法令の中の聖徳太子

https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/valid/past_issue/pbn_10000.htm/

 先日、大阪府河南郡太子町へ出講した際に、バスの中からではあったが、聖徳太子のお墓へ手を合わせることができたのは幸甚であった。

 そこで、今日は、法令の中の聖徳太子について、お話ししようと思う。


 お若い方にはピンと来ないだろうが、聖徳太子と言うと、現在は発行が停止されているけれども、なお有効な銀行券として通用が認められている一万円札が馴染み深い(上記スクショ)。

 聖徳太子の肖像は、昭和5年(1930年)の「乙百円券」に初めて採用されて以来、最も多く登場している(戦前2回、戦後5回)。

 日本銀行(にっぽんぎんこう)によれば、「①「十七条の憲法」を制定したり、仏教を保護したり、中国との国交回復や遣隋使の派遣により大陸文化を採り入れるなど、内外に数多くの業績を残したため、国民から敬愛され知名度も高いこと、②歴史上の事実を実証したり、肖像を描くためのしっかりした材料があること、が大きな理由」だそうだ。

https://www.boj.or.jp/announcements/education/data/are02n.pdf


 日本銀行は、日本銀行法第46条第1項を根拠に銀行券を発行し、この日本銀行券は、法貨として無制限に通用するとされ(同法同条第2項)、強制通用力が付与されている。

 そして、日本銀行券の種類は、政令で定めるものとされ(同法第47条第1項)、日本銀行法施行令第13条は、一万円、五千円、二千円及び千円の四種類と定めている。

 肝心の肖像・デザインなどの日本銀行券の様式については、財務大臣が定め、公示することになっている(日本銀行法第47条第2項)。

 参考までに、上記スクショの聖徳太子一万円札の様式を定めた「十二月一日から発行する日本銀行券壱万円の様式を定める件(昭和三十三年告示第二百三十七号)」を載せておく。

 まるで小学生が描いたかのような手書きの聖徳太子の肖像がユーモラスだ。笑 このレベルの図でOKなんだね♪笑

https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-19581120-0237-14.htm

 ついでに、「平成十六年十一月一日から発行を開始する日本銀行券壱万円、五千円及び千円の様式を定める件(平成十六年財務省告示第三百七十四号)」の一部も載せておく。

https://www.mof.go.jp/about_mof/act/kokuji_tsuutatsu/kokuji/KO-20040813-0374-14.pdf


cf.1日本銀行法(平成九年法律第八十九号)

(日本銀行券の発行)

第四十六条 日本銀行は、銀行券を発行する。

2 前項の規定により日本銀行が発行する銀行券(以下「日本銀行券」という。)は、法貨として無制限に通用する。

(日本銀行券の種類及び様式)

第四十七条 日本銀行券の種類は、政令で定める。

2 日本銀行券の様式は、財務大臣が定め、これを公示する。


cf.2日本銀行法施行令(平成九年政令第三百八十五号)

(日本銀行券の種類)

第十三条 日本銀行券の種類は、一万円、五千円、二千円及び千円の四種類とする。


 さて、e-Gov法令検索で「聖徳太子」を検索したが、ヒットしなかったことから、現行法上は、「聖徳太子」を用いた国の法令はないようだ。


 では、自治体の例規は、どうだろうか。

 条例Webアーカイブデータベースで「聖徳太子」を検索したところ、19件ヒットした。聖徳太子像などの文化財保護関連の条例等が多い。

 聖徳太子ゆかりの兵庫県太子町と奈良県斑鳩(いかるが)町がそれぞれ町民憲章の中で「聖徳太子」について触れているのだが、残念ながら大阪府太子町には「聖徳太子」について触れた例規がなかった。


cf.3兵庫県太子町の「町民憲章の制定(昭和51年4月1日告示第43号)」

太子町町民憲章を次のとおり定める。

太子町町民憲章

(町民のねがい)

 わたくしたちは、聖徳太子にゆかりのある太子町の町民であることに誇りをもち、住みよい躍進する町づくりのためにここに憲章を定めます。 わたくしたちは、これを信条として、お互いに話し合いと理解を深め、責任をもつて行動しましよう。

 わたくしたち太子町民は、

1.元気で働き、たのしい家庭をつくりましよう。

1.小さな親切で、愛情ゆたかな町をつくりましよう。

1.時代にそつた、よい風習が育つ町をつくりましよう。

1.清潔で、美しい環境の町をつくりましよう。

1.明るい、差別を許さない町をつくりましよう。


cf.4斑鳩町町民憲章 (平成9年5月9日 制定 )

 わたしたちは、聖徳太子ゆかりの斑鳩のまちに住むことを誇りとし、「和」の精神を尊び、明るく豊かな郷土をつくります。

一、 歴史と文化を大切にし、貴重な遺産を次の世代に伝えます。

一、 恵まれた自然との調和をはかり、やすらぎのあるまちにします。

一、 人権を尊重し、心のふれあうまちをめざします。

一、 ともに生き、ともに学び、未来を拓く活力のあるまちにします。

一、 知恵と力を出し合い、住みよいまちを築きます。


 このように現在でも法令の中に生き続けている聖徳太子だが、最近の歴史学によれば、厩戸王(うまやとおう)は実在したが、聖徳太子は実在しなかったという説が有力で、教科書でも「厩戸王(聖徳太子)」(山川出版社の『詳説日本史B』)と括弧書きで表記されているそうだ。


 東邦大学付属東邦中高等学校の山岸良二氏によると、聖徳太子の実績は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」など膨大であって、「これらをひとりの人物がすべてやったとは考えられない」というのが理由らしい。

 そして、このでっち上げを行った張本人が、なんと天武天皇だと言うのだ。

 

 「これらをひとりの人物がすべてやったとは考えられない」そうだが、凡人ならばそうだろう。しかし、実際に多大な業績を挙げられたからこそ偉人として「聖徳太子」という名が贈られ、長年にわたって国民に敬愛されて、そのお墓や遺物も大切に守られてきたのではないのか。

 飛鳥浄御原令を制定し、藤原京を造営し、『日本書紀』・『古事記』の編纂など白鳳文化を開花させ、初めて「天皇」を称し、「日本」を国号とした天武天皇を嘘付き呼ばわりするなんて、なんとも不敬な話だ。

 国史の華とも言える聖徳太子を実在しなかったことにし、天武天皇を嘘付き呼ばわりして、輝かしい国史に泥を塗りたくり辱める反日運動のように思えてならない。

 仮に聖徳太子が実在しなかったということになれば、これまで発行された日本銀行券はもとより、数々の文化財や自治体の例規等も、虚偽の事実に基づくものということになって、我々日本人は、先祖代々妄想に支配されたパラノイアだということになるからだ。


 ところで、私の苗字は、「久保」だ。苗字の辞典には、「久保」は「窪」の美称だと書いてある。そういう例もあるのだろうが、漢字にはそれぞれ意味があって、先人がその漢字の意味から「久保」という名を作ったケースもあるのだ。

 すなわち、四天王寺は、推古天皇元年(593年)に、聖徳太子が建立なさった日本最初の官寺として大変有名だ。

 しかし、この四天王寺を囲むように、北斗七星の形に配置された七つの神社(四天王寺七宮)があり、これらの七つのお宮も聖徳太子が建立なさったことは、ほとんど知られていない。

 四天王寺は、正確に東西南北に位置し、春分・秋分には、太陽が東門から昇り、西門に沈む。西方にある極楽浄土から見たら、四天王寺の西門は東門にあたることから、西門の鳥居の額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書いてある。

 この四天王寺の真東に聖徳太子が建立なさったのが久保神社だ。太陽神・皇祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)をご祭神としている。別名、槐(えんじゅ)の宮と呼ばれる。槐というのは、魔除(まよけ)の木という意味だ。槐は、延寿(えんじゅ)に通じ、未来永劫、四天王寺を守護せんと「久保」と命名された神社なのだ。

 昔、30数年前だっただろうか、四天王寺を見学したついでに久保神社を一度お参りしたことがあるが、戦争で社殿が焼失して簡素な社殿に建て替えられており、往時を知る由もない。


 ちなみに、私は、久保神社とは縁もゆかりもないことを申し添えておく。








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