江戸と大坂の債権回収の違い

 私人(民間人のこと。)の場合には、債権を行使するかどうか(ex.借金を返せと請求するかどうか)は、自由だ。


 これに対して、地方公共団体の長は、金銭の給付を目的とする地方 公共団体の債権について、その督促、強制執行その他その保全及び取立てに関し必要な措置をとらなければならないとされている(地方自治法第 240 条第 2 項、地方自治法施行令第 171 条~第 171 条の 4)。逃げ得を許さず、必ず取り立てる必要があるからだ。


 しかし、実際には、地方公共団体は、債権回収に必ずしも熱心ではなかった。地方公共団体の長(知事・市町村長)が債権回収に積極的に取り組んでも、必ずしも票に結び付かないし、むしろ厳しい取り立てをすると、不評を買って落選する可能性もあるからだ。

 また、地方公共団体の職員には、税務署職員と異なり、債権回収に関するノウハウや経験に乏しいこと、債権回収は、相手方住民に喜ばれる仕事ではないので、気乗りがせず、不能欠損処理した方が楽だったこと、住民に身近な地方公共団体職員が私生活で滞納者にばったり出会うことがあることなども、債権回収に消極的にならざるを得ない理由として考えられる。


 ところが、バブル経済崩壊後、長引く不況により、財政状況が厳しくなったため、地方公共団体も背に腹はかえられぬとばかりに、債権回収に積極的に乗り出すようになった。

 消滅時効期間(通常は、5年。地方自治法第236条第1項)内に債権回収をせねばならないから、初心者向けの法学入門研修でも、消滅時効について講義をするようにしている。


 今日は、講義時間との関係で、触れることができない江戸時代のお話をしようと思う。


 江戸時代の裁判には、吟味筋(ぎんみすじ)と呼ばれる刑事裁判手続と、出入筋(でいりすじ)と呼ばれる民事裁判手続があった。

 出入筋は、出入物(でいりもの)又は公事(くじ)と呼ばれる訴訟事件によって、二つの手続に分かれる。すなわち、金公事(きんくじ)と呼ばれる金銭債権に関する裁判手続と、本公事(ほんくじ)と呼ばれる金公事以外の訴訟事件(ex.物の引渡し、土地の境界、身分関係)に関する裁判手続があった。

 代金や借金などの金銭債務を弁済しない場合には、金公事を経て、日限済方 (ひぎりすみかた)と呼ばれる一定日限内の弁済命令、又は切金(きりがね)と呼ばれる長期分割払い命令がなされる。

 これらの命令に従わない場合には、身代限(しんだいかぎり)と呼ばれる強制執行が行われた。すなわち、当事者と町村役人立ち会いで債務者の全財産から債務額に応じて物を取り上げ、債権者に交付した。天保 14 年(1843年)以後は、売却代金を債権者に交付するようになった。なんと、この身代限は、旧民事訴訟法が制定される明治23年まで続いた。


 さて、金公事については、江戸と大坂では運用が全く異なっていた。江戸の金公事は、切金を多用した。切金は、債務者にとっては大変ありがたい長期分割払い制度であって、例えば、債務額100両の場合には、毎月3分(ぶ。歩とも書く。1両=4分)ずつ分割払いすれば、身代限を免れることができた。つまり、債務完済まで、なんと11年もかかったわけだ。債権者にとっては、踏んだり蹴ったりだ。

 しかも、江戸時代中期(享保)以降、裁判増加による裁判の停滞を理由に、相対済令(あいたいすましれい)がしばしば発令された。相対済令というのは、金銭貸借をめぐる金公事については、相対(当事者同士のこと。)で解決すべしという裁判拒否の命令だ。訴えても裁判をしてもらえないわけだ。その結果、貧乏な旗本・御家人が借金を踏み倒すケースが増加した。お金を貸した商人は、「泣く子と地頭には勝てぬ」で、泣き寝入りを強いられたわけだ。


 ところが、商人(あきんど)の町大坂では、債権回収を迅速かつ確実に行う裁判制度が独自に発達し、慣習法として確立していた。

 すなわち、大坂町奉行所では、金公事と本公事という呼び方をせずに、金公事に相当するものを金銀出入(きんぎんでいり)と呼び、原則として切金を認めず、相対済令も発布しなかった。その結果、金銀出入に敗訴した債務者が弁済しない場合には、速やかに身代限が行われた。

 このように大坂では、迅速かつ確実な債権回収が保障され、西洋に匹敵する近代的な民事訴訟制度が確立していたわけだ。


 しかし、テレビ時代劇『暴れん坊将軍』で有名な八代将軍徳川吉宗公が、寛保2年(1742年)、享保の改革の一環として公事方御定書(くじかたおさだめがき)を定めると、この幕府法を全国に普及させようとして、大坂にも裁判制度を改めるよう命じた。

 すなわち、大坂町奉行所は、西日本の金銀出入の評定所的な役割を果たしていたのに、明和3年(1766年)に民事裁判管轄権制度が改正され、一遠国の奉行所という位置付けに格下げされるとともに、明和4年(1767年)に、江戸と同様に切金をしなければならなくなった。

 

 しかし、このような幕府の命令に従うと、迅速かつ確実な債権回収の保障によって支えられてきた上方の金融経済・商取引が大混乱に陥り、経済が低迷することは、火を見るよりも明らかだった。

 そこで、大坂町奉行鵜殿出雲守(うどのいずものかみ)・曲淵甲斐守(まがりぶちかいのかみ)は、幕府の命令に徹底的に抵抗した。幕府の命令を実行に移さず、何度も江戸幕府との手紙のやり取りをすることによって時間稼ぎをしている間に、幕府側が折れて、結局、従来通りに戻った。

 幕府といえども、地方の慣習法を無視できなかったし、何よりも、大坂の慣習法に経済合理性があることを認めざるを得なかったわけだ。

 実際、時代は下るが、天保改革を断行した老中水野忠邦は、大坂の慣習法を見習って、天保14年(1843年)に、金公事改革を断行し、切金を原則として廃止した。迅速かつ確実な債権回収を確保することが幕政を建て直すのに必要だったからだ。


 こうして金公事に関する大坂の慣習法が江戸でも取り入れられることにより、明治になって西洋の民事訴訟制度を受け入れる下地ができたわけだ。


 学校教育で主流の日教組教育では、進歩主義史観に基づいて、江戸時代は、暗黒時代として描かれがちだが、それは無知又はプロパガンダだということが分かると思う。


 AbbaアバのMoney, Money, Moneyマネー、マネー、マネー(1976年)をどうぞ♪

働けど豊かになれない女性が金持ちとの結婚を夢見る歌。苦笑

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