昭和28(1953)年12月1日発行開始・昭和49(1974)年8月1日発行停止の百円札に用いられた板垣退助の肖像。子供の頃に使っていた。今も使えるので、家にある。
https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/valid/past_issue/pbn_100.htm/
「輿論(よろん)」は、「人々の議論または議論に基づいた意見」であるのに対して、「世論(せろん)」は、「世間一般の感情または国民の感情から出た意見」だ(『デジタル大辞泉』小学館)。
輿論は、Public opinionの訳であって、多数人の議論に基づいた意見、公論であって、理性的・論理的な主張であるのに対して、世論は、popular sentiment国民感情・民心の訳であって、世間の「空気」のような情緒的な感情だ。
戦前の知識人の間では両者が使い分けられていたのだが、戦後、画数が多いという理由により当用漢字・常用漢字表に「輿」が掲載されなかったため、「輿」に「世」が当てられた結果、「世論」が「よろん」と呼ばれるようになり、「世間一般の人の考え」というような意味で用いられるようになってしまった。
国語審議会・文部省の罪は、重い。
戦前の政界・官界・軍部・マスコミは、民族主義・軍国主義などを隠れ蓑にした社会主義が幅を利かせ、世論(せろん)もこれを支持したため、戦争への道を突き進み、もう少しで一億玉砕するところだった。
戦後、日本社会を大混乱に陥れた労働運動・学生運動も社会主義に基づくものであるし、最近よく喧伝されているSDGs、LGBT、フェミニズム、ルッキズム、環境至上主義なども社会主義と同根だ。
世論(せろん)に流されて三たび過ちを犯さぬように、輿論(よろん)による政治を実現するため、今こそ「板垣死すとも自由は死せず」で有名な板垣退助(天保8年4月17日(1837年5月21日)〜大正8年(1919年)7月16日)の言葉に耳を傾けるべきではなかろうか。
そこで、板垣退助遺著『立国の大本』(板垣会館建設後援会、昭和7年)から、「第九 社会主義」(41頁から46頁)をご紹介しようと思う。
1944年(昭和19年)に出版されたハイエク著『隷従への道』よりもはるか前に、江戸時代に生まれた板垣退助が社会主義の危険性に警鐘を鳴らしていたことに驚きを禁じ得ない。
私のブログをお読みになっている方ならば、原文のままで良かろうと思ったが、お若い方には若干読みにくいかも知れないと思い直し、現代仮名遣いに改め、可能な限り常用漢字にしてルビを振り、注を施した。
「一君の下(もと)万民悉(ことごと)く平等にして、皆(み)な同一均等の機会を有し、其(その)間(かん)毫(ごう。※少しもという意。)も階級特権の存在を許さざるは、我国建国の体制にして、此(この)体制よりする時華族制度の如(ごと)きは之(これ)を一代制と為(な)し、万民をして平等均一ならしめ、完美なる立憲代議政体を運用するには輿論(よろん)政治の精神と信任政治の意義に徹底し、最もよく我邦の国情に適合せる戸主選挙法を以(もっ)てし、国民の自覚によりて其発展を促し、以て国運の隆昌(りゅうしょう。※勢い盛んで、栄えることの意。)、社会の幸福を庶幾(しょき。※こいねがうことの意。)すべしとは、予(よ。※私という意。)が前段に説く所也(なり)。然(しか)りと雖(いえど)も予が茲(ここ)に平等均一というは政治上に於(お)ける権利の平等均一を指すものにして、決してかの社会主義者の唱うるが如(ごと)く、社会上に於ける生活の平等均一を指せるにあらず。蓋(けだ)し(※思うにという意。)社会の実情に於て権利は之を平等均一ならしむることを得べきも、生活は決して之を平等均一ならしむることを得べからず。何(なん)となれば(※なぜならばという意。)人間の智愚、強弱、勇怯、勤惰等の差別ある以上、これより生ずる所の生活の現象は自(おのず)から相(あい)異(こと)ならざるを得ざるを以て也。又た之と同じく人爵(じんしゃく。人から与えられた栄誉・爵位の意。)に基く所の階級即ち華族制度の如きは、もと人為(じんい)に成れるものなるが故に、之を破壊することを得るも、其人の人格よりして自然に発生せる所の天爵(てんしゃく。天から授かった人徳の意。)なるものは、人為的のものにあらざるが故に、到底これを破壊すること能(あた)わず。桜梅桃季(おうばいとうり)の各其色と香とを異にし、之をして一(いつ)ならしむること能わざるが如く、人格の光よりして発する所の天爵も亦(ま)た自然に相(あい)異なる所ありて、何者の力を以てするも到底之を平等均一ならしめ得べきにあらず。是(ここ)に於てか天爵よりする所の不平等は、生活上に於ける不平等と倶(とも)に到底之を免るべきにあらざる也。
然(しか)るに社会主義は之(これ)に反して生活の平等均一を以(もっ)て主義とする者にして、平等と共産を以て其(その)前提と為(な)せり。蓋(けだ)し社会主義より平等主義と共産主義の二者を取り去れば、社会主義は其意義を為さず。故に苟(いやしく)も(※かりそめにもという意。)社会主義と謂(い)えば同時に必ず平等主義、共産主義ならざる可(べ)からず。而(しこう)して(※それに加えてという意。)生活上の平等主義は即(すなわ)ち全然人間の個人性を没却(ぼっきゃく。なくすという意。)し、其(その)智愚、強弱、勇怯、勤惰の別を徹せる所の絶対無差別主義にして、各個人は唯一の労働を条件として社会に頼(たよっ)て生存し、毫(ごう)も世味(せいみ。世の中の味わいという意。)辛酸(しんさん。※つらく苦しいことの意。)を嘗(な)めて其徳器(とっき。※徳行と器量の意。)を成就(じょうじゅ)し、若(もし)くは切磋琢磨(せっさたくま)によりて其材能(さいのう。※才能の意。)の長ずる所を発揮し、以て個人の発展を期するというが如き競争を必要とせざるが故に、亦(ま)た之(これ)を謂(い)って絶対無競争主義と為すことを得べく、共産主義とは即ち経済の基礎を全然社会に置き、私有財産の制を廃して一切の資本を社会の有と為し、この資本の社会化によりて、唯一の労働を条件として社会万民の生活を平等均一ならしむるを謂う。
しかも斯(かく)の如(ごと)きは到底個人性ある人間の堪(た)え得る所にあらず。彼等は労働は神聖にして人間は悉(ことごと)く平等無差別に労働の結果を収(おさ)め、平等均一の生活を求むべきものなりと説くも、今試みに彼等の要求するが如く、悉く労働の賃金を一定し、之(これ)を平等に社会の各個人に頒(わか)つとせんか、労働の多寡(たか。※多いことと少ないことの意。)、勤惰の如何(いかん)によりて之が報酬を異にする時は、各人の平等を破り、社会主義の根本思想に反するが故に、勢い之を差別すること無くして悉く一様に其(その)賃金を支給せざるべからず。果して然(しか)りとせんか、元来安逸(あんいつ。※なにもせずにぶらぶら暮らすことの意。)を貪(むさぼ)り労苦を厭(いと)うは生物の自然の性情にして、特に人類に至っては最も然るものあるが故に、自ら好んで労働に就くの愚を敢(あ)えてする者無かるべく、若(もし)万一社会的義務の観念よりして自ら好んで労働に従事する者ありとするも、斯(か)かる場合に於(おい)ては其怠惰なる者は自己の安逸を貪る能わざるが為めに、却(かえ)って勤勉なる者を抑制して、之をして労働に従事せしめず、結局全社会を挙げて怠惰、貧弱、困窮に陥らしめずんば休まず。而(し)かも斯(かく)の如きは単に勤勉なる者との間に於てのみ然るにあらず。智愚、強弱、勇怯の間亦(また)皆(みな)然り。斯くの如くにして彼等は生活の平等を行わんが為めに、啻(ただ)に(※単にそれだけでなくという意味。)貧富のみならず遂には智愚、強弱、勇怯をも之を平均せずんば満足する能わざるに至るべし。これ則(すなわ)ち個人の競争を杜絶(とぜつ。※とぎれることの意。)し、強(しい)て生活の平等を実現せんと欲する社会主義の論理の、当然帰着すべき結論たらずんばあらず。
斯の如く社会をして強(しい)て個人の競争を杜絶(とぜつ)し、生活上の平等を得せしめんと欲する結果は、政治上に於(おい)ては常に直與(ちょくよ)政体(※間接民主政(代議政体)に対する直接民主政の意。)に基く所の愚論に陥り、社会上に於ては恰(あたか)も水の卑(ひく)き(※低きの意。)に就(つ)くが如く、常に社会を愚、弱、怯、惰の低き平準に保つに至るが故に、到底個人の智徳の向上発展を求むべからざるのみならず、却(かえ)って其(その)智識は日に退歩し、人々各々一時の安(あん)を偸(ぬす)み(※盗むことの意。)、国家を監督するの智識、経験無く、行政官となるべき人材も之を得べからずして、随(したが)って官吏の私曲(しきょく。※不正の意。)を矯正(きょうせい)する能(あた)わず、文明の発展を阻(はば)み、社会の進歩を害し、遂に社会主義の桎梏(しっこく。※手かせ足かせで自由を束縛することの意。)の下に在(あっ)て、人類の社会をしてただ生活の本能のみによりて動く所の禽獣(きんじゅう)の社会と相(あい)擇(えら)ぶこと無からしむるに至らん。且(かつ)夫(そ)れ社会主義に於ては又共産主義を前提と為し、個人が資本を擁して自から事業を営むことを許さざるが故に、其結果は単に機械といい製造というが如き生産問題のみに偏して、財政を運用するの能力を養う能わず。為めに事業に関する智識、経験を缺(か)くの極(きわみ)、愚者は倍々(ますます)愚となり、終(つい)に国家財政の監督を為すの途(みち)を知らず、遂に社会主義の桎梏(しっこく)の下に在(あ)って、人類は社会の奴隷となり、呆然(ぼうぜん)としてただ目然(もくぜん。※「目前」の意味か?)の生活に没頭し、禽視獣息(きんしじゅうそく。※ただ生きているだけという意味の「禽息鳥視(きんそくちょうし)」と同義か?)の已(や)む無きに至る。
蓋(けだ)し人間の幸福なるものは単に衣食住の満足にのみこれ由(よ)るものにあらず。衣食住の満足の如(ごと)きは抑(そもそ)も末にして、人類に在(あっ)ては天賦の能力を研き、人の人たるの本分を盡(つく)すを以(もっ)て無上の幸福と為(な)さざる可(べか)らず。故(ゆえ)に曰(いわ)く天の命これを性といい、性に率(したが)うこれを道というと(※『中庸』の一節。天の命令により賦与された人間の本性を性すなわち生まれつきといい、この天性である善を自覚してこれを磨き、善に従うことが人の道だというような意味。)。所謂(いわゆる)性なるものは即(すなわ)ち人類天賦の能力にして、充分に之(これ)を発展せしむるは即ち性に率(したが)う所以(ゆえん)たるに外(ほか)ならず。例せば茲(ここ)に人在りて充分に其(その)体力を養い其膽力(たんりょく。※肝っ玉の意。)を練(ね)り、其智育徳育を全(まっと)うするは、則(すなわ)ちよく其性に率えるものにして、人類の至福(しふく)実にこのうちに在る也(なり)。而(し)かも之を為すには或(あ)る程度に於(お)ける個人の競争を必要とす。即ち人は社会の競争塲裏(じょうり。※範囲内という意味。)に出でて、世味(せいみ)辛酸を嘗(な)むるにあらずんば、到底天賦の能力を研き以て人の人たるの本分を盡(つく)すこと能わず。而(しこう)して斯(かく)の如く世味辛酸を嘗むるは即ち自から教育する所以にして、教育の機関は学校に在りと雖(いえど)も、之を全うするは実に家庭教育並(ならび)に社会教育に在るを忘る可からず。斯の如くして社会の水平線を各個人の自立自活に置き、其生存権を認め、そのこれに達するまでは社会は之を導き助け、既にこれを達したる以上は、之を各個人の競争に一任し、以て其自然の発展を遂げしむ。かくて勤勉力行(りっこう。※力を尽くして行うことの意。)の民は其能力を発揮して富安(ふあん。※豊かで安らかの意。)なる生活を為すことを得るも、怠惰無気力の民は其能力を発揮することを得ざるが為めに、貧窮なる生活に甘んぜざる可らず。而(し)かもこれ自然の賞罰にして、この自由ありて人は始めて真正の幸福を求めることを得べし。之に反して社会主義によりて個人の競争を絶ち、其個人性の発展を遏(とど)め(※押しとどめるの意。)、一切のものを社会化し、社会性に偏倚(へんい。※かたよることの意。)するの極(きわみ)は、遂に個人性の破壊、個人自由の撲滅となり、延(ひい)て社会の圧制束縛となるは極めて覩(み。※じっと見るの意。)易(やす)き道理にして、予が社会主義を以てそれ自身既に一個の破壊主義なりと為す所以(ゆえん)実に茲(ここ)に在り。故に曰く、権利は之を平等にすることを得るも、生活は之を平等ならしむることを得べからずと。ただ資本主義が自由の名に匿(かく)れて其則(のり)を超え、生活上の懸隔(けんかく)激甚(げきじん)にして、為めに人類の共同生活を紊(みだ)り、其安寧(あんねい。※社会が穏やかで平和なことの意。)幸福を害するに至らば、個人の自由を妨げざる範囲に於て、社会は之を救済すべきのみ。」
社会主義やこれと同根のフェミニズム等が理想とする社会は、幻であって、これが良く見えるとしたら、モーリシャス島の海の中の滝と同様に、錯覚にすぎない。
板垣が述べているように、それは、個人性の破壊、個人自由の撲滅、社会の圧制束縛をもたらし、文明文化にあだなす破壊主義なのだということを決して忘れてはならない。
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