自治体の人事課は、他の役所の人事課とのつながりがあるのに、意外なことに、それぞれがどのような職員研修を行なっているのか等については、詳細をご存知ない。
そのため、人材育成に情熱を傾けておられる人事課の職員さんは、チャンスとばかりに、私のような外部講師から他の役所の動向等を訊こうとなさるし、いろいろご相談もなさる。このような熱心な職員さんを研修担当にしておられる役所は、たとえ不祥事があったとしても、土台が大変しっかりしているから、決してブレたりしない。
これに対して、土台が崩れ、澱んでいる役所の場合には、人事課の職員さんは、一見すると礼儀正しいようなのだが、慇懃無礼(いんぎんぶれい)で、事なかれ主義に陥っていて熱意が全く感じられず、当然のことながら根掘り葉掘りと私に訊ねることも世間話さえもすることもなく、「定刻になったらテキトーに始めてください。会場の関係がありますので、終了時間にきちんと終わるようにしてください。早めに終わっていただいても構いません。」と投げやりな態度でそそくさと引っ込んで、早くおわらないかなぁと時計ばかりを眺めている始末。研修担当者がテキトーに思っている研修を受講される職員さんたちが哀れに思えた。私としては、一旦お引き受けした以上、受講生のために、汗だくになって一所懸命に講義をしたのは言うまでもない。
組織は人なり。全職員の人材育成を任されたことを名誉に感じ、少しでも人材育成に貢献したい、それがひいては住民の福祉(=幸せ)の増進につながるのだと自己研鑽に励み、自ら職員の模範とならんと努力しておられる研修担当者がおられる自治体職員さんは、幸せだと思う。
昔、ある役所に出講した際に、休憩時間中に人事課長さんとご一緒にタバコを一服しながらおしゃべりしていたら、職員採用試験の面接の話になった。この人事課長さんは、面接の時期が近づくと胃が痛くなるそうだ。というのは、受験生の適性を見極めるための質問を毎回考えるのに苦労なさるからだそうだ。
そこで、例えば、どのような質問をなさったことがあるのかとお訊ねしたところ、次のような質問を受験生になさったそうだ。
「あなたは、この役所の職員として採用されました。ある日、大地震が発生して、自宅が倒壊し、家族が生き埋めになっていると仮定します。その時に、役所の上司から直ぐに役所へ出頭せよとの命令メールが届いたとしたら、どうしますか?」
この人事課長さんが、「久保先生ならば、どのように回答なさいますか?」とおっしゃるので、「そもそも面接の答えは、一つではありません。命令に従って出頭しようがしまいが、どちらも正解になり得えます。仮定の質問ですから、仮定で答えればよいのです。」と前置きしてから、「私ならば、『う〜ん。。。生き埋めになった家族の安否を確認次第、可及的速やかに出頭する旨の返信をするとともに、急いでご近所の人や救急隊員に助けを求め、生き埋めになった家族の安否を確認し、周りの人々に事情を説明して後を託して、大急ぎで役所へ出頭します!』と回答するでしょうね。」とお答えした。実際、末期癌の父が臨終の際に、どうしても講義をしなければならなかったため、家族に後を託して、出講したことがある。
人事課長さんは、ずっと黙って頷いていた。そして、私の回答を聴き終わってから、「究極の二択問題であって、何が正解かは決まっていませんが、個人的には何の躊躇(ためら)いもなく『直ぐに出頭します!』と回答した受験生を採用したくないです。」とおっしゃった。「地方公務員法上、『上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない』(地方公務員法第32条)以上、直ぐに出頭すべきなのかも知れませんが、家族が生き埋めになっているのに見殺しにするのは、職員である前に人としてどうなのかと思うからです。」と。
この時、思い出したのが、今から40年ほど前に読んだスウィフト著・平井正穗訳『ガリヴァー旅行記』(岩波文庫)の一節だ。少し長いが、引用しよう。
「あらゆる就職の場合、その人選に当たっては、有能な人間であることよりも有徳の士であることを重視する。政治が人類全般にとって必要欠くべからざるものである以上、ごく当たり前の人間的理解力の方が各種の地位にふさわしい。それに神にしても、公務の遂行を、それこそ一時代に三人とは生まれない、ごく僅かな、途方もない天才だけにしか分からないようなひどく深遠な仕事にしようなどとはお考えにならなかったはずだ。それどころか、真実や正義や節制等々といったものは、誰にも手の届かない美徳ではない。経験と善意の力をかりてこれらの美徳を実際に実践できる人間なら、誰だって充分に国家公務員としての資格がある。もちろん、一定の専門的な研修が必要な部門は例外であるにしてもだ。しかし、道徳的観念が欠けている場合には、いくら天賦の知的才能に恵まれていてもそれをみたすことはできない。そういった性質の人間の危険な手に、大切な公務を委ねることはできない。篤実な人間にしても、無知のためについ誤ちを犯すかもしれないが、少なくともそのような誤ちは、生まれながら腐敗堕落しやすい性格をもち、しかも抜群の知能を駆使して自分の腐敗行為を巧みに処理し増大させ言い繕(つくろ)う人間の所業に比べれば、国家の公共の福利に対してそれほど致命的な害を及ぼすことはないはずだ。」(同書69頁・70頁)
公務員試験予備校の講師を掛け持ちしていたとき、何千人だろうか、数え切れないぐらいの受験生の面接指導をして、その多くが合格した。
しかし、ずっと悩み、苦しんできた。公務員にしてはならない人を合格させてどうするのかと。
現役の学生は、なんだかんだ言っても、おぼこい。考え方も幼いし、経験も乏しい。公務員は、9時5時で帰宅できると思っている子もいる。しかし、「鉄は熱いうちに打て」で良き上司・先輩に恵まれれば、適性のある素直な子は伸びるだろう。また、おぼこいからこそ、上記の人事課長さんのように胃を痛めなくても、ありふれた質問であっても的確にし続ければ、必ずボロを出し、不適格者を見極めることができる。ただし、公務員試験予備校で、熱心な指導を受ければ、容易にボロを出さないし、高い評価を受ける言動をするので、面接方法や質問には工夫が必要だが。
これに対して、民間企業経験受験生は、社会に出て揉まれているので、そもそも簡単にはボロを出さない。世間擦れしていて、そういう能力だけは鍛えられているのだ。それなのに、民間企業経験受験生を現役の学生と同じグループにして、集団面接や集団討論を行なっている役所が多いのには、呆れる。
今だから言えることだが、これまでの経験上、民間企業経験受験生の8割ぐらいは、公務員にしてはならない人だった。公務員試験予備校の講師には、本音を語るので、間違いない。本当に使える優秀な人材ならば、民間企業は簡単にその受験生を手放そうとしないし、本人も、転職が脳裏をよぎることがあったとしても、これまでの実績を捨ててまで公務員に転職しようとは思わないはずだ。お勤め先に不平不満を抱くのは一労働者として同情できるが、自己評価が高すぎる人が少なからずいる。何よりも役所を労働条件の良い転職先としか考えておらず(実際に、採用されると、部署によっては前職よりもブラックだと不平不満を言うようになる。笑)、高い志も公務員としての矜恃(きょうじ)も夢もない人が多すぎる。こんな受験生を絶対に公務員にしてはならない。
ところが、このような受験生に対しても、ボロを出さずに高い評価を受ける言動ができるように懇切丁寧に指導するので、合格してしまうのだ。公務員試験予備校の講師だった自分のことを棚に上げて言わせていただければ、面接官はどこを見ているのかとずっと思っていた。
面接官は、受験生を色眼鏡で見てはならない、先入観を持ってはならないというような指導がなされているらしいが、それがそもそもの間違いだ。受験生は、ボロを出さずに高い評価を受けるように周到に準備しているのだから。面接官は、受験生を疑ってかかることが肝要だ。
『論語』に「巧言(こうげん)令色(れいしょく)鮮(すくな)し仁(じん)」という章句がある(『論語』学而第一)。「弁舌さわやかに表情たっぷり。そんな人たちに、いかにほんとうの人間の乏しいことだろう。」という意味だ(貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)12頁)。
年々、役所は、コミュニケーション能力の高い人材を求める傾向にあるため、巧言令色な受験生を高く評価しがちだが、面接官は、「巧言令色鮮矣仁」を肝に銘じなければならぬ。木訥(ぼくとつ)であっても、有徳の士はいるのだ。
では、具体的にどうやって受験生を疑ってかかればよいのか。前述の私の回答を例にとれば、すかさず揺さぶりをかける質問をすればよい。和やかな雰囲気で(これが大事。受験生の本音を引き出しやすくなるからだ。)、「なぜそのようにお考えになったのですか?」、「確かに、おっしゃる通りかも知れませんね。ただ、実はですね、地方公務員法には、『上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」と明記されているのです(笑)。◯◯さんは、上司から直ぐに役所に出頭するように命令されたのに、直ぐに出頭しなかったわけですが、どう思われますか?」という風な感じで、その回答が己の信念に基づいたものなのか、その場しのぎで口から出まかせを言っているだけなのか等を確かめ、さらに「これと似たような二者択一を迫られたご体験がございましたら、教えていただけませんか?」という風な質問や別の角度からの質問を繰り出して、裏付けを取るようにして、有徳の士かどうかを確かめていけばいいのだ。
この点、孔子は、「其(そ)の以(な)す所(ところ)を視(み)、其(そ)の由(よ)る所(ところ)を観(み)、其(そ)の安(やす)んずる所(ところ)を察(さっ)すれば、人(ひと)焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや、人(ひと)焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや。」と述べている(『論語』為政第二)。
つまり、「人の善悪を知るには、まずその人の行為をしらべてみる。もしその人の行いが善であるならば、次にその行為の動機を注意してしらべてみる。もし動機が善であるならば、更に善を楽しんでいるか否かをよくしらべてみる。善を楽しむ人ならば真の善人である。この三つの手段によって、人を観察するならば人は決してその善悪を隠して知らせないようにすることはできない。」(宇野哲人著『論語新釈』(講談社学術文庫)45頁)。
では、不幸にして、公務員にしてはならない受験生が面接をすり抜けて公務員に採用されるとどうなるのか。
そのうちの数人は、末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう)先生が『役人学三則』で述べておられる「役人として必要な心得」三箇条を体得した立派なお役人さまになるのだ。
末弘先生は、公務員採用試験に合格した若者への手紙という形をとって、「役人として必要な心得」を次の三箇条にまとめ、それぞれについて注釈を加えておられる。
第一条 およそ役人たらんとする者は、万事につきなるべく広くかつ浅き理解を得ることに努むべく、狭隘なる特殊の事柄に特別の興味をいだきてこれに注意を集中するがごときことなきを要す。
第二条 およそ役人たらんとする者は法規を楯にとりて形式的理屈をいう技術を習得することを要す。
第三条 およそ役人たらんとする者は平素より縄張り根性の涵養に努むることを要す。
この『役人学三則』は、風刺の形で役人を批判したものであって、この三箇条を遵守せよとおっしゃっているわけではないので、誤解なきようお願いしたい。注釈も実に皮肉が効いていて面白い。青空文庫にて無料で読めるので、URLを貼っておく。
どこの役所も人材育成方針を定めている。そこにはそれぞれが理想とする公務員像が描かれている。大変立派だが、抽象的すぎて、よく分からない。私は、逆転の発想が必要だと思う。
もし、役人学研修というものがあるならば、役所の現場で実際に働いてみた経験を踏まえて、ダメ公務員とはどういう人を指すのかについて、事前に考えてきてもらった上で、グループワークを実施し、具体的な事例と理由、見極め方を詳しく列挙してもらおうと思っている。このグループワークを通じて、自分自身を見つめる機会になり、他人の意見を聴くことによって自己研鑽の動機付けにもなるからだ。何度か繰り返せば、かなりのデータが集積され、面接官の研修その他の人材育成や人事評価に役立てることも可能になろう。
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