かつて日本にもあった追加・増補方式

 昨日1月3日は、元始祭(げんしさい。年始に当たって皇位の大本と由来とを祝し、国家国民の繁栄を三殿で祈られる祭典)が宮中で行われた。

 そこで、これに関連して、皇位継承などを定める皇室典範のお話をしようと思う。


 さて、ある法令Aを改廃するには、その法令Aを改正又は廃止するという内容を含む法令Bの制定によって行われる。


 法令の改正のやり方には、2つの方式がある。①元の法令Aには変更を加えずに、別に新たな内容を定めて元の法令Aの規定を上書きする法令Bを制定する追加・増補方式(アメリカ)と、②元の法令Aを改正する法令Bの制定によって元の法令Aそのものを変更する溶け込み方式(ドイツ、フランス、日本)がある。


 ①の追加・増補方式は、新たな法令Bの内容が明確である反面、元の法令Aの内容と新たな法令Bの内容に矛盾が生じた場合の効力関係が分かりにくく、また、何度も追加・増補されると法令の数が膨大になって法令の全体像を把握することが困難になる。


 これに対して、②の溶け込み方式は、元の法令Aそのものを変更する(元の法令Aの条文を書き換えてしまう)ので、現時点での法令Aの内容が一目瞭然になる反面、変更する箇所と変更内容を定めた法令Bだけを見てもどのような内容なのかを把握することが困難であって、元の法令Aと法令Bを見比べる必要がある。


 日本では、ドイツ・フランスを見習って、溶け込み方式が採られているが、おそらく唯一の例外が戦前の皇室典範だ。皇室典範の改正は、「皇室典範増補」という形で、追加・増補方式が採られていた。

 その理由は、勉強不足で不明だが、戦後の皇室典範は、法律にすぎないのに対して、戦前の皇室典範は、皇室の家法であるとともに、大日本帝国憲法と同格の憲法でもあったから(皇室典範と大日本帝国憲法をあわせて「典憲」と呼ばれた。)、溶け込み方式を採る他の法令との差別化を図るため、アメリカ合衆国憲法を見習って、追加・増補方式が採られたのかも知れない。その背景には、米国で憲法を学ばれ、大日本帝国憲法の起草に携われた金子堅太郎先生の影響があった可能性がある。


 とすれば、仮に大日本帝国憲法が一部改正された場合には、皇室典範と同様に、追加・増補方式が採られたのではなかろうか。

 ところが、日本国憲法の公布文に「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」とあるように、日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正という形で制定されているのに、「大日本帝国憲法増補」という形で、追加・増補方式が採られていない。

 しかし、これは、おそらく日本国憲法が、大日本帝国憲法の全部改正という形で制定されたためではないかと思われる。勝手な想像だけどね。昔の資料を丁寧に読み込めば、ひょっとしたら改正方式をめぐる経緯が分かるかも知れない。暇ができたら、調べてみようと思う。

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