明治民法の起草者である穂積陳重(ほづみ のぶしげ)先生、梅謙次郎(うめ けんじろう)先生及び富井政章(とみい まさあき)先生は、「明治民法三博士」と呼ばれている。このうち、穂積先生は、私費留学生としてイギリスとドイツへ、梅先生は、国費留学生としてフランスへ留学されている。
ところが、富井先生は、私費留学生と言えば聞こえが良いが、司法省の法律学校(現在の東京大学法学部)の入試に落ちて、あてもないのに片道の旅費だけを持ってフランスへ渡り、スッテンテンになって途方に暮れていたところ、ギーメという親切な御仁に助けられて、住み込みで働きながら苦学した。大学の授業料を払うお金がないため、リヨン大学へ忍び込んで机の下に隠れて聴講していたところ、ある日発見され、事情を聴いた大学が特別に実施してくれた入学試験に見事合格して学費も免除された。2番という優秀な成績で大学を卒業して大学院へ進学し、リヨン大学から法学博士号を授与された。
穂積陳重先生は、その著『法窓夜話』で、梅先生は本物の弁慶だが、富井先生は内弁慶だと評されているが、なかなかどうして富井先生もお若い頃は思い切ったことをなさっていたのだ。
国立国会図書館デジタルコレクション 坂本箕山著『現代名士人格と修養』(帝国文学通信社)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961720/118
このように幕末から明治にかけて多くの優秀な若者が高い志を抱いて世界へ雄飛した。その中には、津田梅子先生や山川捨松先生などの女性もいた。当時は、世界中のほとんどの地域が欧米列強諸国の植民地になっており、植民地人は白人と対等に口をきくことすらできないし、黄禍論が盛んで人種差別がひどい時代に、自国の独立と国民の安全を守らんがため、西洋文明・文化を学ばんと勇気を持って海外留学を行ったのは、日本だけだった。
そのお手本となったものは、言わずと知れた遣隋使・遣唐使だ。現時点で発見された世界最古の土器は、青森県大平山元(おおだいらやまもと)遺跡から出土したもので約1万6500年前。これは模様のない無文土器だが、約1万4500年前頃には、粘土ひもをはりつけた「隆線文土器」が生まれ、日本中で発見されている。いわゆる縄文式土器だ。いずれ世界各地でこれらよりも古い土器が発見されるのも時間の問題だろうが、少なくとも言えることは、日本文明(当時は「日本」という国号はなかったが、ここでは地理的呼称として用いている。)が、世界最古の文明の一つだったということだ。アーノルド・J・トインビー著『歴史の研究』(中央公論社・世界の名著)やサミュエル・ハンチントン著『文明の衝突』(集英社)は、日本文明が中華文明圏とは異なる独自の文明圏であることを認めているが、世界最古の文明の一つであることを知らない。
人間は、無から有を創り出すことができない。有と有を組み合わせて新たな有を造ることができるだけだ。そのためにはこれまで組み合わせることがなかった有と有を組み合わせる新たな発想が必要だ。新たな発想が生まれるためには、刺激が必要であり、その刺激の一つが他の文明・文化との出会いだ。
しかし、如何せん日本列島は大陸と海で隔たれた極東の端にあるため、他の文明・文化が伝わるのが遅い。だったら、自分たちから求めて行けばよいではないかという逆転の発想が遣隋使・遣唐使だ。以下、敬称を略す。
遣隋使は、聖徳太子が摂政のときに始まり、その回数については、3回〜6回と学説が分かれているが、隋(581年~618年)が滅亡する直前の614年まで続けられた。
そして、舒明天皇2年(630年)に第1回の遣唐使が派遣され、その後、何度も中断したが、承和5年(838年)に最後の遣唐使が派遣されるまで、ほぼ200年にわたり前後16回行われている。
派遣された遣唐使(大使と副使以外は、留学僧と留学生だった。)は何をしていたかについては詳細は分かっていないが、当然のことながらお勉強もしていた。『旧唐書(くとうじょ)』という唐の歴史書によれば、留学生は、鴻臚寺(こうろじ)に招かれた教師から儒教や歴史などを教わったそうだ。滞在中に日常会話程度ができるようになったことだろう。
しかし、結果から推察すると、実際には観光(情報収集)とショッピングに力を入れていた。ここが幕末・明治の留学とは大きく異なる点だ。外国人は、唐の国内を自由に旅行したり市場で買い物をしたりすることが禁止されていたが、公式な外交使節である遣唐使にはこれが許され、便宜を図ってくれていた。そこで、情報収集活動をしつつ、経典等の書籍、仏像、仏具、文房具、薬など、ありとあらゆる物を買い漁った。それが遣唐使の目的だったからだ。『西遊記』で有名な唐の三蔵法師(602年 〜 664年)が天竺(てんじく。インドのこと。)から苦労の末持ち帰って漢訳した『大蔵経』(仏教聖典の総集編)すらも、いち早く日本に持ち帰ってきたというのだから驚きだ。
通常は2〜3年滞在したらしいが、例えば、空海(のちの弘法大師)の留学期間は1年2か月ほどで、最澄(のちの伝教大師)に至っては1年足らずだ。いくら二人が天才だったとしても、こんな短期期間に学べることは僅かだ。なぜすぐに帰国したのかといえば、最新の仏教である密教の経典等を入手した以上、後でじっくりと勉強すればいいのであって、1日でも早く帰国すれば、自分がその分野の第一人者になれるからだろう。実際、二人とも帰国してから神護寺に引きこもって勉強した上で、それぞれ真言宗と天台宗を起こしている。
遣唐使は、当初は2隻で、後に4隻編成となり、1回に240~250人から500人以上が分乗したらしいから、船員を除いてもかなりの数の留学僧・留学生が唐へ渡っただろうに、『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば、唐で名を上げたのは、吉備真備(きびのまきび。元の名前は、下道真備(しもつみちのまきび)。)と阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の2人だけだそうだ。ほとんどの留学生が観光とショッピングに明け暮れていたのだから、当然かも知れぬ。
最近、吉備真備が留学中に書いた墓誌が発見され、その末尾に「秘書丞チョ思光(ひしょじょうちょしこう)文」と「日本国朝臣(あそん)備書」とあり、最古級の「日本国」の国号が支那(chinaシナ。中国の地理的呼称。)で確認されたことで話題になったが、帰国後は右大臣にまで登り詰めている。学者から立身出世して大臣にまでなったのは、後にも先にも吉備真備と菅原道真だけだ。
阿部仲麻呂は、唐の科挙に合格し、玄宗(げんそう)皇帝に仕えて高官に登り、李白(りはく)や王維(おうい)ら著名な文化人と交友したが、帰国を果たせずに客死した。
先ほど、遣唐使は観光とショッピングをしていたとまるで遊び呆けていたかのような書き方をしたが、決してそういう意味ではなく、注意深く観察して分析し、国柄・国情に合うかどうかを検討し、日本へ持ち帰るべきものを適切に取捨選択していた。例えば、唐では道教が盛んだったが、道教寺院(道観)は移入されることがなかった。儒教もまた然り。宦官(かんがん)も決して移入しなかった。派遣された遣唐使の見識の高さを物語っている。
教科書では、奈良の平城京は、唐の長安を模して作られたとあり、「なんと(710年)綺麗な平城京」と暗記したものだが、むしろ生徒に模倣していない点に着目させれば、日本と支那の国柄・国情の違いを理解させられるのではあるまいか。支那の都市は、中央に宮殿を置き、その左右に宗廟(そうびょう)と社稷(しゃしょく)を設けて、これらを中心にして設計され、周囲を高い城壁で囲むのであるが、平城京には、宗廟も社稷も城壁もない。弊ブログ「夫婦同氏制の由来」で述べたように、日本には宗族制度がないし、異民族によるジェノサイド(皆殺し)を警戒すべき必要性が乏しいことに鑑みたものと思われる。
このように輝かしい成果を挙げた遣唐使だったが、寛平6年(894年)、菅原道真の建議により、遣唐使が廃止され、その結果、平安時代に日本独自の国風文化が花開いたと教えられたものだ。「白紙(894年)に戻そう遣唐使」と語呂合わせで暗記したことを覚えている。
しかし、実は、菅原道真の建議によって遣唐使廃止が決定されたのではなく、約50年ぶりに遣唐使を再開することになって遣唐使の「大使」に任命された菅原道真が唐へ渡るのを渋り続けたためにやむなく停止され、派遣がのびのびになっているうちに唐が滅亡してしまって、うやむやのうちに遣唐使が終了してしまったというのが真相らしい。
お蔭で事実上の鎖国をして、国風文化が栄えたのだから、結果オーライだが。
では、なぜ菅原道真が唐へ行きたがらなかったのか。本当のことは誰にも分からぬが、遣唐使を進めるか止めるかを決定してほしいと求めた菅原道真の建議書からある程度窺い知ることができる。
1 大唐の凋弊(ちょうへい)
唐に留学中の僧中瓘(ちゅうかん)が商人である王訥(おうとつ)等に託した報告書によると、唐は疲れ衰えているというのが一番大きな理由だ。
日本は、唐の律令制、仏教、文物等を取り入れたかった。しかし、支那は、周辺の蛮族が朝貢(ちょうこう)して正式な外交ルートを確立しない限り貿易を認めないので、名を捨てて実を取るため、唐との間で20年に一度朝貢する約束を結んで、遣唐使を派遣していた。
しかし、玄宗(げんそう)皇帝が「傾国の美女」楊貴妃(ようきひ)に惚れ込んで、楊貴妃の従兄である楊国忠(ようこくちゅう)を宰相にしたばかりに政治が乱れ、身の危険を感じた安禄山(あんろくざん)がその部下の史思明(ししめい)と共に挙兵するという「安禄山の乱」(「安史の乱」ともいう。755年〜763年)と呼ばれる大内乱が発生し、唐は衰退の一途を辿っていた。
ここからは私の勝手な想像だが、日本が朝貢したからといって、唐は日本の内政に干渉しなかったけれども、いくら方便とはいえ、もうこれ以上屈辱的な朝貢を継続すべきではないし、朝貢をやめたからといって、国力が弱くなった唐にはもはや日本と戦争をする余力がないから、唐を恐る必要はない。また、これまで派遣した遣唐使が学び買い集めたお蔭で、滅びゆく唐からもはや学ぶべきものも買うべき物もないし、仮に必要な物があれば密貿易商から買えばよいので、遣唐使を派遣する必要がないと考えたのではなかろうか。
明治の時代にも、西洋かぶれの洋行帰りがいたそうだから、きっと唐かぶれの鼻持ちならない輩もいたことだろう。日本が唐の悪弊に染まることを憂慮したことも理由の一つだったかも知れない。
2 或いは海を渡りて命に堪へざる者有り。或いは賊に遭ひて遂に身を亡ぼす者有り。
天智2年(663年)、日本は、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐と新羅の連合軍に敗北したため、朝鮮半島の海岸沿いを行く安全なルートが使えず、やむを得ず危険な東シナ海を横断するルートで遣唐使を派遣したが、遭難が相次いでいた。唐の名僧鑑真(がんじん)が6度目の挑戦でやっと日本に辿り着いたが、遭難事故により失明していたことは有名だ。また、日本が貨幣経済になるのは、平清盛が宋銭を輸入してからなので、遣唐使船には物々交換に必要なお宝を積んでいたため、海賊に襲われた。人命を犠牲にしてまで、ハイリスク・ローリターンの遣唐使を続ける意味はないというわけだ。
3 唯、未だ唐に至りては、難阻飢寒の悲しみ有りしことを見ず。中瓘申し報ずる所の如くんば、未然の事、推して知るべし。
唐に留学中の僧中瓘によれば、海難や海賊さえ切り抜けて唐に到着すれば、今のところ命の危険はないが、中瓘の報告書にあるように、唐が衰退しているので、これからは唐にいても命の危険があると予想されるというわけだ。
菅原道真の予想通り、その後、907年に唐が滅亡し、五代十国という戦乱の時代を迎え、宗が建国されたのが960年だから、さすがは学問の神様だ。
4 国の大事にして独り身の為のみにあらず。
危険を冒して優秀な人材と大金を失うは国家の一大損失だ。遣唐使の「大使」に任命された私自身の身の安全のためだけを思って言っているのではないというわけだ。
ここからは私の勝手な想像だ。菅原氏は学者一族であって家格が低く、本来、政治の中枢にいるべき家柄ではないが、菅原道真は非凡な才能・見識ゆえに歴代天皇の信任が厚い。政敵である藤原一族にとっては目障り極まりない。そこで、菅原道真を追い落とすべく、遣唐使の「大使」に任命されるよう計ったのだろう。もちろん、藤原一族も菅原道真の才能と見識を認めていたからこそライバル視していたわけだから、実際に唐へ渡って不安定な国際情勢を見定めてほしいという気持ちもあっただろうが、あわよくば死んでくれと願っていただろうことは、後に、謀反の疑いをかけて太宰府へ左遷させたことや菅原道真が死後怨霊になったと考えて祟(たた)りを恐れて神として祀ったことから考えて、中らずと雖も遠からずだろう。
聡明な菅原道真は、遣唐使の「大使」任命が陰謀だと分かっていたからこそ、このように理路整然と遣唐使派遣に反対し、へり下って決定を仰いでいるのだろう。
このような菅原道真の主張には大変説得力があると考えられたので、遣唐使「大使」として唐へ出立しない菅原道真を処罰することもできず、かといって正式に遣唐使を廃止することは朝貢を止めることでもあるから、唐と再び敵対関係になるおそれがあるため、遣唐使廃止を決定することもできず、ずるずると問題を先送りにしていたところ、菅原道真の情報分析通りに唐が滅亡してしまったというわけだ。国際情勢の分析と分析結果の活用の難しさを物語るエピソードだ。
インターネット等の情報通信機器及び飛行機等の交通機関の発達により、日本列島の地理的特性を活かした事実上の鎖国による独自文化の熟成ができなくなった現在、如何にすれば独自文化の熟成ができるのか、これまで日本人が体験したことがない未曾有の文明・文化の危機に直面している。
これまでのように海外から異文化を取り入れて国内で熟成させるのではなく、寿司職人がカリフォルニアで現地人の口に合うように作ったカリフォルニア・ロールが逆輸入されているように、日本文化を海外へ発信し、海外で熟成させてこれを移入する逆転の発想が求められているのではあるまいか。かつて若者が遣唐使として海を渡ったように、これからの若者が日本文化の伝道師として海外へ雄飛することを期待している。
国立国会図書館デジタルコレクション『菅家文草』五
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562893?tocOpened=1
cf.菅原道真の建議書(川口久雄校注『日本古典文学大系72菅家文草 菅家後集』(岩波書店))
請令諸公卿議定遣唐使進止状 菅原道眞
右臣某謹案在唐僧中瓘去年三月附商客王訥等所到之録記大唐凋弊載之具矣更告不朝之問終停入唐之人中瓘雖區々之旅僧爲聖朝盡其誠代馬越鳥豈非習性臣等伏撿舊記度々使等或有渡海不堪命者或有遭賊遂亡身者唯未見至唐有難阻飢寒之悲如中瓘所申報未然之事推而可知臣等伏願以中瓘録記之状遍下公卿博士詳被定其可否國之大事不獨爲身且陳欵誠伏請處分謹言
寛平六年九月十四日 大使參議勘解由次官從四位下兼守左大辨行式部權大輔春宮亮菅原朝臣某
<読み下し文>
諸公卿をして遣唐使の進止を議定せしめんことを請ふの状 菅原道真
右、臣某、謹んで在唐の僧中瓘、去年三月商客王訥(おうとつ)等に附して到す所の録記を案ずるに、大唐の凋弊、之を載すること具(つぶさ)なり。更に不朝の問を告げ、終に入唐の人を停む。中瓘、区々の旅僧と雖も、聖朝の為に其の誠を尽くす。代馬・越鳥、豈に習性に非ざらんや。臣等伏して旧記を検するに、度々の使等、或いは海を渡りて命に堪へざる者有り。或いは賊に遭ひて遂に身を亡ぼす者有り。唯、未だ唐に至りては、難阻飢寒の悲しみ有りしことを見ず。中瓘申し報ずる所の如くんば、未然の事、推して知るべし。臣等伏して願はくは、中瓘の録記の状を以て、遍(あまね)く公卿・博士に下し、詳(つまびらか)に其の可否を定められんことを。国の大事にして独り身の為のみにあらず。且つは欵誠(かんせい)を陳べて、伏して処分を請ふ。謹んで言(もう)す。 寛平六年九月十四日 大使參議勘解由次官從四位下兼守左大辨行式部權大輔春宮亮菅原朝臣某
http://sybrma.sakura.ne.jp/203sugawaramichizane.html
<追記>
雷が鳴ると、雷に打たれぬように「くわばらくわばら」と唱える風習がある。その由来については、諸説ある。
京都市には、住民が住んでおらず、道路になったのに町名だけが残っている「桑原町」があり、一説によると、菅原道真公の館があった場所とされ、ここだけは雷が落ちなかったので、「くわばらくわばら」と唱えるようになったという。
科学万能の現代において、菅原道真公の祟りを恐れて、町名を消せないわけではなかろうが、「くわばらくわばら」の由来とも言われる由緒ある町名を残しているのはよいことだと思う。
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