江戸時代の民事裁判 <追記あり>

 江戸時代の民事裁判の概要については、すでにこのブログで触れた。昔の教え子から、もう少し知りたいというメールがあった。教師の職業病で、こういうリアクションがあると妙に張り切ってしまうのだが(苦笑)、ご要望に応えてお話ししようと思う。一部重複する部分があるが、ご容赦願いたい。

 この点に関連して、面白い記事があるので、ご紹介する。

 上記の記事には、「この年寄り3家(奈良屋、樽屋、喜多村)は、その下に連なる組織の筆頭として自治を行い、町民たちの民事的な訴訟ごとを裁く裁判所として機能していた。 町内の訴訟はまずは町名主が裁き、それでも解決しない時には町年寄りに上訴して、それでも解決しなかった場合は、管轄の奉行所に上訴するという累進制が取られていた。 その際、裁判機能を維持するために、月ごとに家持たちが町名主の補佐役を務めていた。しかし家持は多忙だったため、その代行をしていたのが大家さんである。」とある(下線:久保)。


 補足説明をすると、江戸時代には、三権分立制がなかったから、行政と司法は分離していなかった。奉行や代官は、行政官であると同時に裁判官でもあったわけだ。

 行政も司法も法を執行する点では共通するので、ジョン・ロックの言葉を借用すれば、奉行や代官は、執行権を担当していたことになる。


 幕府には、藩主や奉行の管轄を超える事件などを取り扱う評定所(ひょうじょうしょ)が置かれており、寺社・町・勘定の三奉行によって構成される評定所一座の合議による裁判が行われ、いわば最高裁判所のような役割を果たしていた。

 もっとも、上記の記事の三審制は、あくまで町内の自治制度を前提としており、幕府の制度としては一審制を採っていたので、奉行や代官の裁判に不服があったとしても上訴することができないから、評定所は、正確に言うと、現在の三審制における最高裁判所ではないが。


 日本国憲法第32条は、裁判を受ける権利を人権として保障しているが、江戸時代には、裁判を受ける権利は、保障されておらず、私的紛争の解決をお上(かみ)に願い出て、お上の恩恵として裁判が行われるにすぎなかった。そのため、訴状には「乍恐(おそれながら)御訴訟」と書くのがしきたりだった。

 つまり、江戸時代の訴えは、日本国憲法第16条の請願に相当するものだったわけだ。


 訴えは、所定の手続を経なければならない。例えば、評定所の管轄に属する事件であったとしても、訴状は、寺社奉行所、町奉行所又は勘定奉行所に提出しなければならないのに、奉行所を飛び越えて、直接評定所に提出すると、越訴(おっそ)になる。


 越訴とは、所定の手続を経ずに非合法に訴え出ることをいう。広義の越訴には、その形態により、直訴(じきそ)、駕籠訴(かごそ)、駈込訴(かけこみそ)、強訴(ごうそ)があるが、いずれにせよ禁止され、通常、死刑など厳罰に処せられた。

 もっとも、「窮鳥(きゅうちょう)懐(ふところ)に入(い)れば猟師(りょうし)も殺(ころ)さず」(追いつめられて逃げ場を失った者が救いを求めて来れば、どのような理由があるにしても、助けてやるのが人の倫(みち)だという意味。)で、駕籠訴や駈込許などは、事実上訴えが聞き届けられることが多かったそうだ。自分を頼って助けを求めて来た者をむざむざと死なすのは忍びないからだ。


 ここに直訴(じきそ)とは、将軍、領主などに直接訴え出ることだ。直訴は、禁止されていたが、合法的な直訴もあった。すなわち、五代将軍徳川吉宗公が設置させたことで有名な目安箱(めやすばこ)に願いを書き入れる箱訴(はこそ)だ。

 ちなみに、明治以降は、直願といい、天皇に直接願い出ることをいう。昭和22年に廃止された請願令(大正六年勅令第三十七号)第16条は、「行幸ノ際沿道又ハ行幸地ニ於テ直願ヲ爲サムトシタル者ハ一年以下ノ懲役ニ處ス行啓ノ際沿道又ハ行啓地ニ於テ直願ヲ爲サムトシタル者亦同シ」と定めていた。


 駕籠訴(かごそ)とは、将軍、老中、領主などの行列を待ち受けて、駕籠に訴願書を投げ入れたり、直訴することだ。テレビ時代劇にも、「恐れながらお願いしたき儀これあり!」と路上に土下座して、駕籠に乗っている殿様に訴え出る場面がよく登場するが、あれだ。


 駈込訴(かけこみそ)とは、通常の手続では訴えが受理されない場合に、奉行所や幕府の有力者、領主や重臣の屋敷に駆け込んで訴え出ることだ。


 強訴(ごうそ)とは、平安時代には、比叡山延暦寺の僧兵たちのように、神輿(みこし)を担いで、神仏の宗教的権威を誇示して、集団で権力者に訴え出ることだったが、江戸時代には、領主に対して年貢の減免を求める百姓一揆(ひゃくしょういっき)を意味するようになった。


 江戸幕府の裁判には、吟味筋(ぎんみすじ)と呼ばれる刑事裁判と、出入筋(でいりすじ)と呼ばれる民事裁判に分かれるが、刑事と民事の区別は、必ずしも厳密ではなく、事件内容によっては、出入筋の途中で吟味筋に変更されることもあったそうだ。

 吟味筋は、テレビ時代劇『遠山の金さん』や『大岡越前』を見れば明らかなように、糺問(きゅうもん。罪や不正を厳しく問いただすこと。)主義であって、奉行や代官が被疑者を糺問し、裁きを言い渡すという二面構造の裁判であって、検察官や弁護人はいなかった。

 この吟味筋は、公事方御定書にある刑法の解釈適用により行われる。ひょっとしたら法学部の学生ですら知らないかも知れないが、江戸時代の刑事判例法は、イギリスの判例法に匹敵するほどの高度かつ緻密な判例法だと高く評価されている。

 これに対して、出入筋は、奉行や代官が原告と被告の双方の主張を聞いて裁きを言い渡すという三面構造の裁判だった。

 支那の影響で、江戸時代には、民法典や商法典がないので、私的な権利関係は当事者同士の約定で確定させねばならないため、これを証する証文(しょうもん)が発達し、各種証文の書式集が広く流布していた。つまり、江戸時代は、高度な契約社会であり、私的自治の原則が妥当していたわけだ。出入筋では、この証文が証拠書類として大いに活用された。


 今日は、民事裁判のお話だから、出入筋に話を戻そう。出入筋で裁かれる事件は、出入物(でいりもの)又は公事(くじ)と呼ばれる。借金や代金などの無利息・無担保の金銭債権に関する裁判は、金公事(きんくじ)と呼ばれ、利息付・担保付の金銭債権、用水、土地の境界、入会(いりあい)、婚姻、家督など、金公事以外の裁判は、本公事(ほんくじ)と呼ばれる。


 本公事が本来の公事であって、金公事は、略式の公事なのだが、実際には、出入筋のほとんどは、金公事だった。今も昔も金銭債権をめぐるトラブルが絶えなかったわけだ。江戸では、切金(きりがね)と呼ばれる長期の分割払い命令がなされ、しばしば相対済令(あいたいすましれい)と呼ばれる裁判拒否がなされたことは、すでに「江戸と大坂の債権回収の違い」というブログで述べた。


 本公事である土地の境界をめぐる裁判や用水をめぐる裁判については、特別な手続があった。

 ちなみに、英語rivalライバルは、競争相手という意味だが、その語源がラテン語rivusリーヴス小川に由来するように、洋の東西を問わず、生活用水や灌漑(かんがい)に用いられる川の流水をめぐって水争いが絶えない。我が国も例外ではなく、水利権という川の流水を利用する慣習法上の権利をめぐって、死人が出るほどの激しい争いが絶えなかった。この水利権は、現在でも慣習法上の権利として認められている。国民権の一つだ。

 さて、出入筋と呼ばれる民事裁判は、現在の民事訴訟と同じように、訴訟人又は願人(がんにん)と呼ばれる原告が、奉行所や代官所に訴状を提出することによって開始される。「訴えなければ、裁判なし」だ。

 原則として、原告を支配する役所に裁判管轄があるが、例外的に、原告と被告の支配が異なる場合には、幕府の評定所(ひょうじょうしょ)に裁判管轄がある。これを評定公事という。


 江戸時代には、民事訴訟法という成文法典はなかったが、書式集が完備し、世間に流布していたので、書式集さえ手元にあれば、素人であっても事足りたため、本人訴訟が行われていた。

 ただ、実際に訴状を書くのは素人には難しいし、面倒なので、公事宿(くじやど)と呼ばれる裁判のために江戸に来た人(原告・被告)が泊まる宿屋の主人や番頭が、いわば弁護士役を務めた。

 公事宿は、江戸では江戸宿、江戸以外の地方では郷宿(ごうやど)と呼ばれたそうだ。いずれにせよ、公事宿の主人や番頭が訴状その他の提出書類の代筆を行ったり、奉行所や代官所へ付き添ったりして、訴訟行為の補佐を務めた。

 このような幕府公認の公事宿の他に、日本橋馬喰町(にほんばしばくろちょう)には、非公認の公事師(くじし)と呼ばれる闇弁護士が多数住んでいたそうで、貧乏人や裁判にあまり金をかけたくない人は、公事師を利用したようだ。

 「必要は発明の母」と言うように、参勤交代のお陰で、大名行列が泊まる宿屋や人足の手配を行う旅行代理店のような商売が生まれたように、裁判で金儲けをする商売も誕生していたわけだ。


 訴状のことを目安(めやす)とも言い、提出された訴状(目安)と関係書類を形式的に審査した上で、訴えを受理するかどうかを決め、受理した場合には、本公事と金公事に区別する決定をする。この手続を目安糺(めやすただし)と呼び、出訴期間や出訴最低額など一定の要件を満たさない訴えは、この段階で不取上(ふとりあげ)とされる。この点も、要件審査を経て、訴訟要件を充さない訴えを却下する現在の民事訴訟と同じだ。

 ただし、現在の民事訴訟と異なって、共同事業者相互間の損益勘定や無尽金(むじんきん。頼母子講(たのもしこう)の掛金・当り金請求のこと。)などは、当事者同士の高度な信頼関係を基礎とする相対(あいたい。当事者同士のこと。)契約であることから、これらの仲間事(なかまごと)に関する紛争については、当事者同士で話し合って解決すべきであって、お上が関与すべきではないとして不取上とされた。私的自治を重視していたとも言えよう。


 訴えが受理されると、訴状に裏書き押印して原告に与える。これを裏書目安(うらがきめやす)という。裏書の内容は、訴えの相手方である被告に対して裁判所への出廷を命じる召喚状だ。

 評定公事の場合には、大変であって、寺社奉行4名、町奉行2名及び公事方勘定奉行2名の計8名の奉行に押印をもらう必要があり、原告が各奉行所へ赴いて押印をして貰わねばならない。この8名の裏書目安のことを八判裏書(はちはんうらがき)という。


 現在の民事訴訟では、裁判所が職権で訴状を被告へ送達してくれるが(職権送達主義)、江戸時代では、大変であって、原告が被告のもとへ裏書目安を持参して、町村役人の立会いの下で手渡した。つまり、当事者送達主義だったわけだ。今も昔も、訴えるのはひと苦労だから、裁判沙汰は真っ平御免被りたいものだ。


 裏書目安を受け取った被告は、自分の主張(反論)を書いた返答書と呼ばれる答弁書を作成し、指定された期日に奉行所又は代官所に出頭して目安裏書とともにこれを提出し、お白州(しらす)と呼ばれる法廷で、原告と対決して審問を受けることになる。

東映京都撮影所のセット

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 お白州と呼ばれる法廷は、並びに下椽(したえん)及び上椽(うわえん)の三層構造になっている。

 テレビ時代劇『遠山の金さん』では、庭と下椽をつなぐ階段が設けられ、北町奉行遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと)がもろ肌になって桜吹雪の刺青を見せて、「この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねぇぜ!」と大見得を切るが、実際のお白州には、階段は設置されていない。

 白い砂利を敷き詰めた庭が通常お白州と呼ばれるもので、百姓・町人などの庶民はここに筵(むしろ)を敷いて座る。武士・僧侶神職・御用達町人は、身分に応じて、下椽と呼ばれる板張りの椽又は上椽と呼ばれる畳敷で一段高い椽に座る。公事宿も町村役人も出廷した。

 テレビ時代劇とは異なり、奉行や代官は、さらに一段上の奥座敷に座る。上の写真の襖を開けた奥にある奥座敷だ。


 奉行や代官は、一通吟味(ひととおりぎんみ)と呼ばれる裁判冒頭の概括的な取調べを行う。実際の審理は、吟味方与力(ぎんみがたよりき。評定所の場合には、評定所留役(ひょうじょうしょとめやく)。)と呼ばれる下役が担当し、原告被告双方の主張を十分に聞いたら審理を打ち切り、再び奉行や代官が登場し、裁許状(さいきょじょう)と呼ばれる判決を言い渡す。


 原告と被告は、裁許請証文(さいきょうけしょうもん)に連判して、奉行所又は代官所に提出し、その写しを受け取る。

 原告は、訴状(目安)と返答書を継ぎ合わしたものを下付され、裏書き押印を受けた奉行所を再び訪れて(評定公事の場合は、8名の奉行の)消印を受け、これを奉行所に納めて、やっと裁判は終了した。


 原告が勝訴しても、被告が裁許状という判決に従わない場合には、公事方御定書(くじかたおさだめがき)によれば、中追放(ちゅうついほう、なかのついほう)が行われた。

 中追放というのは、重追放(じゅうついほう、おもきついほう)と軽追放(けいついほう、かるきついほう)の中間の追放刑であって、田畑・家屋敷を取り上げ、武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曾路筋・下野・日光道中・甲斐・駿河および犯罪を犯した国と住国に入ることが禁じられた。延享二年(1745年)以降は、庶民については刑が軽減され、江戸十里四方と犯罪国と住国の出入を禁じるにとどめた。


 金公事の場合には、弁済命令に従わない被告に対して、身代限(しんだいかぎり)と呼ばれる強制執行が行われたことは、「江戸と大坂の債権回収の違い」というブログで述べた。


 自力救済は禁止されていたが、債務者がどうしても弁済できない場合には、分散(ぶんさん)と呼ばれる債権者・債務者間の契約により債務者が破産することが認められていた。

 すなわち、債務者と債権者との契約により、債務者は、その全財産を債権者側に交付し、債権者側がこれを入札売却して、その売却代金を債権額に応じて按分比例(あんぶんひれい)で分配し、分散に参加した債権者は、不足額を債務者に請求できないことになった。分散は、債権者に分配されるので、割賦又は割符(わっぷ)とも呼ばれる。

 分散に参加しなかった債権者は、他日、債務者の資力が回復するのを待って弁済を請求することができた。この請求を跡懸り(あとがかり)という。


 大雑把に江戸時代の民事裁判について述べたが、如何だっただろうか。過去に目を向けると、実に豊かな法の世界が広がっていることが分かる。現代から見ると、改善すべき点があるけれども、西洋由来の民事訴訟と遜色のない裁判制度が江戸時代に自力で整備されていたことに驚かれたのではなかろうか。だからこそ西洋の民事訴訟を移入することも可能だったわけだ。

 歴史にifは禁物だが、外圧によらずに開国していたら、又は幕府が締結した不平等条約を改定するために急いで西洋の法制度を移入せずに我が国の慣習法を活かす形で法整備をしていたらと思わずにはいられない。

 正直に言うと、良き古き法である慣習法と国民権を大切に守り続けているイギリスが羨ましい。


<追記>

 大事なことを書き忘れていた。今も昔も裁判によらずに紛争を解決していることの方が多い。江戸時代には、内済(ないさい。表沙汰にせずに、内うちに済ませること。)と呼ばれる裁判外の和解又は調停によって多くの紛争が解決されていた。裁判よりも、むしろ内済が原則的な解決方法だったそうだ。


 裁判上の和解は、原告被告双方が連判した済口証文(すみくちしょうもん)又は内済証文と呼ばれる書面を奉行所に提出して、奉行がこれを聞き届ける済口聞届(すみくちききとどけ)によって、確定判決と同様の効力が発生した。

 奉行若しくは代官又は下役は、訴訟のどの段階であっても、積極的に和解を勧め、ときには訴訟当事者を諭(さと)したり、牢に入れるぞと脅したりして和解を勧めた。現代でも、裁判官は、和解を勧めたり、調停をしたりすることに熱心だ。これは江戸時代からの伝統であって、西洋では裁判官が仲介者になる調停はないはずだ。

 奉行所又は代官所は、和解の可能性がある限り、何度でも日延願(ひのべねがい)という続行期日の指定願いを認めて訴訟を引き伸ばし、その間に、法廷外では公事宿が内済の仲介を行う扱人(あつかいにん)になることが多く、和解交渉を行うための懸合茶屋(かけあいちゃや)という喫茶店まであったそうだ。


 相互に譲り合う和解や調停は、円満な紛争解決方法であるが、権利義務関係の明確化を避け、権利意識の発達を妨げたとマイナスに評価する人もいるが、争いを好まない我が国の国柄にマッチしていたからこそ和解や調停が江戸時代から今日まで多用されているのだろうから、一概にマイナスとは言えないように思われる。

 




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