民法を学び始めた頃に戸惑った言葉の一つに、「自然人(しぜんじん)」がある。
※ 余談だが、我々日本人は、無意識に①と②を使い分けている。
①「苦労」人、「弁護」人のように、「人」と結びついた「苦労」・「弁護」などの言葉が「〜する」と活用できる場合には、「人」を呉音で「にん」と読む。
②「社会」人、「外国」人のように、「人」と結びついた「社会」・「外国」などの言葉が「〜する」と活用できない場合には、「人」を漢音で「じん」と読む。
『精選版 日本国語大辞典』(小学館)によれば、「自然人」とは、
「① 未開人、または、社会の因習などに毒されていない、自然のままの人間。
② 法人に対し、生きている人間をいう。近代法では出生から死亡に至るまで権利能力(人格)を認めている。」
とある。
私が子供の頃は、アフリカ、東南アジア、南米などに裸で原始的な生活をする未開人の部族がたくさん暮らしており、これを取材したドキュメンタリー番組がテレビで放送されていた(ex.毎週『驚異の世界』という30分番組が日本テレビ系列で放送され、ほぼ欠かさず観ていた。)。
https://www.youtube.com/watch?v=pN-JxioO_MY
そのため、通常、日常生活において、「自然人」は、未開人、野蛮人、非文明人という①の意味で用いられていたから、なぜ我々文明人のことを「自然人」と呼ぶのだろうかと戸惑ったわけだ。
民法(明治二十九年法律第八十九号)自体は、「第二章 人」と題して生きている人間のことを「人」と呼び、「第三章 法人」と区別している。
ところが、民法学者は、民法上、権利義務の主体たる「人」には、「自然人」と「法人」があると説明している。
つまり、民法学では、法律上の「人」には、生きている人間である「自然人」と法律上人として扱われる団体である「法人」の2種類があるというわけだ。
概念を整理する上では、民法学者の説明の方が優れている。ただ、なぜ生きている人間を「自然人」と呼ぶのかが分からない。民法の教科書や法学用語辞典には理由が載っていないのだ。
この「自然人」も、御多分に洩れず、翻訳語だった。英語natural person、ドイツ語natürliche personを直訳したものがまさに「自然人」だ。
ただ、フランス語の場合には、ちょっと説明が必要だ。フランス語のpersonne physiqueを直訳しても「自然人」にはならないからだ。
personneは、人間を意味するが、法律学では人格(法人格)を指す。法人格とは、権利義務の帰属主体たり得る能力・資格のことだ(権利能力ともいう。)。
physiqueは、女性名詞の場合は物理学だが、男性名詞の場合は肉体を指す。
従って、personne physiqueは、法人(personne civile(morale))に対して、人格(法人格・権利能力)を持った肉体、すなわち生きている人間・個人を指すわけだ。
しかし、このように原語を見ても、なぜ生きている人間を「自然人」と呼ぶのかがいまいち分からない。
おそらくこういうことではなかろうかと考えている。
すなわち、西洋では、成人男性のみが法律上の「人」として扱われ、物を所有したり、契約を締結したりすることができた。
女性、未成年者及び奴隷は、法律上の「人」として扱われていなかったのだ。
そこで、人権思想を背景に、すべての人間は、生まれながらにして当然に法律上の「人」として扱われなければならないと考えられるようになった(権利能力平等の原則)。
その結果、すべての生きている人間は、生まれながらの(natural / natürliche)法律上の「人」(person)だということで、natural person、natürliche personという新しい言葉が生まれたのだ。
同様の理由から、フランスではpersonne physiqueと呼ばれているわけだ。
従って、「生まれつき」・「生まれながらの」を意味する「生得(せいとく)」又は「生来(せいらい)」を使って、「生得人」又は「生来人」とでも翻訳すれば、「自然人」よりも少しは分かり易くなったかも知れない。
しかし、naturalには、人の手が加えられていない(人為的ではない)という意味があるから、人の手が加えられて設立された「法人」と対比する上では、「自然人」の方が適切な訳だと思う。
どなたが翻訳なさったのかは知らないが、明治の人は、やっぱりすごい。
このように「自然人」は、元来、講学上の概念だったのだが、今では法令用語になっている。
会社法(平成十七年法律第八十六号)、外国為替及び外国貿易法(昭和二十四年法律第二百二十八号)、原子力損害の賠償に関する法律(昭和三十六年法律第百四十七号)など、34本の法令で「自然人」が用いられている。
自治体でも、16本の条例、79本の規則で「自然人」が用いられている。
ところで、キリスト教的世界観によれば、人間と自然は対立し、自然は人間が支配すべきものであって、人間が人為的につくりあげたものが文明なのだが、キリスト教徒が神ではなく流れ星(自然)にお願いをするのは、キリスト教以前のアミニズムの名残りなのだろうかと思っていた。
しかし、下記のリンク先によると、これもキリスト教の影響なのだそうだ。すなわち、中世ヨーロッパでは、「神様が時々、下界の様子を見るために天界の扉を開ける。その時に天の光が扉の隙間から漏れて流れ星となる」と言われていた(出典不明だが。)。そこで、そのわずかな時間に願いごとをすれば、きっと神様に届くと考えて、流れ星にお願いをするようになったらしい。
https://www.tfm.co.jp/garage/detail.php?id=246
理不尽な境遇に喘(あえ)ぐ庶民は、堕落した教会でいくらお祈りしても、悪人がのさばり、弱く貧しき我らの暮らし向きが一向に良くならないことから、神が善人も悪人も等しく愛されるのであれば、何故、善良なる我ら弱き者のみに苦しみと試練を与え、試されるのか、神に願いが届いていないのではないかと考えて、一縷(る)の望みをかけて流れ星に願掛けするようになったというのが真相かも知れぬ。
気分転換に、1940年のディズニー映画『ピノキオ』の主題歌When You Wish Upon a Star(邦題:星に願いを)のジャズバージョンをどうぞ♪
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