銅元年(708年)に左大臣(太政大臣が空席の時の最高責任者)石上麻呂(いそのかみのまろ)に次ぐ朝廷No.2の右大臣を拝命している。その後、石上麻呂が亡くなり、不比等は、左大臣・太政大臣を打診されたが、固辞しており、ここが策士らしいところだ。不比等が太政大臣になると、他の貴族たちが空席になった右大臣、左大臣になるが、自分が右大臣にとどまれば、他の貴族が右大臣、左大臣及び太政大臣になることを防ぐことができるし、また、自分は、位人臣(くらいじんしん)を極(きわ)めんとする野心を決して持っておらず、あくまでも天皇の御為(おんため)に働く忠臣なのだとアピールすることができるからだ。


 自分の娘を天皇に嫁がせて政治の実権を握る手法は、すでに蘇我氏が実践済みだった。しかし、蘇我氏のように、実権を握って天皇に代わって政治の表舞台に出ると、他の大豪族の反発反抗を生み、武力闘争を招いて、滅びることを学んでいた。そもそも田舎豪族にすぎなかった中臣氏が戦で大豪族たちに勝てる見込みは少ない。だから、不比等は、自分が政治の前面に出るのを嫌い、常にNo.2の右大臣に甘んじ、あくまでも天皇を前面に押し出して、天皇の権威権力を全国津々浦々まで及ぼすことに徹したのだ。これならば、大豪族は、不比等に反感を抱いても、表向き逆らうことができないからだ。


 さて、「大宝律令」の話に戻そう。不比等は、「大宝律令」に、①正一位から少初位下(しょうそいのげ)まで30階の階級を設け、全ての国民を序列化し、ピラミッド型の階級制度を導入するとともに、②戸単位で戸籍を作成して、国民の情報を一元的に管理した。そして、③中央政府を二官八省制にして貴族官僚が統治する組織にするとともに、④地方に国郡里制を導入して、従来、国造(くにのみやつこ)という地方豪族が治めていた国に国衙(こくが。国府)を置いて中央政府から国司(こくし)と呼ばれる貴族官僚を派遣して、この国司の下に国造等の地方豪族を郡司や里長として任命することによって、天皇を中心とした中央集権体制を構築した。


 さらに、大化改新の「改新の詔(みことのり)」で示された公地公民制と班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)を盛り込んだ。公地公民制とは、全ての土地と民は天皇に属するという制度だ。班田収授法とは、6年ごとに作られる戸籍を前提に、公民に一定の田地を班 (わか) ち授け、収穫した稲を租として徴収し、死亡したら田地を返さなければならないと定めた法だ。この班田収授法は、平安時代の初期まで約200年以上実施されたというのだから驚きだ。

 大豪族の専横を押さえ込みたかった天皇は、さぞやこれを喜び、不比等を忠臣だと思われたことだろう。だが、不比等が稀代(きだい)の策士たる所以(ゆえん)は、ここにはない。


 不比等が稀代の策士である所以は、「大宝律令」に例外規定を設けたことだ。「大宝律令」は、建前では天皇を中心とした中央集権体制を構築しようとしているのだが、本音は藤原一族を中心とした中央集権体制の構築とその永続化にあり、その手段が例外規定だったのだ。


 すなわち、公民に班給(はんきゅう。いくつかに分け与えること。)される口分田(くぶんでん)の他に、①貴族等に与えられる位田(いでん)、職分田(しきぶでん)、功田(こうでん)という特別な制度を設けたのだ。公地公民制を原則としながら、私有地所有を認める例外を設けたわけだ。位田は、親王と五位以上の官位を有する者に与えられる田地で、位に応じて面積が異なった。職分田は、官職に就いている者に与えられる田地で、官職に応じて面積が異なった。功田は、功績のあった者に与えられる田地だ。藤原不比等は、官位官職があり、功績もあったから、位田・職分田・功田の三つを与えられたし、自分の一族を官位官職に就けたので、一族が所有する田地は広大なものになった。


 これだけではない。「大宝律令」には租庸調(そようちょう)という税が定められていて、庶民は重税に喘いでいたのに、②官位を有する貴族には例外的に税の減免措置を設けた。三位以上の官位がある者は、本人だけでなく家族も免税され、三位よりも低い官位の貴族には、大幅な減税がなされた。


 さらに、③官位官職が高い貴族には、職封(しきふ)・位封(いふ)等の封戸(ふこ)と呼ばれる官僚の給与が支給された。その他にも、④貴族には裁判の減免など様々な特権が与えられた。


 天皇と姻戚関係を結んで官位官職の人事権を握った藤原一族は、これらの例外規定によって真綿で首を締めるように他の貴族たちを押さえ込み、班田収授法が実効性を失う平安時代初期までの約200年間に莫大な蓄財を行ったわけだ。しかも、三代将軍徳川家光が参勤交代によって諸大名の経済力を奪って将軍家の地位を盤石なものにしたように、藤原一族は、天皇に次々に寺院を建立させて、他の貴族にも寄進をさせることによって、皇室と他の貴族の経済力を脆弱なものにした。


 このように「大宝律令」の例外規定こそが、平安時代中期の藤原道長の「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」という有名な歌に代表される道長・頼通の摂関政治の礎となったわけだ。


 物部氏に武力で勝った蘇我氏も武力で負けた。武力による天下は一時的なものにすぎないことを悟り、如何にすれば一族が子々孫々まで繁栄できるかを必死に考え、法治主義を悪用することを思い付き実行した不比等の深慮遠謀恐るべし。「策士策に溺れる」というのは世の習いなれど、ひとり不比等のみは例外だった。国史上、これほどの策士は他におるまい。文字通り「不比等」だ。


 随分横道に逸れた気がするが、原則だけでなく例外を押さえることが法令の理解にとってとても重要だということは明らかになったのではないかと思う。

 さて、現行法上、原則・例外について、一定の約束事があるので、これを覚えることが大切だ。

1 この限りでない妨げない

いずれも、直前の規定の例外を定める場合に用いられる。

ア  この限りでない

 本文・ただし書の規定において、本文で定められた原則を、ただし書で特定の場合について否定して、例外を認める意味だ。

cf.地方公務員法第五十五条の二第一項 職員は、職員団体の業務にもつぱら従事することができない。ただし、任命権者の許可を受けて、登録を受けた 職員団体の役員としてもつぱら従事する場合は、この限りでない

イ  妨げない

 妨げない(妨げるものではない)というのは、邪魔しない・禁止するものではないという意味であって、ある 規定が設けられた結果、他の規定や制度との関係がどうなるのか疑問が生じるような場合において、依然として 他の規定や制度が働くことを明確にするときに用いられる。

cf.地方公務員法第十七条の二第一項 人事委員会を置く地方公共団体においては、職員の採用は、競争試験によるものとする。ただし、人事委員会規則 (競争試験等を行う公平委員会を置く地方公共団体においては、公平委員会規則。以下この節において同じ。)で定める 場合には、選考(競争試験以外の能力の実証に基づく試験をいう。以下同じ。)によることを妨げない

2 「特別法は一般法に優先する。」(特別法優先の原理)  

 一般法というのは、ある事項について一般的に適用するものとして定められた法をいう。

ex.地方公務員法は、地方公務員一般職に適用するものとして制定された一般法である。  

 これに対して、特定の人・事物(じぶつ)・行為・地域に限って適用するものとして定められた法を特別法という。一般法を適 用すると不都合なことがあるからこそ特別法という例外が定められるので、その特別法がなかったらどうなるんだろうかと考える と特別法の内容をよく理解することができる。

ex.地方公務員が教育公務員(公立学校の先生)である場合に適用するものとして定められた教育公務員特例法は、地方公務員法の特別法である。  

 例えば、法律同士、政令同士、条例同士のように、同順位の成文法の間では特別法が一般法に優先して適用される(特別法優先 の原理)。一般法が原則として適用されるが、特別法という例外があれば、特別法が優先的に適用されるわけである。

ex.地方公務員法と教育公務員特例法は同じ法律同士で、同順位なので、特別法である教育公務員特例法が、一般法である地方公 務員法に優先して適用され、教育公務員特例法に規定がない事項については地方公務員法が補充的に適用されることになる。

 そして、一般法・特別法の関係をわかりやすくする立法技術がある。最近の法令の中には、一般法であることを表すために「他の法令に定めるもののほか、この法律の定めるところによる」という風な文言を条文に盛り込んでいる。逆に、特別法であることを表す場合には、「に対する特例を定めるものとする」 という風な文言を条文に盛り込んでいる。

3 の規定にかかわらず     

 ある事項に関する原則的な規定を排除して、特例を定める場合に用いられる。後述する一般法・特別法の関係を表す場合 には、「別段の定め」や「特別の定め」のように一般法を定める規定の中に一般法・特別法の関係を表す文言が置か れる場合と、「の規定にかかわらず」のように特別法を定める規定の中に一般法・特別法の関係を表す文言が置かれ る場合がある。

cf.1行政手続法第一条第二項 処分、行政指導及び届出に関する手続並びに命令等を定める手続に関しこの法律に規定する事項について、他の法律に特別の定めがある場合は、その定めるところによる

←つまり、この点について特別法があればそれによるが、そうでない限りはこの行政手続法が一般法として適用されるという意味だ。

cf.2地方公務員法第十一条第一項 人事委員会又は公平委員会は、三人の委員が出席しなければ会議を開くことができない。

第二項 前項の規定にかかわらず、二人の委員が出席すれば会議を開くことができる。

 



 

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