子供の頃から、学校で「邪馬台国(邪馬臺國)」を「やまたいこく」と読まされてきたし、今でもテレビでは「やまたいこく」と読んでいる。
ところが、藤堂明保・竹田晃・影山輝國 全訳注『倭国伝』(講談社学術文庫。原本は、1985年に学習研究社から刊行された。)を読むと、一か所統一されていないところがあるが、「邪馬台国(邪馬臺國)」を「やまとこく」と訓じているので、大変驚いた。
訳者の3人は、いずれも歴史学・考古学とは無縁の支那文学者・支那哲学者だ。藤堂明保(とうどう あきやす)は、中国語音韻学者で、『学研漢和大字典』の著者として知られている。音韻学に基づいて、「やまとこく」と訓じているのだろう。
・ 同書に収録されている『後漢書』倭の読み下し文には、「邪馬台国(やまとこく)」(25頁)と訓じるとともに、現代語訳も「邪馬台国(やまとこく)」(30頁)と訓じている。
・ これに対して、同書に収録されている『三国志』魏書東夷伝の読み下し文には、「邪馬壱国(やまとこく)」※(95頁)と訓じているのに、現代語訳を見ると「邪馬台国(やまたいこく)」(107頁)と訓じている。
※ 「壱は台の誤り。」(95頁)
・ 同書に収録されている『隋書』東夷の読み下し文の場合には、「邪馬台(やまと)」(186頁)と訓じるとともに、現代語訳も「邪馬台(やまと)」(195頁)と訓じている。
「邪馬台国(邪馬臺國)」を「やまたいこく」と読もうが、「やまとこく」と読もうが、どうでもよいと思われるかもしれないが、これは大変重要な問題なのだ。
というのは、今はどのように学校で教えているのかは知らないが、私が子供の頃は、邪馬台国(やまたいこく)の後に大和(やまと)朝廷が誕生したと教わったけれども、もし「邪馬台国」を「やまとこく」と読むことができるならば、「邪馬台国(やまとこく)」=大和朝廷ということになり、大和朝廷の誕生が約300年遡(さかのぼ)ることになるからだ。
「台(臺)」は、呉音で「だい」、漢音で「たい」と読むので、本当に「邪馬台国(邪馬臺國)」を「やまとこく」と読むことができるのだろうかと思って、とりあえずWikipediaを見てみた。
この点、Wikipediaには次のように記載されている。
言語
魏志倭人伝 には31の地名(「倭」を含む)と14の官名、そして8人の人名が出てくる。これら53の音訳語は日本列島で用いられた言語の最古の直接資料である。これら3世紀以前の邪馬台国の言語の特徴は8世紀(奈良時代)の日本語の特徴と同じであることが、森博達らによって指摘されている[2]。その特徴とは
1 開音節(母音終わり)を原則とする。
2 ア行は原則として頭音にくること。つまり二重母音は回避されること。
3 頭音には原則としてラ行が来ないこと。
4 頭音には原則として濁音が来ないこと。
などである。こうした特徴が見出されることは現代日本語の基礎が邪馬台国時代にすでに形作られていたことを物語る。二重母音回避の規則性に従えば「邪馬台」を「ヤマタイ」と発音することは回避され、「ヤマト」あるいは「ヤマダ」等に発音されることになる。但し、同書には、八世紀国内資料から推定される発音と三世紀中国文書に示された地名、官名、人名の53語との連携は、不確実であることも示されている。
※[2] 森博達「倭人伝の地名と人名」(『日本の古代1、倭人の登場』、中央公論社、1985)
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発音
邪馬臺(台)
後漢中国語(当時の発音) *ja-ma-də[4]
現在「邪馬台国」は一般に「やまたいこく」と読まれる。この「やまたいこく」という読みは、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づいて音読したものであるため、魏志倭人伝の書かれた当時の発音を正しく表すものではない。上述の通り、当時の発音は"*jamadə"であったと推測され、これは仮名文字で表記すると「やまど」となる。しかし、当時の日本語では清音と濁音の区別がなくどちらも同じ音と認識していたため、当時の正しい発音は「やまと」となる。
※ [4] Bentley 2008, p. 11
念のため、根拠とされているJohn Bentley(Northern Illinois University · Department of Foreign Languages and Literatures Ph.D.)の『The Search for the Language of Yamatai』(Japanese Language and Literature · January 2008)という論文を読んでみた。
「邪馬臺 place name *ja-ma-dǝ>*-dǝɨ *yama-tǝ(ɨ)」とあるように、言語学的には「やまと」と発音することが推定されていた。
言うまでもなく、私は言語学についてど素人なので、この説の真偽を確かめようがないが、前掲『倭国伝』と一致する。
この説が正しいと仮定した場合には、「邪馬台国(邪馬臺國)」は、「やまとこく」ではなく、「やまとのくに」と訓じるのが正しいだろう。以前述べたように、平安時代までは「国」を「くに」と訓じていたからだ。
津田左右吉が神武天皇の実在を否定して以来、神武天皇の実在性が疑われ続け、例えば、山川出版の『山川日本史』には記載すらされていない。『日本史事典 三訂版』(旺文社)にも、神武「天皇は127歳で死んだというが、実在とは考えられず、史実ではない。」とされている。
しかしながら、「邪馬台国(邪馬臺國)」が「やまとのくに」であり、大和朝廷だということになれば、神武天皇の実在性がにわかに真実味を帯びてくる。
また、「邪馬台国(邪馬臺國)」の場所に関する九州説と畿内説の対立にも終止符が打たれる可能性が高くなる。
素人考えで恐縮だが、すべての銅鏡の製造年を鑑定し、発掘場所と製造年を日本地図に記載すれば、どこから分布したのかがかなりの確度で分かるはずであり、その結果、「邪馬台国(邪馬臺國)」の所在を実証することができるのではないかと思うのだけれども、なぜ誰も研究しないのだろうか。バイアスがかかっているのだろうか。それとも、ど素人の私が知らないだけで、すでに研究されているのだろうか。ご存知の方がいらっしゃったら、ご教示ください。
歴史学・考古学は、左翼学者の牙城であり、「天皇制を打倒せよ」という32年テーゼに基づいて学説(「珍説」・「妄説」というべきだ。)が形成され、我が国の歴史はマルクス主義により政治的に歪められ続けてきた。
「邪馬台国(邪馬臺國)」を「やまとこく」・「やまとのくに」と読むことについては、専門家や古代史マニアにとっては既知のことかも知れない。
しかし、門外漢である私にとっては、驚きであった。真っ赤に染まった日本の歴史学・考古学とは無縁の中国語音韻学者とアメリカ人の言語学者により突破口が開かれたことは、大変意義深いことだと感銘を受けた。
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